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どうしてインターネッツだと極端な(≠強い)言葉を使いたがるのか

ヘッダ画像をお借りしています。SNSには不快のお裾分けをしてしまう人がいるし、その内容とは得てして独善的な正義に基づいた何かへの攻撃である。というお話の続きです。

なまじ識字能力があることの瑕疵について

音声メディア、映像メディアを攻撃の道具に使うことはあまりない。攻撃対象は文字しか使わない、見ない(音声・映像がSNS上で送りつけられたとて、ファイルを開かなければいいだけの話)だろうし、何より文字のコピーライト能力は凄まじい。

なまじ学習水準が上がった国において、識字能力はほぼ満遍なく備わることとなった。むしろSNSとは活字特化型メディアとさえいえるため、SNS利用者は識字能力なんてあって当たり前である。

識字能力があるということは、一瞬でそこに貼られた言葉の意味が理解できてしまうことでもある。

自分に向けられた怨嗟の言葉であろうとも、一瞬で理解できてしまう。音声よりも、映像よりも、絶大に被攻撃者の心に突き刺さるでしょう。

ネットスラングは攻撃特化型

そこで前回の終わりに少し触れたネットスラング的なものまで持ち出される。

ネットスラング生成の背景、特徴として

・匿名性が強い場所では他者より目立ちたいと思う人がいる
・場末にいながらにして「俺は場末にいる連中とはわけが違うのだ」と考えてしまう
・一瞬で相手との格の違いを見せつける効能がある(実際には格差なんてなければ、同じ場所にいる相手なら永遠に自分と同じ立場でしかない)、恐ろしい、威圧的な単語が必要だと思う
・つまり極端であればあるほどいい。0か100
・当該単語で自分以外すべてを見下せるのであれば、結果的に目立ったことになる
・みたいな背景で生まれたものがスラング化する
(前回noteより抜粋改訂)

ネットスラングとは、簡単に、かつ恣意的に「他者と違うのだ」「極端なのだ」「目立てて嬉しいのだ」「パークの危機なのだ」を簡単に示せるツールだと「他者を攻撃する」という視点から定義します。パークの危機は嘘です。

自分が居るフィールド(匿名的な場所、SNS等)とは、文字しか使えない場所である。まさにそのフィールドで使うことを約束されたようなネットスラングというツールが手に入った。すると……

戦意喪失のために

識字能力があるという前提があるからこそ、「一瞬で相手の戦闘能力を奪う、戦意を喪失させられる言葉を突きつけてやれば俺の勝ちだ」という思いが働く。まず戦うな

並べられた言葉は圧倒的事実(たとえ嘘八百だとしても、そんな嘘をついてまでインターネット上で全世界に向けて自分の評価を落としたい、自分の人格を否定したいと思っている生き物が目の前にいるという事実)になるんですよね。だから強い。

これはぼくがあまりに言葉の力を信じすぎていることに起因しているだけかも知れません。もちろん信じている内容は人を攻撃するためにではなく、ポジティブにです。だけど、それだけに裏を返せば上記の通りネガティブなことにも使えてしまうのでしょう。

上記で述べたような人々は、相手が寄越してきた言葉を見て、絶対にそれより強力な言葉で返してやろうとする。前段落の「極論思考」でもはたらいているんじゃないでしょうか。


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