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令和の北前船 2022夏 DAY8-2 越後 英雄たちの選択

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春日山城

糸魚川のお隣、上越市。
直江津の港を見下ろす高台に「越後の龍」こと戦国の名将上杉謙信の居城、春日山城がある。
麓から登り、じっくりと山城を堪能してみた。

上杉謙信像
謙信の旗印「毘」があちこちに

城趾入口には「御前清水」。
謙信が出陣の際に飲んでいたといわれる水。山頂には井戸も発見されており、山城ながら水利には優れていたそう。

標高の割に巨大に感じる春日山城。
戦国期たけなわの頃の城ということで、無駄なものが一切ない常時戦闘向けといった印象を受ける。

登っていくと麓の頸城平野が一望。
空を見上げると関西方面へ一筋の飛行機雲が。「お屋形様…上洛も容易な時代になりましたなあ…」と思いながら坂を登っていく。
謙信は生涯に2度上洛し、室町将軍や天皇にも拝謁している。荒くれ者の多い戦国武将としては異例の、深い教養を備えた人物であった。

謙信の時代、越後は今ほど豊かな穀倉地帯ではなかったようで特産品としては青苧(あおそ)と呼ばれる麻糸の原料があった。
これらの貿易を行う直江津の港を抑えていたことが上杉軍の強さを支えていた。

毘沙門堂

本丸のあった山頂には「毘沙門堂」。
戦の前、謙信はこの堂に籠って策を練り勝利を祈願したとされている。
謙信は自らの軍を「降魔(悪魔を降ろす)の軍」とみなし、「毘」の旗を掲げ、49年の生涯を戦に費やした。しかし、初期の越後国内の内乱以外では自らの領地である越後を戦場とはせず、「義」を掲げて関東や信州など各地の戦場へ援軍に赴く様は無慈悲な殺戮者というより、ある種の哲学者や芸術家を見ているようでもある。

謙信の本名は長尾景虎。
越後守護代長尾家に生まれ、後に関東管領上杉家から上杉の姓を賜り、自ら出家して「謙信」と号する。

毘沙門堂の前で佇んでいると、後世に軍神として語り継がれる「上杉謙信」というよりは、孤独な青年武将「長尾景虎」の姿が浮かんでくるようであった。

立地的に越後は三方を山に囲まれ、1年の半分は深い雪に閉ざされる。この雪国が育む助け合いの精神のようなものが、越後に代々非戦を唱える英雄を生んできたのだろうか。
そうした過酷な条件の中、謙信は当代最強を謳われながら加賀手取川にて織田軍を撃破した天下統一の目前、49歳の若さでここ春日山にて帰らぬ人となる。
死因は酒が原因とされているが、能力に溢れた武将ながらこれだけの地理的なハンデを背負っている。酒でもあおらなければ、行き場のない思いを昇華することはできなかったのではないか。

山の中腹にある春日山神社には謙信が祀られている。風格たっぷりな社に手を合わせ、春日山を後にした。

麓から見た春日山城

山本五十六

上越を後にして一路長岡市へ。
花火で有名なこの街に、かねてから訪れたい場所があった。

連合艦隊司令長官 山本五十六。
記念公園には復元された生家と胸像がある。

公園の周りの道はクランク状になっていて、これはかつての長岡城の堀の跡であるらしい。


「普段の生活のなかでも、非常時に備えて生活すること」を意味する「常在戦場」。
この4文字は、長岡藩士にとっての精神規範であり、
五十六自身も他人に揮毫を頼まれた際は好んでこの文字を書いた。

山本五十六記念館

生家から道路を挟んで質実剛健とした記念館。 撮影は全て禁止なので文章のみ。

展示されている五十六直筆の書を眺めていると、「こんなに字が上手い人いるんだ…」と素直に思う。筆跡一つとっても実直な人柄が偲ばれ、最後のサムライの姿を見るようである。

展示エリアの中心には、ソロモン諸島沖で撃墜されたときの搭乗機の左翼と長官席がある。長官が乗るにしては非常に狭い席である。
海軍屈指の開明派として石油や航空に一早く注目し、自費で海外の油田や飛行場に何度も赴いている。周囲の雑音に負けずに、最新の技術を吸収する重要性は理工系学生として身に沁みるものがある。

真珠湾を指揮した連合艦隊司令長官でありながら、開戦にはあくまでも反対だった。
春日山の上杉謙信同様、越後が生んだ非戦の英雄であった。
国大なりといえども闘いを好めば必ず亡ぶ。天下安しといえども戦いを忘なば必ず危ふし。」という五十六の言葉で記念館の展示は終わっている。

五十六の唱える「非戦」は今の時代も重く響き続けている。

河井継之助

長岡を語る上で山本五十六と並び称される人物がいる。この人物を語らずに、歴史ファンとして越後を去るわけにはいかない。

長岡藩家老 河井継之助。

一般的な知名度は決して高くないが、司馬遼太郎の長編小説『峠』の主人公としてその名を知られる幕末の風雲児である。

戊辰戦争の局所戦である「北越戦争」において長岡藩の指揮を取り、新政府軍
と激戦を繰り広げた。

継之助が使用したガトリング砲のレプリカ。当時としては最新鋭のこの機関銃を継之助自ら操り、一時は長岡城を奪還するなど善戦した。
長岡藩軍旗のレプリカ

戊辰戦争において多くの東国諸藩が恭順か決戦の二者択一を迫られる中、継之助率いる長岡藩は「武装中立」という第三の道を取った。
結果的にこの選択が長岡の地を火の海にしてしまったことから後世の目線から賛辞を贈ることは難しい。しかし、多くの藩がことなかれ主義で無難に動いたのに対し、時代の大転換期に独自の道を模索したことは大きな価値がある。

継之助自身、当時としては先見的な考えの持ち主であり、「戦争などなければ汽船を揃え商人を増やして長岡をもっと豊かにしたい」という本音を持っていたらしい。

しかし、時代は継之助に明治の近代化を進めるプレーヤーではなく、徳川家譜代長岡藩家老としての選択を求めた。

継之助には、長岡七万四千石は小さすぎた。

河井継之助の歴史は、歴史の渦に呑まれていった側の歴史である。
もし長岡藩ではなく薩長に生まれていれば、明治の元勲として大活躍したことだろう。この言葉は、惜しくも敗者の側にならざるを得なかった全ての幕末維新のプレーヤーたちにささやかながら贈る言葉である。

理想が叶えられなかったとき、自らの生き様を「美」に求めた継之助の生き方は今の時代の価値観では受け入れがたいものかもしれない。
しかし、そこに人は「最後のサムライ」の姿を見るのである。

上杉謙信、河井継之助、山本五十六、そして私は田中角栄もそうだと思っているが、越後が生む大人物は当代に比類なき能力を持ち、非戦を唱えながらも最終目標まで後一歩のところで道半ば、勝ちきれない歴史がある。
それはどうしてなのか、この主題とともにこの旅の最終盤に新潟を旅した。
新潟の独特な風土が育む人情に鍵があるのか…と考えているが、僅か1日の滞在で納得のいく答えは出せていない。
とはいえ、歴史好きとして長年訪れたいと熱望していた場所をゆっくりと巡ることができ、充実した1日だった。
同じ北国だからか、どこか北海道に似て広い空と海と大地の新潟県が好きになった。まだまだ巡ったことのないスポットばかり。再びじっくりと訪れてみたい土地だ。



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