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「走馬灯のように全人生を回顧する」とは (その2)―ライフレビュー体験 『私』を超えて

 「『走馬灯のように全人生を回顧する』とは(その1)」では、「ライフレビュー(人生回顧)」体験にまつわる周辺事項や、私自身の体験した光景について色々と書いてみました。

 今回は、その体験がもたらした洞察をいくつか見ていきたいと思います。
 「その1」では、拙著より、その体験の光景についての部分を引用してみました。その続きを見てみましょう。

 そして、それを見ているこちら側の意識は、透視的な気づきをもって、言葉にならない無数の洞察を、閃光のように得ているのであった。この時即座に言語化され、理解されたわけではなかったが、この風景の奥から直観的に把握されたものとして、いくつかのアイディアを得たのである。
 その内容をポイントごとに切り分けると、以下のようなものになる。これは後に、体験を反芻する中で言語化され、整理されたものである。

1.箱庭的な自意識
まず、この体験の光景で、真っ先に直面させられたのが、自分の「小さな自意識」である。これは自分の自意識(主観)の中身を、外側から視ることによって、赤裸々に示されたことである。自分が、瞬間瞬間、どんなに些細なことに囚われ、反応して生きているかを突きつけられたのである。通常、私たちは、雑念が高速で去来する意識の流れなどには無自覚である。しかし、この光景の中では、それら内的プロセスが、静止画のように、陳列されるように、そこにあったのである。箱庭のような自意識の無明性である。そして、瞬間瞬間の「私」とは、その場その場の置かれた状況に、ほとんど自動反応している機械仕掛けのような存在であった。そのことを、自分の自意識(主観)を外から視るという、気乗りのしない視座(設定)により、見せつけられたのである。

2.自意識の非連続性
通常、私たちは自分の自意識、「私」というものを、主観的には、時間を超えて連続している「単一の存在」だと感じている。しかし、この風景の中では、「私」というものは、瞬間瞬間に、その場の出来事として生起しており、連続している単一の存在(実体、主体)などでは全然なかった。その時その時の、思念や情動の偶然的な結びつきによって、編まれている複合体、塊であった。「私」という連続性や単一性は、実体ではなく、むしろ表象機能のひとつとして、仮象として分泌されているかのようである。そして、「私」というものは、自分自身に対して、大して統御することも、気づくこともできていない存在であり、自己の「主体」などでは全然なかったのである。

松井雄『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』(改訂版)

 
 さて、前回(その1)の光景シーンで見たように、そこには、時間軸にそって、無数の「私」が、「私」たちが、数珠つなぎにいたのでした。
 ありえないことですが、「私」は、無数にいたのです。
 そして、すべての「私」は、時制的に「現在」なのでした。
 というのも、「私」とは、瞬間ごとにつくられる表象であり、どのような場面でも、体験の断面としては、「私」であるからです。
 つまり、そこには、かつて経験された、無数の「現在の私」たちが、併存していたのです。
 さまざまな無数の「私」たちがいて、ストップモーションのように、そのすべてが「現在」なのでした。
 つまり、「過去」は、存在していなかったのです。
 「過去」とは、日常意識から見たパースペクティブ(遠近性)で、そのように見えているものにすぎないということだったのです。

 また、ここには、その光景で見られた「自分の主観」の姿、「私」の姿について書かれています。
 私たちは、普段生きていて、「自分の主観/私」というものを、
外から見るということはありません。そのものとして見るということはありません。
 私たちのこの「私」は、どこまで行っても「私」であり、私たちはその中から出ることはできません。
 私たちは「私」であることしかできなくなっています。
 「私」の膜のような牢獄です。

 しかし、この光景の中では、その「私」自体が、外から見られていたのです。
 「主観/私」の内容や構造が、外から透けて見えるような事態が生じていたのです。
 外側から見つつも、同時に、内側の「私」の主観感覚や自意識も感じられていたのです。
 「閉じた自意識」からの風景ではなく、「閉じた自意識」の感覚と構造そのものが、「透視図」のように、内も外も、ともに透けて感じられていたのでした。

 そして、そのような「私」は、私たちが通常、自明としている、「堅固な実体」ではないものでした。
 むしろ、その「私」は、外部の世界に、その都度、瞬間的に反応している、偶然的で、反射的な、「意識の流れの断片」であったのです。
 時間を超えた、固有の「私」の連続体などではなく、出来事とともに生起している、現象でしかない「私」の破片/群れであったのです。
 仏教の説く、縁起としての「私」でしかなかったのです。 
 そのため、この光景は、通常、私たちが自明としている「主体」の幻想を、粉々に打ち砕くものだったのです。
 そしてまた、「意識 consciousness」と「私(感覚内容)」とは、別のものであるということも予感させるものであったのです。
 「私(感覚内容)」は、情報ですが、「意識 consciousness」は、情報とは関係のないものであったからです。
 それは、インド的な知見に近い様相であったのです。

 さて、ここまでの部分は、堅固だと思っていた「私」について洞察された、ややネガティブな側面と言えます。

 しかし一方、この光景の中では、そのネガティブな面を上回る、生の、別の肯定的な要素についても、告げられていたでした。

3.全開された生の姿
一方、この小さな箱庭的な自意識の、反対の極として暗示され、示唆されていたのは〈ありうべき生の姿〉である。
瞬間瞬間、刻々の生を、自意識のゲームではなく、まったき解放として、燃焼として、極限を超える自由として生き抜け、とこの光景は告げているようであった。
「果てまで」生き抜け、とりわけ「行動をもって」生き抜けと告げているのであった。
その剥き出しの自由を超えることこそが、生の成就、魂の成就、生を生きる意味、生を〈真の実在〉たらしめる成就であると示していたのある。
「あれこれ顧慮すること」に価値はない。物理的な行動をもって解放を実現すること、自由を実在させること、そのことこそが重要であると告げているのであった。
「自分であること」の極限を超えて生き抜くこと。果てまで突っきるよう生ききること。
それこそが、この生の成就、魂の成就であり、人生の唯一の肝要事であると告げているのであった。
また、この風景の中では、世俗的、人間的な価値観は、完全に無化されていた。
この世間で、何かを成し遂げるとか、成功するとか、さらには生活で喰っていくとか、そんな人間的なゲームは、この生/魂の成就(実在化)となんの関係もない。それは副次的なこと、ついでのことに過ぎないと告げていた。むしろ、世間的には、没落することの方が、はるかに実在に触れられる可能性さえあるのだと。いずれにせよ、肝心なのは、極限を超えた解放を、彼方まで非妥協的に生き抜けるか否かである。そんな容赦ないメッセージが、そこには含まれているのであった。
そこには、「することDoing」の次元に対する「在ることBeing」の、絶対的な優位が示されていた。

(松井雄、同書)

 そこには、「私/主観」の小ささを、大きく突き破り、超え出ていく無尽蔵の〈生の本質/強度〉が啓示されていたのです。
 そして、「閉じた自意識」を踏み破り、彼方に突き抜ける、生の巨大で過剰な遠心力が、また、そこにこそ真理があるという不思議な促しがあったのでした。
 そして、ニーチェの永劫回帰の思想のように、瞬間瞬間を極限まで肯定し尽くす全肯定の必要が、痛感されたのでした。
アウトサイダー・アートと永遠なる回帰(永劫回帰)

 そこには、人間の行なう「否定」などがほとんど意味を成さない、宇宙の、圧倒的で〈絶対的な肯定〉があるのでした。
 その宇宙的本性があったのでした。
 そして、そのことは、別の洞察につながっていくのです。

4.人生という通り道
さて、そこには、目の前には、全「人生」が横たわっていた。しかし、その光景はまた、「この人生」という道を通らずには、それを避けては「先に進めない」ことも告げていた。逃げることや途中下車などはできない。自殺などして、人生から逃げ出そうとしても無駄であると。人生を逃げ出すことなどできないのである。
もし、別のところに行きたいなら、
むしろ、
「この道(人生)を通っていけ」
「この道(人生)を向こう側へ突っきれ」
「この人生を容赦なく生ききれ」
それしか道はない、それこそ最良の道なのだと、この光景は告げているのであった。
それこそが、「魂」の成就であり、ここにいる意味であり、今これを視ている意味だと告げているのであった。

(松井雄、同書)

 過去にあったことも含めて(本当は「過去」はなく、「現在」だけがあるのですが)、すべてを彼方まで「生き抜け」「生ききれ」というメッセージが、示されていたのでした。
 そこには、人間的次元を超えている、不可思議な「まなざし」があったのです。


 さて、ここまで、ライフレビュー(人生回顧)の光景から導かれた、いくつかの事柄をご紹介しました。この他にも、さまざまな洞察や視点がありましたので、そちらについては、拙著の方をご覧いただければと思います。

 今回は、前回と2回にわたって、ライフレビュー(人生回顧)体験について、体験事例も含めて、見てみました。
 このように、ライフレビュー(人生回顧)の体験は、私たちの実存の底をさらうような、不思議な強度を持って、私たちに生の啓示を与えるものでもあるのです。
 よく言われる「自分の全人生を走馬灯のように回顧する」という表現ではまったく伝わらない、興味深いものがあることを感じていただけたのではないかと思います。
 そして、その体験は、通常、私たちが信じ込んでいる、「意識」や「時間」、「生」や「実存」について、まったく違う視点を、「心に火傷を負わすかのようにして」人生に持ち込むものでもあるのです。

【ブックガイド】
変性意識状態(ASC)やサイケデリック体験、意識変容や超越的全体性を含めた、より総合的な方法論については、拙著
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容(改訂版)』
『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
をご覧ください。


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