建設的な議論をするために:言葉の「定義」に注意を払う
グローバルなコミュニュケーション能力とは何か?
日々、世界中から様々なニュースが流れてくる今、言葉の定義について、調べ直すことがあります。先日もイスラエルで起こっていることを説明する時に、ところで「パレスチナ人」の定義は何だろう、と思いました。
ユダヤ人・アラブ人・パレスチナ人・イスラエル人
パレスチナ人は、日本人が自明のものとしている「(国民)国家」を持たない国民なのですが、「国民=国家」が普遍的だと考えている日本人には、なかなか理解しがたいようです。また、言葉の定義は、実に多様で、かつ「権力性」を帯びていることも事実です。
言説とは何か:「伝統」の定義
しかし、言葉の定義を「限定」しないと、議論は始まりません。また、これまでに何度か開催しているワークショップ「批判的思考力を鍛える」でも、一部取り上げていますが、ある課題について考える時に、次のような問題を抱えている人を見かけます。
例えば、①「事実」と「意見」の違いが分からなかったり、②その人が考える「定義」が、現実の運用と乖離していたりする、などもよく見かけるケースです。②の定義に関する問題を「自己流」で処理してしまうことが、議論が噛み合わないことの理由でもあったりします。
ワークショップ「批判的思考力を鍛えるー内容を刷新!」第6回 |Global Agenda
また、専門分野でも異文化間で同様の言葉(用語)について、定義や解釈に大きなギャップが存在する場合があります。これについては、別の記事でより深く議論したいと思っていますが、まずは、「社会」という言葉の定義が持つ問題について、考えてみたいと思います。
「社会」という言葉は現代を理解するために欠くことのできない用語です。しかし、この西欧で発達した概念が日本に導入され、日本語に翻訳された明治時代、その言葉の本来の定義は、日本の当時の状況とあまりマッチしていませんでした。
society
また、その後、「社会」という言葉が、日本で独自の発展をしたので、社会の「定義」が混乱するケースが多いようです(例:社会人、社会人入試等)。英語圏で使われる「Society」の本来あるべき姿や意味と日本語での運用のギャップがたいへん大きい、といつも感じています。
研究者同士の場合、議論を始める(論文を執筆する)時に、「定義」を共有するのは「あたりまえ」すぎる話ですが、一般人の場合、これを意識している人はかなり少ない、と思います。そして、たとえ、専門家であっても、自分の専門外の課題について、公の場で情報発信する時(TV番組でのコメントなど、日本では非常に多い)や、日本とその他の世界で言葉の定義に大きなギャップがある場合には、たいへんやきもきさせられます。そして、こういうケースでは、たいてい議論が迷走しており、意義のある結論にたどり着けていません。
先日、「英語で学ぶ大人の社会科」のワークショップを終えたばかりなのですが、「科学」と「技術」という、二つの言葉の定義も日本では混同されるケースが多いようです。
Science and Technology
この二つの言葉は、本来全く違う概念なのですが、日本では「科学技術」と一緒くたにされて理解されていることが大半です。そして、そうなった理由は日本の近代化における科学技術の発展史と大いに関係があります。
Science technology and society contemporary Japan
日本人が英語の習得に苦戦している理由の一つに、日本語と英語の言葉の定義のギャップがあると思います。また、建設的な議論をするためには、いまいちど「言葉の定義」について、じっくり考える訓練が必要でしょう。このテーマについては、今後も発信を続けていきたい思います。
【英語で学ぶ大人の社会科】世界の知性が語る現代社会
資料
クリティカルシンキングを実践するために質問力を鍛える
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