見出し画像

「問い」と「答え」の距離について

スマホに奪われるのは時間だけではないらしい。

集中力も溶かされていく。気がついたら何時間もひとつのことだけを「考えたり」「見つめたり」できなくなった。

もちろんスマホがすべて悪の根源だとか言いたいわけじゃない。だけど、スマホも含めた、いまの生態系というかエコシステムが集中力の維持を難しくしてるのはあると思う。

スマホ以前は、いまよりもう少し自分の意思で何か探索したり、そこで見つけたものについて深く思索したりしていた気がする。そう、純粋な意味で「自分だけの時間」があったのだ。

そんなのスマホを触ってる時間だって自分だけの時間じゃんっていう考え方もできる。そうだと思う。だけど、これもすごく奇妙なのだけどスマホの時間は自分のものであって自分のものではない。

なぜなら、常に「他者」や「社会」がちらちら顔を出したり、行き交う姿が遠くに見えたりするから。

人は、どうしたって「自分に関係ありそうな」ものごとや「他者の動き」が目に入ってしまったらそっちを確かめずにいられない。脳がそういう性質を持ってるからだ。

自分の視界に入る先で、知ってる人たちが自分に関係あることを話してたり、何か計画してるのを見て「なんとも思わない」でそのまま自分の世界に居続けられる人はたぶん少数だと思う。だいたい、そっちが気になってしまう。

つまり、スマホがオンになって手元にあるあいだは、どうしたって常に「集中」しづらい世界になってるのだ。

スマホを触ってる時間だって「集中」してるような気もする。だけど、それは真の意味での集中とは少し違うみたいだ。

スマホを触り続ける集中はしているのだけど、ページをめくっては頻繁にフリックしたりスワイプして落ちつかない。あれもこれも見落とさないようにだったり、とにかくいま気になることだけ次々に拾っていったり、友人知人に反応を返したり。

もしかしたらスマホゲームはある種の純粋さに近い集中かもしれないけど、またちょっと意味が違う。

そんなこと言ったっていまさらみんなでスマホを土に埋めるわけにもいかないし、こんなこと書いてる僕だっていまもスマホが傍にある。それがデフォルト。だから、本をつくる場面でもこんなやり取りが行き交う。

「いまの人たちは忙しいし、本読むよりスマホのほうが大事だからそういう人たちに最適化して、飛ばし読みでも要点、エッセンスがつかめるようにしないと」

そうだと思う。本をちゃんと読む集中力を勝手に求めるわけにはいかないのだ。

というのは「本を売る」ためには正しいし正解なのだろうけど、本当にそうなんだろうか? 少なくとも「人」にとって、それは正しいのか。

いまの人たちの(自分も含めてだけど)瞬間的な集中力に合わせるなら、もっと「問い」と「答え」の距離を短くしたほうがいい。疑問にはすぐ答える。それか正解で、誰も疑問について「考え」たくはないのだ。わかってる。

いちいち考える時間はコスパが悪い。考えなくても失敗は避けられてうまくいくほうがいい。

だから、そういう方向に持っていく文章を書けばいい。一応プロだから書けと言われたら書ける。でも自分のnoteなんかではしてない。

わざわざ冗長で隙間だらけで散漫で思考があっちこっち飛ぶ文章を書いてる。問いと答えの距離が遠い。

遠いからその間に考える。考えの寄り道が楽しかったりする。それって人生の意味なんじゃないかと思うこともある。「問い」と「答え」の距離が人生。もちろん、そんなの思わない人もいる。

すべて最短距離で考えなくてもたどり着ける。それって生きてて楽しいんだろうか。

たぶん、僕の根本的な問いがそこにあって、その答えは一生探索して思索したっていいし、その中でいろいろ楽しいことあるよなと思ってるからなんだろうけど。