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価値観と認識、腹落ちするかしないか

人それぞれに「価値観」というものがあって、同じ経験でも、その差は計り知れない。何を大切に思うか、どこに焦点を当てるのか、客観的に捉えるか、主観的な感想か。

しばし、「価値観の違い」によって、私たちは悩まされる。
自分と違うと認められない。相手にも自分と同じだけの価値を求めてしまう。

こんなにしてるのだからもうちょっと見返りがあってもいい、とか。
絶対これがいいよ!という押し付けだったり。

結局は、共感が欲しいのだと思う。行動はしてくれなくても、
うんうん、わかるよ。
そういって欲しい。認めて欲しい、わかってほしい。
そう、つぶやきながら相手ばかり「してくれない」と思い込んで、途方にくれる。

誰しもみんな違う人間だ。
自分はここまでやれるし、考えられる、先回りして予想がつくから今これをやる。そうだとしても、皆が皆、そうではない。

むしろ、そうではないことの方が多い。
ある部分は一緒のその共通点があったとしても、またある部分はやはり、違うのだ。

自分の価値観ばかり、主張されると、押しつぶされそうになる。
私の認識とはかけ離れた論を展開し、説き伏せようとしてくる的のように感じてしまう。
そうなってしまうと、何も言えなくなる。

反抗心というか、冷静には言えない性格。
反論してしまったら、その輪を崩すようで、もしくはひどい言葉で罵ってしまいそうで、きっと不快な印象を与える、と思っている。

でもね、人の気持ちは、その人にしかわからない。
私の発した言葉が、どのくらいの威力があって、深く突き刺さるかは、その人次第。

私の考えている深さとはきっと違うのだろうと思う。
私は、深く傷つくけど、相手もそうだとは限らない。

メンタルの強さとか、刺激への強さは人によって違うし、リアクションの大きさだって、表現の仕方だって違うモノ。

そう「違い」を認識すること。
「私はわたしだ」と受け入れること。

あの人みたいにはできないけれど、それが自分だと腹落ちすること。
その感覚が、しっくりと馴染むまで時間はかかると思うけど。

何度も繰り返し、自分と向き合い、肯定し、がんばってるね、と褒めてあげること。それは、わたしでなければできないことだ。
だって、他の誰もわたしの心のうちの深いところまでは見れないものだから。

自分の一番の理解者は自分だ。

時として、自分が思う自分より、周りからの評価の方が正しいと言われる。
それは、対社会に見せている自分であって、必ずしも深層の自分ではないと思う。一方の側から見た、見られている自分。
そう演じていたりする自分、だったりもする。

きっと、表と裏。
かけ離れているようでも、表裏一体。ひとつの存在。
表も裏も、どっちも自分。

それでいいんだと、すんなりと腹落ちしたなら
きっと、新しい気持ちで人生を歩んでいけるのだ

どんな人生も、そこからまた始めればいいんだと思う。
過去も未来も引き連れて、いまからまた。



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