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「推せる」だとキチーけど「愛せる」なら許そう(JOKER感想)

これは映画ジョーカーについての感想なんだけど、こんな木っ端のアカウントが書く文をわざわざお読みに来られたかたなのであれば、許せるという単語もそっちはそっちで偉そうだなオイと思われたのではないかと捉えています。ヘッダ画像をお借りしています。


ジョーカーを見るための覚悟

ジョーカーを見るためにここ数日一生懸命ぼくはアウトプットに勤しんでいた。そしてとうとう見たジョーカーとはそれまでそれなりに正常に生きていた生命体の情緒とかそういうものをそれなりに消し飛ばす内容でした。

ぼくはジョーカーを見るために身構えていたのは(わざわざ主役の別映画を見てまで備えた理由とは)、ぼくが単細胞なので悪役をそのまま額面通り嫌いになり、主人公であるヒーローを邪魔する連中も嫌いになり、主人公の目的の完遂をただ望むという能力があるため、ジョーカーを嫌いにならないでいる方法はないだろうか?という危惧があったためでした。

危惧といいますか身勝手な杞憂か。ホアキン・フェニックスのことを嫌いになってしまうことはぼくの映画生活における機会損失にほかならない。上記の通りカモンカモンのホアキンはやたら人間ができた男だった。見た目から勝手に65歳ぐらいなのかなとか思ってたら、20歳ぐらい若かった……なんと見る目がないのだろう

ここには貼らないけど、そういう文も過去に書いたので参照されたいのであればしていただきたい。

ジョーカーとは忖度の物語である

果たしてジョーカーとは忖度にまみれた映画だった。

忖度とはその辞書通りの意味に加え、一定の敗者、といいますか「何らかの屈辱を受ける者」を強制的に生産する行為でもある。

それは主役のジョーカー……といいますかアーサーが、ゴッサムシティというクソ以下の町におけるさらに最下層あたりにいる(あるいはさらに下層がいるのだが単に描写されてはいないだけかもしれない。ゴッサムシティではない場所とゴッサムを取り違え、他の町あるいは先進国における福祉などが行き届いた状態を引き合いに出してゴッサムを語るには無理があるのかもしれないということをぼくは肝に銘じておくべきなのだろう)から、下層以外にいる全てに対して忖度をしながら生きている。

邪魔はしないからこっちの生活も脅かさないでくれ。これがアーサーの生き方であり、ゴッサムシティにおける「モラルを持ち合わせた」生き方なのだろうと思える。

忖度により抑圧に次ぐ抑圧を与えられてしまったアーサーはロバート・デ・ニーロを撃ち殺す。思えば、タクシードライバーで政治屋をぶっ殺そうと奮闘した、アーサーとはまた異なる条件下においてぶっ壊れてしまった主役であるロバートは結局政治屋をぶっ殺さず、割とガチの悪人を殺すに至ったし、アーサーが「ジョーカー化」したように「ベトナム戦争上がりのトラウマを持ち合わせた引退兵タクシー運転者」からロバートなりの変身をした。つまり正義かどうかはわからんが(多分正義じゃなさそうだ)鉄槌を下す者としてふさわしい姿に変体した。

そしてもう一つの忖度とは映画自体の造りだ。ぼくは全く興味がないので風の噂程度にしかしらないが、ジョーカーが生まれたつまり原作であるマーベル漫画においてはジョーカーの設定とは「ジョーカー当人により好き放題脚色されており、どれが真実なのかわからない」状態のまま永続しているという。

つまり、この映画がジョーカーの設定を決定づけてしまうことで長年のファンの恨みを買う可能性がある。マーベルからしたら制作許可をだして変な設定が生まれたら、LTV高い顧客につばをはきかける結果となりかねない。

そこでこの映画は「各所が曖昧に造られてしまっている、というように『観客が理解できてしまうように』造られている」。

これがもうひとつのメタ次元における忖度です。前者は映画内のストーリーとして忖度がテーマにあるという意味であり、この映画造りにおける現実の背景としても忖度がある。

ジョーカーを愛せるか?

ここが主題になります。ぼくはジョーカー……といいますかアーサーに対して同情の念しか持てない。しかも上記映画の造り自体が忖度となっていることにより、このジョーカーという生き物はもともとフィクションであるにも関わらず、さらに「フィクションの中においても曖昧=限りなくフィクショナルな存在」とさせられている点において悲しみしかない。

その理由をもう少し突っ込んで説明すると、ジョーカーの感想を書いているサイト各所で言われていたり、見てれば解るんだけどこの話自体に信憑性がなかったり、ジョーカー視点が……なんでしたっけ、不誠実な観測者?じゃないや「信頼できない語り手」になりまくっているというあたりにある。

・同建物内の住人であるシングルマザーと恋仲になる
・町を滅ぼしまくって何らかの目的を完遂したかに見えたのに最後に捕まった先でカウンセラーをぶっ殺した感じがある(相談室的なところから外に出たら足が血まみれ=足跡が血痕=足で人を殺した?)
・あとなんかあった

という、いまぼくらが見ている映画内で描写されていることって”ガチ”ではないんじゃないの?と思うに足る材料が限りなくある。

ジョーカーが哀れすぎません?

このせいでジョーカーという映画のなかでアーサーが残した「実績」その全てが嘘みたいに描写され続けているのだ。まるでマーベル読者への忖度の犠牲になったみたいにアーサーの人生が徹頭徹尾描写されている。

ジョーカーの人生を愛せるか?

と、このテーマに還らざるを得ない。少なくともぼくという全くの部外者の第三者はそのように行動喚起され、この通り文を書いている。ゴッサムシティの被害者になり、親に騙されて生きていた。そんな親だけど最後まで愛してやた。最後はぶっ殺したけど

そして自分の最大の能力を発揮して社会に貢献していたはずだったが、社会からは徹頭徹尾馬鹿にされる。同僚もよくわかんねえ奴ばかりでどういう風の吹き回しか実銃を寄越されそれが引き金になり最初に人殺しをして「ジョーカーの入り口」になっちまう。そしてその原因たる同僚のデブも極めて美しくぶっ殺す。

視聴者は、このひょろっとした(ホアキンはそのために恐ろしい減量までしたようだが……そちらも驚かされる点である)アーサーがあの忌まわしきジョーカーになるのだろうか?という予想こそ立てられるものの、ここまでの(社会からの)めった刺しにされた青年を見て不安をいだくだろう。なれる……のか?と。

ここまでくると、アーサーを最初に痛めつけたカス連中と、護身用の実銃が落ちただけで解雇した上長みてえなのがぶっ殺されなかった(描写がない)ことにすら悔恨が残る。だって最後までアーサーをコケにしなかった同僚だけは、わざわざ丁寧に扱い生かす描写さえ与えたのだ。あの辺りでジョーカーの残虐性といいますか、ダークナイトとかを見た者に対しては正義も悪もない一線をジョーカーは越えてしまうのかもね、と思わせる意味もある場面なのかもしれないが……まだこの時点ではアーサーは人間なわけです。もう充分にジョーカーではあるとも思えるけど。

ジョーカーの人生を愛せるか?

ここでジョーカーの人生を愛すべきなのはこの神視点にいる視聴者だけなのではないかと思えるのだが、ジョーカー自信を愛せと言われると非常に難しいと思う。彼の人生を背負う覚悟はないが、その一貫性……一貫なのだろうか、途中でねじ曲がった結果がこれなのだろうか……そういったことに結論めいたものを出してしまうのは非常に無粋だと思うのでしないのだが、仮りそめでしかなかったとわかった家族をも排除し、クズ以下のどこぞのクソ企業の正社員たちを殺し、ロバート・デ・ニーロもぶっ殺す……この、「だめな方の選択肢ばかり選んでしまった結果」がこの映画の最後に到達するためのすべての成分なのだと思うと、この人生に対して憐憫とか崇拝とかをすべきでは(人道的に)なさそうではあるんだけど、一定の評価を与えるべきであるように思えてしまう。

いま世の中の価値判断、こと好きなものに対する価値判断とは「推薦」のシステムを使わなければならない、と非常にマッチョな体質を持つIPが押し進めている。

物事(IP)を「好きだ」と言うのみ、では企業活動に組み込めないから周りに「推薦」「推進」しながらそれをやれ、という。直下はいまここに書くつもりはなかったのだが、例えばそのような消費行動をまんまとさせられて、見ろ見ろと推し進められた周囲が「迷惑だなあ」と感じることに対して躊躇いはないのだろうか?企業側も、それにすっかり乗せられて経済をやってしまっている消費者も。推薦を受けた側が、わかった、わかったよ、と、お前の好きなものがそれなんだね、素晴らしいね、でも俺には知らない権利もあるよ、という声はガン無視なのだろうか?

そうすると勘違いする連中が現れる。

ぼくは決して、ジョーカーの人生を周囲に推薦、推進などできない。犯罪だからというストップがかかるみたいなくだらない情緒が語りたいのではなく、このような報われない人生の中で選んだ選択肢がすべて間違っていた結果できた物語であるこの人生を周りに推し進めることなどできようか?

ぼくは皆に、ジョーカーの人生は素晴らしい、誰しもジョーカーのように生きようよ!などということは口が裂けても言えなさそうだが、メタ次元つまりジョーカーという映画がエンタメとして消費されゆく現実世界において、この映画を推薦できるのだろうか。

ジョーカーが残した実績、と2個前ぐらいの段落で言ったが、その実績とは上記の通り残虐非道で凄まじいものだ。だが、アーサー自身が受けたものでもあったのだ。ぼくはそれを愛すべきなのか。しかし、……どのように正義感があったとしても、ぼくはアーサーの人生を、神視点で裏の裏まで見てしまったからに過ぎないのだろうが、否定だけはできなかったのだった。

「愛せるか」……言葉にすると非常に重い。自分の家族がジョーカーに殺されたのであれば、これほど神をも恐れぬ筆舌にし難い馬鹿げた質問などないだろう。すなわちアーサーに実銃を渡した奴の家族(いたのかどうか知らない)、ロバート・デ・ニーロの家族……

最初に殺された正社員についてはあまり考えない。連中はアーサーに殺された……とはいえ護身で殺されたので正当防衛でもある。逃げたカスを殺した部分はなんなのか。それをやったのはアーサーではなくジョーカーだったのか……こここそがジョーカーの芽生えだとするならば

また最後、ジョーカーは死ぬつもりだったのかもみたいな考え方があったらしいがぼくは浅学にして(注意力散漫すぎて)気づけなかった。確かに自分の頭をふっとばす練習をしていた。それが方向転換し、ロバートをぶっ殺すことになったのだとするとアーサーは最後どこにいたのだろう。そうなると、なんか超有名らしい階段の踊りの意味も変わってくるのだろう。

また、初歩の初歩でありそれこそマーベルファンとかからしたら失笑者なんだろうが、ぼくはダークナイトのジョーカーとジョーカーのホアキンが別人だということについて無頓着すぎて知らなかった。

見返すとたしかに、粘着力のある喋り方(性格のことではない)やアーサー(ホアキン)のようなスラッとしていないながらもそれが正しいように見える猫背な感じなど違うような部分は多いし、何よりもあのアーサーがどのようにしてダークナイトのような運動神経・反射神経その他も身につけたのだろうかとも思えてはしまうのだが、それはコメディアンたろうとしていた頃の修行が常にアドレナリンの出ている人知を超えたようなあのジョーカー状態において(実際に薬を規定以上に服用していそうな描写がありましたね)キープできてしまっているのかもしれないとも思えるし、映画ジョーカーとは斯様にマーベルにおけるその他ジョーカーの可能性とも矛盾しないように一生懸命整合性を保持しながら完成に至ったのだろうと思うと、もう一度息を飲んでしまう。

アーサーがダークナイトのジョーカーであっても全くおかしくはない。なんなら世界が不思議な力でねじ曲がり、映画ジョーカー視聴後のぼくがいる世界が「ダークナイトのキャストがホアキンだった」という事実でファンタジーに塗りつぶされていたとしてもきっとぼくは違和感を持たなかっただろう。何よりもいつの間にか5000文字も文が続いている事実により、ぼくですら把握できていない「ジョーカーをぼくがどのように思っているのか」の一部ぐらいは伝わるのではなかろうか。

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