見出し画像

雪国に眠る人

母のお墓参りに来ました。
今日は母の命日です。

父と弟の運転する車で3人。
父の故郷、寒い日本海の近くの町です。
生まれて高校を卒業するまで
父が暮らしたところ、
祖父や曽祖父などの眠るお墓に
母も入りました。

画像4

母は東京生まれの東京育ちだったので
家族姉妹みな都内のお寺に眠っています。
あれだけ仲の良かった四姉妹も
今は3番目の叔母だけが残るのみ。
叔母も都内に住んでいるので
きっと近くに将来は入るはずです。

画像5

話が逸れました。
父はすっかり脚が弱くなり
またお寺の住職さまが小学校の同級生なので
2人ですっかり耳が遠くなったので
大声で昔話しを楽しそうにしています。
私は弟と母に備える
お花やお菓子などの準備をしました。
母はもともと食べることが大好きで
昔から私たちに美味しい物を
たくさん食べさせてくれました。

入院し始めは岡埜栄泉の豆大福が
好物だったので持って行きましたが、
一口食べただけで
もう残してしまっていました。

画像1

他にも、小川軒のレーズンウィッチ

画像3

しかし後半
嚥下障害に苦しみ
どんどん食べられるものが減り、
お見舞いにはいつもコーラか
ガリガリくんのアイスを
リクエストされました。

画像5

それも2口くらいで
『もう十分、ありがとう』と笑います。
まだ少し元気だった頃も
『何か食べたいものある?』と聞きますと
『カッパ巻きを1本』と言う答え。
お店で1本だけ買うのは
なんとなく難しいので
他にも幾つか選ぼうと…
母は本当はマグロが大好きなので
鉄火巻きも買いました。
でも本当に母はカッパ巻きだけを
それも二口だけしか
食べられなかったのでした。

画像6

画像7

母と最後に話しをした日を
今でもハッキリと覚えています。
食欲が全くなくなり
どんどん痩せていく母に
病院側がアイスクリームを
出してくれるようになりました。
しかし、それにも手を付けず
もう体力も限界まできていました。
お見舞いの時
いつも母は私が来て15分くらいで
『もう帰りなさい』と言います。
私もやつれた母を見るのが辛いのと
もしかして母が居て欲しくないのか?
と素直に従っていました。
それは私への気遣いだったとも気づかずに…
それを1か月ほど続けました。

画像10

しかし
その日はなんとなくまだ居たいと思ったのです。
後から弟も来て2人で母を見舞っていました。
お昼ご飯のアイスクリームも手を付けなかった母に
受付で病院のスタッフさんが
私と弟に『夜もアイスクリーム出してもいいですか?
召し上がってないみたいなので』
と囁きました。
病室に戻り私たちは母と話しをしました。
ちょうどその前の日に
娘がやっと(遅すぎ!!)
【台湾旅行】のアルバムを作った
といって持ってきたので
それを見せました。
母は笑って眺めていました。
そして夕食の時間になり
アイスクリームが運ばれてきました。

画像8

私は母に
『お母さん、アイス食べて元気になろう!!
○○(娘)も「また一緒に旅行に連れてって」
って言ってたよ?』

画像11

すると母は急に瞳を大きく開いて
『分かった、お姉ちゃんも、頑張ってね』
と言って硬く私の手を握りしめたのです。
もう殆ど残っていない
最後の力を込めたようでした。
それが私と母の交わした最後の会話でした。
次の日
意識朦朧としたまま
1度も目を開けずに母は逝ってしまいました。

画像9

そして今日
普段から身だしなみには
とても厳しかった母に会うのですから
キチンとお化粧をしました。
実は、昨夜、弟の長女が高熱を出し
『まさか、コロナ⁉️』
とざわつきました。
私も弟も、そしてきっと父もでしょう
母に祈りました。
母の「家族は絶対に守る」
という強い愛に守られて
《陰性》だったという連絡がありました。

画像12

私も母みたいに
家族を守ることの出来るようになりたいと
今日は笑顔でお参り出来ました。

画像13

これはお供えしたお花です💐。
母の日には来られないので
カーネーションも入れてもらいました。
綺麗なものが大好きな
母はきっと喜んでくれると思います。

実は、前泊した日に
とりあえずお墓参りをした時
私はお墓の前でやっぱり号泣してしまいました。
弟に諭されてやっと泣き止みました。
明日は笑顔で来るからね?と約束して…。
そしてちゃんと笑顔で挨拶してきました。

今日もお読みいただき
ありがとうございました。

(文中の🌸や⭐️、🕊などの絵は
ちよむらんさんからいただきました。
ちょむらんさんいつもありがとうございますm(_ _)m。)

この記事が参加している募集

noteでよかったこと

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?