なんでも卑猥に聞こえる脳は感受性が高いのか性欲が高いのか
細部まで書いてしまうと本人を特定してしまうので非常に表現として言いづらいんですが、超激烈有名人のSNSにおける書き込みを引用している形でリブログしている人の中に「偶然生まれたある単語」を性器の名称のようであるからそれを著名人が投稿するのはまずい、みたいな杞憂をされている方がいた。
ぼくはそれを見た時に「こいつの性欲は無尽蔵なのか?性に囚われ民族がよ」と思ったんですが、流石に短絡的すぎる気がするので多少考えたい。
まず物事に名付けられた名詞たちが性にしか見えない場合とはどんな時か?
やっぱり頭の中に性しか残っていない時なのではないでしょうか。ただそれがいつかを定義するのは難しい。多くは小学校時代、しかも男であると仮定するものの、顕にしても吝かではなくなるつまり共通言語となりうるのは中学生じゃないんだろうか。
13歳になり、性を自覚した男が性の成り立ちについて知る。そして当該単語だったり正式名称だったり、俗称なりを知る。俗称は一般的にその名称を知らないまま成人して死を迎えて欲しいと親御が思う単語が多く該当するようにぼくは思います。
ただ、発するには勇気がいる。性に囚われていることへの罪悪感は性の芽生えとともに表出することを一般的だと仮に定義するのであれば。
そこで、実際に自分が性に関わる単語を発生できるようになるまでには少しのインターバル期間を必要とするでしょう。つまり、「当該単語を発している自分」を想像することであり、その先では「当該単語についての知識を有する自身を社会に表明する」「当該単語を備えつつ、それを自由に人前で発信することへためらいを持つべきか否か」をも想像しなければならない。
デジタルネイティブ層にとっては、ソーシャルメディア空間で自己をどのように位置づけるかも見逃せない点です。といいますか本文の論点はそっちですね。現実でエロ単語を言える様になるのが先か、SNSで言えるようになるのが先か。
ぼくはここで、現実で当該単語群を使い倒せるようになってからじゃないと言えないんじゃね、と短絡的に考えていましたが、SNSとの出会い、アプローチは千差万別である。親や学校教育に左右されると言ってもいいでしょうか?
ペアレンタルコントロールが付随しないデバイスで、つまり監視を貫通したメディアに出会うってことは「信じられない数の膨大な前例」たちと出会ってしまうことも意味します。
そこには自分が目立ちたいがためだけの誹謗中傷を繰り返すおっさんだったり、極端なことを言って少しでも他者とのうわべだけの格差を表そうとするおっさんだったり、汚言症のように猥雑な単語を隠しなしで発出することでためらいのない俺かっこいいだろと勘違いしたおっさんたちがいる。そしてそれをスタンダードだと思ってしまう。あるいは、それぐらいしてもええんや、とか思ってしまう。
義務教育期間の人間は学びに特化しています。つまり真似事が非常に得意である。イコール前例があることは踏襲してもいいという理解をする。それは日本文化=前例文化だからかもしれませんが、今は関係ない。
この理論だと悪目立ちしたがる大人が悪いってことになりそうですね。
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