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#コラム
もう家具は買い取れない話
ダイニングテーブルを買い換えることになった。
疾患のこととかもいろいろ含めて、生き方暮らし方を変えてくなかでのこと。
いままで使ってきたダイニングテーブルは北欧風(よくわからない言い方だけど)と言えば、それっぽいオーク材の無垢のもので「虎斑(とらふ)」と呼ばれる木目が表面に出てるのも気に入っていた。
在りし日の(いや、いまもあるんだけど)お家騒動以前の、会員制でコンシェルジュっぽいスタッフが
なぜメディアは華麗な掌返しをするのか
最初に断っておくと、べつに五輪に物申したいnoteとかではない。
いつも書いてるけど、アスリートの世界と腐海のように誰も制御できない五輪の世界、多くの人々の日常はどれも別のレイヤーで、一緒くたにしたものを書くことはできない。
いや、書きたい人は書けばいいのだけど、個人的には書かないだけの話。じゃあ、これは何を書いてるのか。
メディアの五輪文脈(あるいはそこにある空気)についての個人的な思索で
なぜ僕はテレビを観ないのか
僕は基本的にテレビを観ない。
これも一応、最初に書いておくと「テレビ」の存在を全否定したいわけじゃない。
観る観ないは自由だし、テレビに関わる人で、ほんとにすごく聡明で尊敬できる人だっている。良心的で良質な番組だってある。
ただ、それとは別の次元、僕の日常的な生活の中に「テレビ」がないのだ。
代わりにあるのは各種の音楽と自然の気配。とくに信州に移り住んでからは、余計にそうなっている。
そ
100%の生と死としての情報
※センシティブな内容を含んでいる可能性のある記事です。
惨劇が起こる。メディアはセンセーショナルな最新映像と人々の興奮や混乱を流し続ける。そこに何の意味があるかどうかなんておざなりにして。評論家たちは惨劇の背景を探って口々に語る。そこに仕事があるからだ。
犠牲者は数万人以上。数字が増え続けても、映像が更新されても、リアリティは増すどころか希薄になっていく。新しいSFX映画のプロモーションかと思
どこまで厳密に言うか問題
「厳密に言うと違うんだけどね」
いろんな分野の専門家を取材してると、たいていどこかでそのフレーズにぶつかる。
一般人(マウント的なのではなく専門家ではないという意味合いで)には、えっそれの何がどう違うの? な話が多い。
わかりやすいのでは気動車と電車の違いとか。
日本気動車電車学会なら(そんな学会はない)絶対に混同は許されない。だけど一般の97%の人には見分けがつかないしどうでもいい。
人生の目標って必要?
あなたの人生の目標は何ですか? みたいな質問が結構カジュアルに飛び交ってる。わりと便利な質問なのかもしれない。
いつも「用意」してるかのようにすんなり答える人もいれば、「うーん、目標……とりあえず○○を頑張ることですかね」みたいに、なんとなく思いついたもので乗り切る人もいる。
自分の場合はどうなんだろう、と考えると、それが見事なことに「ない」のだ。
そもそも人生に「目標」っていつから当たり前
「問い」と「答え」の距離について
スマホに奪われるのは時間だけではないらしい。
集中力も溶かされていく。気がついたら何時間もひとつのことだけを「考えたり」「見つめたり」できなくなった。
もちろんスマホがすべて悪の根源だとか言いたいわけじゃない。だけど、スマホも含めた、いまの生態系というかエコシステムが集中力の維持を難しくしてるのはあると思う。
スマホ以前は、いまよりもう少し自分の意思で何か探索したり、そこで見つけたものについ
「させていただく」をやめると楽になれる
ここのところ(本当はもう少し以前からだけど)目につく「させていただく」多用し過ぎ問題。
これって言葉を扱う立場からも興味深くて。なんだろう。ちょうど「違和感ある」派と「べつに自然に使ってるし自然に聞こえる」派の中間ぐらいのところに漂ってる感じがして。
「その件についてご説明をさせていただきます」
「ここでは回答を控えさせていただきます」
どっちもオフィシャルな場でよく聞く。
話し言葉だけじ
フリーランスだから定時で仕事することにした
またこの人、なに言ってるんだろうなのはわかってる。他者からすれば、あんたがどう働こうと知らんがなだ。
そもそもフリーランスに「定時」の概念もなにもない。何時から仕事しても何時まで仕事しても誰にも怒られないし、褒められないし労働基準法も適用されない。フリーランスには「労働時間」という概念がないのだ。
それなのに「定時」とか考えるのは、大気が存在しない月の表面でマスクをするかしないかを検討するよう