シミ(短編)
気がつくと真っ黒な通路らしき場所にいた。天井に設置されている蛍光灯から白い光が放たれているのにも関わらず、その場所はとても真っ暗だった。自分の手を横に広げて壁の長さをなんとなく把握してみる。そこは大人2人がすれ違うことが出来るくらいの幅を有していた。長さについてはよく分からない。なにせ自分の手を視認できないくらいの暗さなのだ。遠くの方は全く見えない。
通路であるというのは憶測だった。手を広げたら左右にある壁に触れたが、前後には壁らしい壁はない。加えて、わずかに空気が流れているのを感じることが出来る。よって、ここはもしかしたら通路なのではないか?という予想を立てているに過ぎない。
妙に落ち着いてるように思われるかもしれない。しかし、やっぱり目覚めた直後は混乱していたと思う。自分がいまどのような状況に置かれているのかを真剣に考えるよりも先に、ここはどこなのかだの、これは現実なのかだのと、無意味で答えが出なさそうなことばかりが思い浮かんだのだから。
確か俺はお客さんと会うために草加市氷川町辺りを歩いていた。そして・・・そこから先の記憶はなく、次に見た景色がこの真っ暗な通路ような場所だった。記憶が大分と断片的なものになっている。
混乱の後で、思考が回り始めると、自分が身をおいていたはずの安心できる日常が、一瞬で奪い去られてしまった事に気づいて深く絶望した。そこから先は単純だった。絶望していても始まらない。とにかく状況を把握して、それからどうするかを考えよう。そう思い、今に至るのだ。
どうしていくかと考えていると、だんだんと目が慣れてきた。白い光を放つ蛍光灯が効果を発揮しだしたのかと思ったのだが、どうやら光は関係がない。ここは白と黒が独立して蠢いている世界なのかもしれないと俺は思った。僅かだが、色を識別できるようになってきた。どうやらこの場所は、床にワインレッドのカーペットのようなもの敷かれている。サイドの壁の色は灰色のように見える。俺は、光が届かない闇の中で色を認識出来た事に安心した。しかしそれと同時に少しの不気味さも覚えていた。
いや、俺が不気味だと感じた理由は色の認識ではないかもしれない。それはひょっとしたら、床に敷かれたワインレッドのカーペットのようなものが、まるで血を吸いこんで出来たように感じるからだ。
「はぁ、」
あえて吐く息を声にのせてみたのは、自分が今ここにちゃんと存在しているのかを確かめるためだった。ここまでの状況判断が頭の中で思ったことなのか?それとも声に出していたことなのか?を掴んでおきたかったからだ。黄泉とはこういう世界の事を指すのかもしれないと思った。いや、これは声に出ていたのだろうか?
「少し歩いてみるか」
俺は思ったことを声に出すと決めて、状況を前に進めていくことにした。背中を伝う汗は冷たくて鮮明だ。それは、俺がまだ生きていることを証明してくれているような気がした。
冷たい汗が単純な汗に変わり始めた頃。俺は、自分がこのよく分からない場所に慣れてきたことを悟った。
今、自分は前に進んでいるだろうか。それとも、後退しているのだろうか。それはわからない。どれくらい歩いたのか?そもそも今は何時なのか?それも分からない。でも、不安はない。それは慣れてきている証ではないだろうか。とはいえ、いい加減目印になるものが欲しいと思うようになってきた。
歩いている間に、わかったことが沢山ある。この通路、右側に一定間隔で台が設置されている。台の上には浮世絵が描かれた花瓶が置いてあった。それはいつも同じ絵が描かれた同じ大きさの花瓶だ。花瓶には毎回花が生けてあり、その花の色は黄色だった。
「赤いマットに黄色い花」
なぜかは分からないが、覚えておかないといけない気がした。だから声に出して脳に記憶しようとしている。
不思議な気持ちなのだが、この花を見ると安心する。1つ、また1つと、花の黄色はどんどん鮮やかになる。明るい色になればなるほど、俺の心は晴れていった。
しばらく歩くと、滑車を引くような音が聞こえてきた。カラカラという乾いた音なのだが、耳を澄ますとそれ以外の音も聞こえた。口笛のようだった。
口笛は、Billy JoelのHonestyという曲を奏でていることが分かった。
俺がまっすぐ進んでいくと、カラカラという音と口笛の音はどんどん大きくなっていった。先程まで気にならなかったのに、音が大きくなるにつれてだんだんとその音と向かってくる得体のしれない何かに対して恐怖を覚えた。なにせ向こうは、まったく一定のリズムを崩すことなくコチラに向かってきている。こんな不思議な場所で、こんな真っ暗な場所で。それはこれから向かってくる何かが、この場所に存在する何かであることを表しているようではないか。
「これ以上先に進んではいけない」
俺は小声でそう発してみた。俺が取れる選択は3つ。
ここをまっすぐ突き進む
全力で引き返す
目の前にある花瓶を置く台に身を潜め、死角から正体を探る
だ。
一瞬急激に引き返したい欲求にかられた。それは実に不思議な欲求だった。戻ったら気持ちがよくなる。引き返せば楽になれる。引き返すことで立ち止まれる。そんな考えが大きな波のように俺の頭を通り過ぎていくようだった。そして、1つ1つの生まれた考えが頭を通り過ぎる度に、俺は今まで感じた事もない快楽のようなものを覚えた。それは、実際に来た道を引き返すことで完成された快楽になる。なぜそう言い切れるのかは分からないけれど、そうに決まっているのだ。
俺は訪れる気持ちよさに耐えられなくなり、来た道を振り返ってみた。振り返った先には先ほどまでとは比較的ないくらいクロに黒を重ねたかのような果てしない黒が広がっていた。
その黒を見た瞬間、なぜか分からないが俺の後頭部が痛み出した。そして、その痛みを覚えた瞬間「戻ってはいけない」という今まで通り過ぎていった快楽をひっくり返すような衝撃が全身を駆け巡った。
気づいたら、俺は全力で口笛の方へ走っていた。口笛は同じテンポでHonestyを奏でていた。息があがる。足がもつれる。それでも俺は「うぉおおおお」と大きな声を上げながら構わず口笛の方へ向かって走った。
正体を見た。それは、ホテルのボーイのような格好をした人形だった。その人形は台車をおしていた。からからと音を立て、口笛の吹きながらバーボンを運んでいた。一瞬だけその顔を見た。それはピエロのような化粧をしていた。俺は奴から嫌な気配を感じ取った。やつの目はサファイアのような青い光を放っていた。
ここは大人が2人がすれ違えるくらいの通路。奴に捕まる確率は高い。でも俺は、ここを走り抜ける以外の方法を考える余裕を持ち合わせていない。というより、もう戻ることは出来ないのだ。
「うぉぉぉおおおお」
pれは全力でピエロ人形にタックルを決めた。俺がタックルしたことでバーボンの瓶が台車から落ちて激しく割れた。その直後、ピエロの人形は、まるで黒ひげ危機一髪でハズレをひいたときのような勢いで四肢と首が飛んだ。先ほどまでサファイヤのような青い光を放っていた人形の目は、いつの間にか真っ黒になっていた。その目は、先ほど俺が振り返った時にみた黒に黒を重ねた終わりのない黒をしていた。
人形の奥に真っ白な光を見た。俺はそこに向かってひたすらに走った。吸い込まれそうな真っ白な光の中へ、ただがむしゃらに、後頭部の痛みを忘れて走ったのだ。
気がつくと、白い天井が見えた。自分の周りで女性が慌てているのがぼんやりとした頭で理解出来た。
しばらくすると意識と現実の焦点があってきた。白衣を着た男が、俺に向かって声をかける。
どうやら俺は、襲われた場所とは全然違う、路地裏のような場所で倒れていたらしい。頭から血を流しながら。
まぁまぁな重症だったようで、2日間も寝ていたようだ。
たまたま通行人が救急車を呼んでくれたから良かったものの、もう少し発見が遅れていたら、助からなかっただろうと医者から言われた。
結局、あの場所のことは何も分からなかった。夢にしてはリアルだったし、ちゃんとした手触りもあった。
何よりも、夢から覚めたという感覚より、無事に帰ってこれたという感覚のほうが強かった。それはあの場所が、俺にとってリアルだったからだと思う。
俺はベッドから起き上がり左に視線をやった。壁には、俺が襲われた日に着ていた洋服がかかっていた。ふと目を凝らすと、身に覚えのないシミが付着していた。
そのシミはバーボンによるものだった。
俺はそのバーボンによるシミをボーっと眺めながら、看護婦が気晴らしにとかけてくれたラジオから、今日起こった事件に関する報道を聞いた。
その報道は、俺が向かうはずだった会社の人間が逮捕されたことを知らせた。俺は無事、自分の世界に戻ってこれたのだった。