なぜ僕はテレビを観ないのか
僕は基本的にテレビを観ない。
これも一応、最初に書いておくと「テレビ」の存在を全否定したいわけじゃない。
観る観ないは自由だし、テレビに関わる人で、ほんとにすごく聡明で尊敬できる人だっている。良心的で良質な番組だってある。
ただ、それとは別の次元、僕の日常的な生活の中に「テレビ」がないのだ。
代わりにあるのは各種の音楽と自然の気配。とくに信州に移り住んでからは、余計にそうなっている。
それでも、たまに何かの店とか施設に入ると、それがあたり前のようにテレビが流されてたりする。その度に、ああ、テレビだと思う。
自分の生活の中では、テレビは「テレビの様式」もわかったうえで、それでも視聴するいくつかの録画された番組を観るときに、はじめて電源をオンするものでいきなり飛び込んで来るものではないからだ。
で、そんなときにだいたい流れてるのが情報番組系だったりニュースを扱う番組だったりする。
*
正直、何かメモをまとめたいときとか、本を読みたいときに「ノイズ大きい…」と思わないこともないけど、その場所は僕のためだけにあるわけじゃないので、まあしょうがないなと思う。
なので、たまには「テレビを観るか」と思ってニュースを扱うコーナーを観たりするのだけど、だいたい数分後にはなんとも言えない気分になる。
なんだろう。目の前の事象(ニュース素材)をひたすら「わかりやすく」増幅しただけの構成。いや、そんなのその時間帯に観てる層に合せてなのはわかるし、視聴者もそこまで本気で何か知りたいと思って観てるわけじゃない。
「見てください、この大行列! この男性の方は朝5時から並んでます。早く来ないと受けられないかと思って」
例のワクチン接種のニュースなんかもそうだけど、レポーターがいかにも「困った」感じの顔で、行列の長さを映し出し、集まった人にインタビューする。
「大変ですよ」「困ります。なんとかしてもらわないと」
いつまでこの事態が続くのか。先の見えない疲弊感が漂うばかりだ――。
それっぽい締めのナレーションが入って一つのニュースが終わるのだけど、魂が抜けた気分になる。で、いったい何がどうなるのだろう。もやっとする。
まあこれも、ずっと見続けてもらうための手法ではあるのだけど、ほんとにそれでいいんだろうか。構造が浅い。
なぜそうなるのか、問題の本質、本来どうするのがいいのか一切掘らないまま、次の話題へ。
こんなの一日中摂取してたら「考える」ことを忘れてしまいそうだ。たぶん、その「忘れる」感じが自分の中で違和感あるんだと思う。事象増幅装置としてのテレビに対して。
だから日常の中で僕はテレビを観ない。テレビを観るときはむしろ非日常なんだと思う。