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 「アウトサイダー・アート」とは、正規の芸術的訓練を受けていない人々、特に障害をもった人々などによって作られたアート作品のことですが、それらの作品には、他の文化的な文物には感じられない、独特な魅力があります。
 その魅力を語る決定的な言葉がないにも関わらず、多くの人がそこに強い魅力を感じるのは、アウトサイダー・アートが、私たちの心や精神に働きかける深い要因があるからだと思われます。
 それは、アウトサイダー・アートの幻視がひき起す、眩暈のような性質であり、私たちに変性意識状態意識拡張(サイケデリック)を感じさせる要素に、関係していると思われるのです。

 私自身にとって、ある種のアウトサイダー・アートの魅力とは、まず第一に、その植物や鉱物、昆虫のような原初の自然を予感させるその無尽蔵さにあります。
 植物や昆虫のような、尽きることのない多産さ、豊穣さです。
 とりわけ、その悪夢のように終わらない「反復性/増殖性」です。
 同じ作品内における形態の反復もそうですし、同じ(ような)作品を、何千枚何万枚も作り続ける無尽蔵の反復エネルギーです。
 一種、非人間的なエネルギー、自然と野生の歯止めのない徹底的なエネルギー、増殖力を感じさせるのです。

 実は、それこそ、私たちの心を、深層から駆り立てる変性意識状態夢見の力のある種の性格・特性と考えられるからです。
 そのため、アウトサイダー・アートの終わりのない反復性/増殖性/回帰性に触れていると、私たちは一種、変性意識的な眩暈に襲われ、別種の意識をまざまざと感じさせられる気分になるのです。
 夢魔のような変性意識に巻き込まれていくのです。
 これは、さまざまな幻覚性の植物がもたらす、サイケデリック体験と、とても似ている性格であります。
 実際、そこでは、一瞬にして枝葉を伸ばし成長していくような幻覚が、終わることなく、無限反復していくものだからです。
「サイケデリック・シャーマニズムとプラントメディスン(薬草)の効果【概論その1】」

 そして、この無限反復は、別の重要な事柄をも想起させるのです。
 かつて、哲学者のハイデガーは、ニーチェの永劫回帰(永遠回帰)の思想について触れ、それを「等しきものの永遠なる回帰」と呼びました。
 ニーチェの永劫回帰の思想とは、「今ここの出来事が、この瞬間の体験が、まったく変わることなく永遠に回帰する」という、悪夢のような、怖ろしい思想(ヴィジョン)です。容赦ない存在肯定の思想です。
 というのも、もし、人生のすべての体験が、まったく同じ瞬間として回帰してしまうとするならば、私たちは、逃げるところが、どこにもなくなってしまうからです。
 そして、それを拒絶や否定をしても意味のないことなので、最終的には、私たちはそれを受け入れ、かつ、全人生(全瞬間)を肯定するしかなくなってしまうからです。

 そのため、ニーチェは、ツァラトゥストラに、「『救済』とは、過去の『そうあった』を『私がそう欲した』に変えることだ、と語らせたのです。

過ぎ去った人間たちを救済し、すべての『そうあった』を、『わたしがそのように欲した』につくりかえること――これこそわたしが救済と呼びたいものだ。(中略)

『そうあった』は、すべて断片であり、謎であり、残酷な偶然である、――創造する意志がそれに向かって、『しかし、わたしが、そうあることを意志した!』と、言うまでは。

ニーチェ『 ツァラトゥストラはこう言った』氷上英廣訳(岩波書店)

 私たちが、永劫回帰の悪夢を乗り越えるには、「変わらない今ここ」を、内側から追い越してしまうくらいの肯定性の強度が必要となるからです。そうでないと、「変わらない今ここ」の奴隷として、存在するしかなくなってしまうからです。
 永遠に「その瞬間」が戻ってくるということは、出来事が「過去にならない」「過去がない」ということを意味するからです。

 しかし、この点は、実は、セラピー(心理療法)的にも、正しい点であるのです。
 「否定したい体験(出来事)」は、願っても、心の中から決して消滅してくれないからです。
 むしろ、私たちは、自分の中の「その瞬間」の体験を否定していると、その体験から、かえって逃れることができなくなるのです。
 抑圧は、あくまで、見ないようにする、感じないように抑えつける力しかないからです。
 また、より奥義的な話をすると、私たちの内奥では、「過去」というものは存在せず、「その瞬間(現在)」たちが遠くにあるに過ぎないからです。
 私たちが、苦しい「その瞬間」の囚われから解放されたいのであれば、それを否定するのではなく、受け入れ、「肯定する」しかないのです。ニーチェのいう通りです。
 (このことの真相については、人が、臨死体験した時に見る「ライフレビュー(人生回顧)体験」の解説として、別の記事に書いています)
「走馬灯のように全人生を回顧する」とは(その1)」
 
 さて、ところで、ある種のアウトサイダー・アートの中には、この「等しきものの永遠なる回帰」と似た、生命の容赦ない肯定性、生命の容赦ない無尽蔵さが感じられるものがあるのです。
 それは、通常の人間的な限界を超えた、野生の無尽蔵さ・反復性ともいうべき強さなのです。
 そこに、私たちは、普通の芸術以上の潜在意識/深層意識を感じることができるのです。

 また、魅力の第二の点としては、その「無時間的な性質」という要素があります。
 そこには、私たち普通の人間が生活している時間の流れとは違う、別種の時間の流れ、もしくは、時間の不在や無時間性が感じられる点です。
 その点が、植物的だったり、鉱物的だったりと、感じられる要素の一つなのかもしれません。
 フロイトは、「エス Es」は時間を持たないと言いましたが、そのような私たちの深層意識が、そこには現れているのかもしれません。
 そして、そこには、さらに深い次元、ユングのいう「元型的な次元」が現れているようにも感じられるのです。
 そのような私たちの深層意識の「元型的な次元」の欲求については、別の記事にもまとめました。
 ここでは、サイケデリック体験で現れる、私たちの鉱物的意識についても触れています。
 →諸星大二郎の『生物都市』と鉱物的意識

 また、魅力の第三の点としては、その「徹底的な直接性」という要素があります。
 これは、さきの植物的・昆虫的な無尽蔵さ、その絶対的な肯定性とも一部重なりますが、文化に飼いならされていない、剥き出しの「直接性」と「無媒介性」を感じさせられる点です。
 直接に、深層意識に当たってくる、生(なま)の沸騰の感覚です。
 それらを通して、私たちに、創造性の根底にある〈自然〉の直接性、野生の〈宇宙〉を感じさせる点です。
 というのも、私たちの文化は、つねに「間接的」なフィルターを通して、世界を見ています。
 そのことで、私たちは、直接的なものの暴力から守られているわけですが、一方そのことで、生命的躍動の欠落や、噂話のような希薄な実在感(存在感)しか、持てなくなってしまっているのです。
 アウトサイダー・アートの剥き出しの直接性は、それらの「薄い膜(フィルター)」を、透視的に突破するものの力を感じさせてくれるのです。

 さて、アウトサイダー・アートの持つ、さまざまな魅惑や幻惑について見てきました。
 ところで、このような作品の性質やエネルギーに触れていると、私たちは、だんだんと眩暈に襲われるかのように、不思議な世界への〈郷愁〉に導かれていくようにも思われるのです。
 それは、幼児の頃の、物心つくかつかないかの頃に感じていた世界のようです。
 それは、大人たちの世界よりも、鉱物や植物たち、昆虫たちの世界を、ずっと身近に感じていた頃のような世界です。
 それらの原郷の風景は、私たちが成長する過程で、現代の文化的な体制(コード)に組み込まれていく過程で、喪われていってしまいました。

 しかし、大人になった現在でも、私たちは、このような生の深層意識の感覚を、生の原型の姿(原風景)を、遠い潜在意識の中に持っているのです。
 実際、そのような世界について、私たちは、さまざまな変性意識サイケデリック体験、夢の世界を通して触れることができるのです。

 そのため、私たちは、心の深い誘因にしたがって、アウトサイダ・アートの不可思議な世界に惹きつけられてしまうのではないかと思うのです。
 これらの作品は、そのような魂の故郷、生の異星的な原風景を、私たちに思い出させてくれる気がするのです。


【ブックガイド】
変性意識状態(ASC)やサイケデリック体験、意識変容や超越的全体性を含めた、より総合的な方法論については、拙著
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容(改訂版)』
『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
をご覧ください。


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