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「だるい」の流行、「うざい」の廃れは優しい世界を喚起するのだろうか

人と戦う時に「うざい」という人がいるが、だるいという単語が流行ることにより攻撃力が緩和されているように思える。ヘッダ画像をお借りしています。

「相手に非があることを、本筋では伝えない優しさ」が「だる」は内包している

だるいの用法とはこうです。「ねーーえーーだーるーいーーー」という感じ。

ねーえーうざいーーとは言わない(前時代までは言ってたのかも)。なぜでしょうね?これは「うざい」だとかなり直接的に相手の動作について批判しているからだと思えます。

翻ってだるいに目を向けると、だるいとは自動詞(自分の気持ちの表明、いま自分がどう感じているかの描写)なんですね。いや形容詞なので動詞じゃないんスけど、うざいが他動詞(形容詞っス)であるのに対し、大きな違いがある。自発と他発とか表現すればいいすかね

つまりうざいと口にすることは相手の、他者への批判行為=クレームであり、だるいと口にすることは「あたし今(あんたの発言のせいで)だるいんだよね、そういうこと言うの(するの)やめてくれる」という「権利行使」のような意味合いを持ち、言った側の正当性を強めるわけです。たぶん……

これまでは「うざい」と言うことで、公然と相手を批判するだけでした。どんなに相手がうざかろうとも相手は激昂する。そんなんじゃそのうざさって解決しなさそうですね。しなかろうがうざいものはうざいと言うわけだし、もっとガンガン言ってしまい、より悪循環である。

その点だるいは優しい。ねえ、それうざいよという相手の欠点への指摘ではなく、「俺は今このようなネガティブな気持ちである。君はそんな気分に俺をさせ続けるつもりだろうか?」と、「気づき」を促せる。

気付きを促すとは行動変容につながります。一般的に人とはどんなに相手がうざかろうともそのうざさを変えられはしないのです。相手に性格を変えろと言っているのと同義だから。

だから気づきを与える。気付きとは所詮気づきでしかないから、相手がポンコツ野郎の場合一生気づかない可能性がある。これが「相手を変えることはできない」のわかり易い例だと思う。その場合はもはや諦めるしかない。そのうえで相手を変えようとしたら、もはや戦争しか残っていないのだ。

戦争とは、お前それうぜえからやめろや、と言うことだ。相手の行動変容を無理やり促そうとすることだ。相手の性格に第三者が関与し、強制的な変化を与えてやれ、とすることだ。「うざい」が出てきましたね。やはりうざいとは攻撃時に使うことになる文である。

うざ絡み、だる絡みという言葉がある。こちらも同様であり、前者は相手のマイナスな様子を示しており、後者は自己の想い、受け取り方により表現されたコミュニケーションの描写である。つっても別にどっちもうぜえことには変わらない気はするけど……

「なんやねんそのだる絡みw」とは言うけど、「なんやねんそのうざ絡みw」とはあまり言わない……ような気がする。やっぱし「うざ」の方にはなんらか殺傷能力があり、言葉が研ぎ澄まされてしまうのだろうか。

でも実は「だる」とは第三者視点による情景描写であり、いわゆるその第三者に向けた第三者からの「情報伝達」であるから多用されるのかもしれない。つまりゲーム配信とかを多人数でやってるときに、「ねーえーそれだーるーいー」と。

ここで「うざ」を伝えてしまうと心象が悪くなる可能性があり、避けられがちなのかもしれない。つまり視聴者が「うざ」を発信した人に好感を持たなくなるということです。だから「うざ」ではなく「だる」を使う。「わたくし、今このような気持ちですけど?(あなたはそのままでいるおつもりですか?視聴者からの好感をお下げになり続けるおつもりですか?)」と。

つまり第三者がいればいるときほど、「だる」を使うメリット……があるかどうかはおいておいて、「うざ」を放つデメリットが回避できるといえる。

それでも相手をけなしたいような野蛮なやつは一生うざうざ言い続けるのかもしれませんが。

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