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100%の生と死としての情報

※センシティブな内容を含んでいる可能性のある記事です。

惨劇が起こる。メディアはセンセーショナルな最新映像と人々の興奮や混乱を流し続ける。そこに何の意味があるかどうかなんておざなりにして。評論家たちは惨劇の背景を探って口々に語る。そこに仕事があるからだ。

犠牲者は数万人以上。数字が増え続けても、映像が更新されても、リアリティは増すどころか希薄になっていく。新しいSFX映画のプロモーションかと思ったというアメリカ人がいる。彼の言葉には、なぜだかリアリティがある。

何の意図も見えないまま繰り返し流される惨劇の場面も、そこに映っているのは「突然、現実の世界に現われ、次の瞬間には爆発と共に砕け散った何か」でしかない。

人々がヴァーチャルな世界に親しみすぎたせいで現実との齟齬が起こったの
だという見方もあるけれど、そうだろうか。これは100%リアルな出来事なのだ。

もし、その瞬間、我々がその場所に居合わせたなら我々は数千度の熱で蒸発するように消えうせているか、ありとあらゆる残骸と血の雨に打ちのめされて、無数の断片となって地面に叩きつけられているかもしれない。リアルとは、そういうことだ。

犠牲者の数がどれだけ積み上げられても、情報にリアリティなどない。

けれども、そこに自分の愛するもの、それは人であれ思い出であれ何でもが挟まってしまっていたとしたら、情報はただの情報ではなく、どうしようもなく「心を占める何か」に変わる。

あなたにとって、その惨劇は何万人の中の1人の死ではなく、あなたにとっての誰か、つまり1/1=100%の死として心を占めるのだ。そこには最早、客観的な“情報”の入り込む余地などない。

あなたにとっては愛するものを失うことが全てであり、あなたにとって必要
な情報とは「愛するものがいかなる生と死の時間を彷徨ったのか」ということだ。

それは、ねじれた印象を与える表現かもしれないけれど「苦しみを苦しみとして」受け入れるためには必要な情報なのだ。

だけど、そうした真にリアルな情報は、どんなメディアをめくっても手にすることはできない。今のメディアは「そんな個人的な悲しみよりも、もっと重要なことが拡大しようとしているのだから、そっちを見ろ」と伝えている。

だとすれば、この世界を覆い尽くそうとしている情報は一体、何なのだろう?

何のために、誰のために、誰がどんな意図で何を目指して流し続けるのか。誰もわからない。

メディアの生配信に出演する偉い人は言う。

「この戦いに対する手段は慎重に選ばなければなりません。仮に敵のウイルス直接攻撃するとしたら、そこにいる一般市民を巻き込む犠牲は最小限に食い止めることが必要です」

「何より、その成果こそが人々に勇気と希望を与えます」

偉い人は、リアリティの外に身を置きながら話す。そこに視聴者からメッセージが飛んでくる。

「いいですか。こう考えてみてください。あなたの家族が住む家の隣に容疑者がかくまわれていたとしましょう。それでも、あなたは“最小限の犠牲”で済めば、あなたの愛する人たちが巻き添えになってもいいのですね?」

偉い人は、どう答えるだろう。何百万人の、個人的なことよりももっと重要なことがあると彼が信じる視聴者に向かって。

「そのとおり。犠牲が最小限で済み目的が達成されるのなら仕方がないことです」と答えるだろうか。

それとも生配信を終えてから、個人的なメッセージを飛ばしてこう言うだろうか。

「馬鹿な。誰も自分の家族が犠牲になっていいとは一言も言ってない」

これは昔起こったある出来事についてあるメディアで書いた(いまはもうない)記事を脚色したものです。一部、2021年の世界にねじれてますが、本質は変わってないかもしれないです。

毎日毎日、何千人、何万人という数字のシャワーを浴びてると本当に大事な「1/1=100%」の生と死を忘れてしまいそうになるし、実際、そんなこと関係ないというか知ったこっちゃない世界にいる人がいるのも事実。

取材してると、そういうことを笑いながら言える偉い人がいたりするのも慣れてます。

そういう世界で本当に大事なのは、やっぱり「自分」の感覚を見失わないこと。

あたり前すぎて猫が大あくびしたけど、ときどき情報と適度にディスタンスを取ってみんなそれぞれ「1/1=100%」で、自分の感覚と頭(他者の情報に乗っかったりバイアスを被るのを排して)で世界を見ることなんだろうね。