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「走馬灯のように全人生を回顧する」とは (その1)―ライフレビュー体験 『私』を超えて

 「ライフレビュー(人生回顧)体験」とは、俗に、「人は死ぬ瞬間に、自分の全人生を走馬灯のように回顧する」と言われているような体験のことです。
 さて、私たちの「意識 consciousness」には、一般には知られていない、さまざまなタイプ(状態)があります。
 そのあたりについては、別の記事に書きました。
【概説 その1】「私」とさまざまな意識状態 ―夢見・フロー体験・至高体験
【概説 その2】「私」とさまざまな意識状態 ―変性意識・サイケデリック体験・体験的心理療法

 その多種多様さは、万華鏡のように、私たちの「意識 consciousness」のさまざまな側面について教えてくれるものとなっています。
 そして、その固有の角度から、私たちの人生の「知られていない側面」を照らし出してくれるものになっているのです。
 今回、とりあげる「ライフレビュー(人生回顧)体験」も、そんな興味深い体験のひとつです。
 別の記事で、ニーチェの永劫回帰の思想に触れた際に、言及した事柄です。
 →アウトサイダー・アートと永遠なる回帰(永劫回帰)

 さて、「ライフレビュー(人生回顧)体験」とは、俗に「人は死ぬ瞬間に、自分の全人生を走馬灯のように回顧する」と言われているような体験のことですが、そのような体験があるらしい、ということは古来より知られていました。しかし、この体験(現象)が、確証をもって確認され出したのは、二十世紀も後半になってからのことでした。
 しかしながら、この体験は、実際に、それを体験してみないと、その体験の「本当の状態」が、よくわからないことにもになっています。
 そのため、それについて解説した文章は、さまざまありますが、体験者以外のもので、正鵠を得ているものはひとつもないことになっているのです。
 なぜなら、他人の話として、噂話のように解説している文章には、この体験の「一番核心的な部分」「もっとも重要な要素」が抜け落ちているからです。
 しかし、その部分こそが、この体験の智慧と啓示であり、私たちを真の生の次元に導くものでもあるのです。
 この体験は、私たちが、現代文明の中で信じ込んでいる、「意識」「時間」「人生」について、まったく別の角度からの洞察をもたらすものになっているのです。

 ところで、さきにも触れたように、ライフレビュー(人生回顧)体験自体は、古い時代から民間伝承レベルでは知られていました。
 しかし、これが、実際に起こっている現象だと確認され出したのは、1970年代以降、「臨死体験 NDE: Near Death Experience」についての研究がはじまってからでした。
 臨死体験者の調査を進めていくと、彼らのうちのかなりの数の人が、そのような体験を持つことがわかってきたからです。
 そのため、「臨死体験」を構成する重要な要素(指標)として、数えられるようになったのです。
 
 さて、この体験は、俗に、「自分の全人生を走馬灯のように回顧する」と表現されますが、この表現自体が、実は、正しくないのです。
 この表現では、通常よくあるように、過去の記憶を思い出すことだと思われてしまうからです。

 しかし、実際には、そこに現れてくるのは、「記憶」ではなく「体験」そのものなのです。
 そこに見られているのは、「過去の記憶」ではなく、「現在の体験」なのです。

「記憶」ではなく「体験」
「過去」ではなく「現在」
がそこにあるのです。

 また、その内容の超絶的な細かさは、通常の私たちの過去の想起や、現在の体験への気づきのレベルを遥かに超えたものなのです。
 その内容の超細かさは、哲学者ウィリアム・ジェイムズが言った「意識の流れ Stream of consciousness」のそれであり、それが、一種「無時間的」な様相の中で開示されているのです。
 一般には、気づけないレベルでの、体験の微細な諸層が、そこには現れているのです。

 さて、以下では、そんなライフレビュー(人生回顧)体験について、実際に、私自身が体験した事例を見ていきたいと思います。

 私は、非常に若い頃にこの体験をしたのですが、そのころは、精神的な探求をはじめて、まだ、日の浅い頃でした。
 体験的心理療法などの実践に触れる、ずっと前の出来事でした。
 しかし、ひょんなことから、そのような体験を持つことになったのでした。
 その様子を、拙著より引用してみましょう。

「ふと見ると、
随分と下の方に、
遠くに(数十メートル先に)、
「何か」があるのが見えたのである。
何かクシャッと、
縮れたもののようである。
よく見てみると、
そこにあったのは、
(いたのは)

数日前の「私」であった。

正確にいうと、
「私」という、
その瞬間の自意識の塊、
その瞬間の人生を、
その風景とともに、
「生きている私」
がいたのである。

たとえば、
今、私たちは、
この瞬間に、
この人生を生きている。

この瞬間に見える風景。
この瞬間に聞こえる音たち。
この瞬間にまわりにいる人々。
この瞬間に嗅ぐ匂い。
この瞬間に感じている肉体の感覚。
この瞬間の気分。
この瞬間の心配や希望や思惑。
この瞬間の「私」という自意識。
これらすべての出来事が融け合って、
固有のゲシュタルトとして、
この瞬間の「私」という経験がある。

さて、その時、
そこに見たものは、
それまでの過去の人生、
過去の出来事を体験している、
そのような、
瞬間瞬間の「私」の、
つらなりであった。

瞬間瞬間の、
無数の「私」たちの、
膨大なつらなりである。
それらが時系列にそって、
そこに存在していたのである。
(近しい過去が手前にある)

瞬間とは、
微分的な区分けによって、
無限に存在しうるものである。
そのため、そこにあった「私」も、
瞬間瞬間の膨大な「私」たちが、
数珠のように、
無数につらなっている姿であった。

それは、
遠くから見ると、
体験(出来事)の瞬間ごとのフィルム、
もしくはファイルが、
時系列にそって、
映画のシーンように、
沢山並んでいる光景であった。

そして、
そのフィルムの中に入っていくと、
映画の場面(瞬間)の中に入り込むように、
その時の「私」そのものに、
なってしまうのであった。

その時の「現在」、
まさにその瞬間を生きている「私」自身に、
戻ってしまうのであった。
その瞬間瞬間の「私」を、
ふたたび体験できるのである。

主観として得られた、
過去の「私」の情報のすべてが、
そこにあったのである。
………………………

 そして、それを見ているこちら側の意識は、透視的な気づきをもって、言葉にならない無数の洞察を、閃光のように得ているのであった。この時即座に言語化され、理解されたわけではなかったが、この風景の奥から直観的に把握されたものとして、いくつかのアイディアを得たのである。
 その内容をポイントごとに切り分けると、以下のようなものになる。これは後に、体験を反芻する中で言語化され、整理されたものである。
………………………」

松井雄『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』(改訂版)

 
 さて、このような体験をもったのでした。
 このような体験が、私に何を感じさせたか、告げていたかは、次回に見ていきたいと思います。

(つづく)

「走馬灯のように全人生を回顧する」とは(その2)


【ブックガイド】
変性意識状態(ASC)やサイケデリック体験、意識変容や超越的全体性を含めた、より総合的な方法論については、拙著
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容(改訂版)』
『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
をご覧ください。


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