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昔の友は今も友 俺とお前と(ゴン ゴン)カイザー・ソゼ

これも映画の感想です。ヘッダ画像をお借りしています。アメリカン・ビューティです。

アメビュ(もちろん、アメリカン・ビューティーの略称です)は出てくる奴出てくる奴いかれてて、その人々について話してればそれだけで映画の多角的な感想が仕上がってしまうほど。

とは前回もお話したとおりです。

さらに前回はケヴィン・スペイシーがつとめる主役の変さも書こうと思ったんだけど、話が進むにつれてケヴィンがくそまともであることに視聴者が気づいていく仕掛けっぽいのも相まってどんどんケヴィンに同情するしかない。ユージュアル・サスペクツんときとの「引き込まれ感」の種類の差がすさまじい(どちらも引き込まれるという意味)。ただただケヴィン・スペイシーがすげーんだなという幼稚園児なみの感想を抱いてしまう。

最初は徹底的に「友達にはなりたくない感じの中年」みたいに描写されたんだと思う。広告代理店?で営業をかけたりしてる……のが結局ケヴィンの役割だったんだかどうかわからないけど、それで娘にも奥さんにもきちんと会話しないで誤解されるだけのかわいそうな男だった。もうそれぞれ自立しても生きていけるはずの家族なんかのために朝おそろしくはやく起きて、くそみたいな電車に乗り、あるいはごみみてえな道路を運転し、鳴り物入りの一回りしたぐらいの人事コンサルに営業成績の不調を叩かれ、こうまでして働いているなんてだけで称賛されるべきなのに。

それが娘の行事の応援に行って、娘の友だちの性的魅力にひかれて粉かけようとして……こう書いてみて思うけど、ここでもはや視聴者はドン引きしてしまうのかもしれない。娘の友だちを自分の女にしようとする場合年齢差はどれぐらいだろう?20いくか行かないかぐらいか。

一方でぼくは別に尊敬できあったり、生業とかにしたいことが近いなら年齢差で人を見ることほど情けなく馬鹿らしいことはないと思っていて、別にアメリカをそんな好きじゃないけどまず言語に敬語文化など取り入れて無くて、上司も部下も年齢も気にしないで同位置から話せる部分だけは全世界が見習わねばならないと信じている。

日本は生まれた瞬間に上下関係を矯正させられるわけです。学校に通おうが医師に会おうが、何をするにも上下関係がある。

教師と生徒だろうがためぐちで話すべきだし、上司と部下なんて言うまでもない。取引先やアクティビストにだってためぐちでいいのだ。

下手に出る、なんて単に媚びてるだけでしかない。尊敬の意を示したいのであれば、別に行動で示せばいい。つまりその人の行動を踏襲してみたり、その人の理念に基づいて行動しましたみたいな結果を出せばいい。別に業績が良かろうが悪かろうがそれもどうでもいい。敬語話者にとって大事なのは気持ちなのだろうから。「あ、俺って尊敬されてるな」というみみっちい担保がほしいだけなのだろうから。

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