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(連載113)自分の生まれた門司港での映画際:ロサンゼルス在住アーティストの回顧録:2021年


前回からの続きですが、映画祭に片っ端から応募し、なんとかいくつかのフィルム・フェスティバルに引っかかったって話でした。

日本のフィルムフェスティバルにも、応募の条件が合うのがないか、探していたところ、

特殊映画評論家の柳下毅一郎さん(昔からのお友達)が、

「ルンナさんの生まれ故郷でも、映画祭をやってるみたいですよ〜」と教えてくれたんです。

私は、

え〜〜〜?

(柳下さん、この場を借りて、お礼申し上げます。有難うございました!)


これには、驚きましたよ。
自分が生まれ育った、門司港での映画際なんて!!?

自分が実家にいた頃は、いったい誰が想像したでしょうか?

北九州市門司港というところは、戦後は港町として栄えたものの、私が中学生になる頃までに、だんだんと斜陽都市化していて、当時、祖父母や父母たちからは、「ここは昔こうだった」所だらけになっていました。

1914年に鉄道の駅の始発として華々しく建てられた、ルネッサンス風の門司港駅、対岸の下関に船で行ける連絡船、海底を通る関門トンネル、ギリシャ風の大理石の銀行、天皇様も訪れた能楽堂、ロープウェイ、花街、ビールや焼酎の工場などなど、活気に満ちておったみたいです。朝鮮や中国に近かったのもあり、いろいろな人が出入りしていたのでしょう。
母方の祖父などは、生前、山口の田舎から一旗あげようと思って、門司港に出てきたと言ってました。

ところが、高度成長期になると、徐々に流通などが小倉に移ってゆき、新幹線の海底トンネルも門司ではなく、小倉になり、次第に勢いがなくなっていってました。

それで、人も減り、そのころの建物が残ったまま、しばらく放置されていたのですが。。。

それが逆に、功を奏して、「レトロの街」として蘇った!のでした。
何があるか、わかりませんねー。
昔は門司港といっても、昔は誰も知りませんでしたが、最近は急に認知度があがってきました。

で、映画祭の続きですが。

そんな門司港での映画際!聞いた時は、最初、狐につままれたように感じましたが、それは本当でした。

ライジングサンという映画際ですが、当時、まだ初めてばかりで
サイトはこちらです。



へえ〜と思って、ロサンゼルスのプロデューサー女性にさっそくこの話をしたら

わ〜〜。ここで上映できたら、いいねえ〜〜。

ルンナちゃんに故郷に錦を飾らせてあげたい!!


と、彼女の姉御魂が、バリバリと刺激されて、
即、応募してくれた。

その際に、太字で

この主人公は、門司港出身で、門司港でも撮影しておりますので、是非よろしくお願いします!

と書き加えてくれました〜。爆笑

ここまでやって、ダメだったら、かなり絶望するとこでしたが、

しばらくして、返事がきて、

無事通過! ほっ!

で、もちろん上映するとなれば、お金は出なくとも、帰国いたします!!とお返事させていただいた。


この事を知った東京の妹は、「よかったね〜〜!!」

これは、お父さんが呼んだんだね?!

となったわけですよ。苦笑

おりしも、父が亡くなってからちょうど1年経っておりました。


それで、このドキュメンタリーは、生前の父も出演しているし、父の友達やお世話になった方々にも見てもらいたいよね!!!と、ふたりで盛り上がり、

どういうふうに門司港でプロモーションするか?と、ない知恵を絞って、ひたすら考えました。笑

父の友人関係といっても、我々からしたら、ほとんどが知らない人です。
どのくらい親しい関係だったのか?なども、今となってはわかりません。
ましてや皆様は、高齢でメイルやラインなど、やってない世代ですから、どうやって連絡する? 郵送?? ハガキ? 苦笑

で、思いついたのが、父がよく行っていた喫茶店(カフェ)もやっているギャラリーが門司に2軒あり、父はそこで小さな展覧会をやり、友人と集ったりしていたので、そこに、ご挨拶がてら、伺ってみようと思った。

そしたら、妹が、チラシを作った方がいいね〜。というので、

妹の会社のカラーコピーで、切り貼りで(笑)
父の写真の入ったオリジナルのチラシをわざわざ作った!笑

左下が、父と映画監督のジェフ。当時、そこのギャラリーカフェで撮影したもの。


高齢の方にもわかりやすいように、会場も、普通の映画館ではなく、昔倉庫だった場所なので、わかりにくいかもしれん!と思って、詳しく、地図をコピーして載せ、大きい文字で書き、くっつけた。

そして、いよいよ北九州へ!!

小倉駅にて。
このイベントの一環だったらしいです。

そして、ご挨拶に伺ったギャラリーカフェは、2軒とも、ものすごくナイスに迎えていただいて、嬉しかったです!!

さっそくの手作りのフライヤーも、置いてもらい、別の日に前を通りがかったら、お店の外までにも、張ってくれてました。感謝感激!!


そして、いよいよ、当日がやってきた!!

会場は昔ビール工場だった建物。。。人がくるかなあ?


その結果は!!

これでした〜〜〜!!



プロモーション頑張った!笑

父の友達が本当にたくさん来てくれました。
絵の生徒さんだった人や昔の学校時代の生徒さんなど。
涙が出るくらい、うれしかった!


写真を切ってつなげました。パノラマでとればよかったのに!と後で気がつきました。



一番驚いたのは、私が生まれた時に両親が借りていた家のおおやさん!!
まだお元気で、来てくださったのだった。笑

父関係のほかにも、未だに付き合いのある高校時代の友達が、もうずいぶんと会ってなかった同級生など引き連れてきてくれ、心強かったです。

本当に、門司港は、情が分厚い!!


ありがとう。
ありがとう。
ありがとう。

他にも、柳下さん、ご本人とあいこさんも登場!!

また、こちらは東京からの妹夫婦と熊本、京都、岐阜からわざわざ来てくれたとキャラ濃いめの仲間たち。笑


そして、上映後のインタビューも終わって。

中国と日本のハーフの子供達がお花を持ってきて舞台に現れたの図


こちらはファミリーがお祝いしてくれたケーキ!!

今、こんなのが出来るんですね?びっくり!



また、数日後の映画祭の最終日に、「賞」を発表するというのがあり、

〜なんと、私は、賞をもらったのだ!

正確には、映画じゃなくて、私個人が。笑 ですが、、、、。

どんな賞か?

主演女優賞???

あ、あのね、、、、、いくらなんでも違います!!! ってば。笑


((( ひまわり賞 ))) ってやつ でした。

なんの賞かというと。
いわゆる努力賞ってやつです。がんばりましたねーって。

ぶっちゃけ、私の場合、何に努力したのでしょうね?
あ、「自分でいる事」か? 笑

どこまでも自分でいて、おめでたい賞!

「なぜ、ひまわりなんですか?」って聞いたら、ひまわりは、北九州市のシンボルの花らしい。って、こん時に、はじめて知りました。

でも、この「ひまわり賞」は、思ってもなかった事だったので、とても感激しました!! 
そもそも、賞なんて、まったく縁がない人生なのでね。汗

すぐに、プロデューサーに報告したら、
ルンナちゃんには、故郷に錦を飾ってもらいたかったので、これで、私の肩の荷がおりたわ!

と、安堵しておりました〜〜。


修復後、未だに当時の面影を残す、美しい門司港駅。

昼間なのに、がらーん。


門司港は、自分がいた頃とは、もう様変わりしました。
先程も申しましたが、栄えた頃の古い建物がたくさん残っていたので、
駅の近くのおしゃれな「レトロ地区」は再開発されたものの、
それは表舞台だけです。

裏では、ワンブロックはずれると、もうシャッター街です。
人口も昔に比べるとかなり減りました。

もう半分以上の学校がなくなりました。
小学校はかろうじて残ってましたが、自分の行っていた高校もないし、中学も合併しました。

そして、もう、父も母もいません。
自分が育った家も、もう、ありません。

何もかもが変わりました。

ただ、駅からその実家までの、昔からの路線のバスだけは、今でもありました。
昔と同じように、バス停があって、バスが来て、

田ノ浦行き

って、書いてあり

それを見た時、、、、、胸がいっぱいになりました。

このバスだけは残ってたんだ。

いつもいつも乗っていたバス。
学校にいくのも、遊びにゆくのも、どこにいくにも乗っていたバスでした。

このバスに揺られながら、自分は大人になった。
毎日の同じ風景に重なる、なだらかな自分だけの物語。
言い訳、反抗、約束。

膨大な子供の頃の思い出、補助線だらけの家族との時間。
いい事も悪い事も雨のように降り注ぐ、記憶のある場所。

そこにたどり着くための
バス、、、、だけは、まだ残っていたのだった。


その昔、このバスに乗って、私は実家を出た。

田の浦から門司港へ。
そして、
門司港から東京へ。
東京からアメリカへ。

父が「飛行機を見ると私を思い出す」と言ってました。

そうやって、大空に羽ばたいていった娘への思いを乗せて

私のいなくなった街を、

バスはまだひたすら、走り続けていたのでしょう。


バスはバス停に立っている私に気がつかず、出発してしまった。
そして、そのまま遠く遠く、小さくなって消えていった。

それを見届けた私は、

向き直って、、、

また、飛行場へ向かうのだった。


まるで、他人のように、、、。

L*


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