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「混乱は、力と能力の過剰を意味する」―ノヴァーリス (その1)

「人間は、混乱しておればおるほど(混乱した頭脳をしばしば愚鈍とよぶけれども)、それだけ熱心な自己研究によって大成する可能性がある。これに反して、秩序だった、均整のとれた頭脳は、真の学究、徹底した博識家(エンチクロペディスト)になるようにつとめなくてはならぬ。
 混乱した頭脳の人たちは、最初てごわい障害とたたかわねばならない。進歩も、きわめておそいし、仕事をおぼえるのにも苦労する。しかし、やがてはかれらも、永久にゆるぎない名匠・大家になることができる。
 均整の人は、進歩が早いかわりに、落伍もまた早い。たちまちにして第二の段階に達する。が、ふつうここで立ちどまってしまう。最後の道程が苦しくなる。そして、すでにある程度の熟達の域に達していながら、あらためてまた初心者の状態に身をおくのが堪えがたいのである。
 混乱は、ちからと能力の過剰を意味する。ただ釣合いが欠けているのである。均整は、釣合いはただしいが、能力とちからの貧困を意味する。したがって、混乱の人が発展的であり、進歩の可能性をはらんでいるのに反して、均整の人は、早くから俗人として発展がとまってしまう。
 秩序と均整だけが、明晰なのではない。混乱した人も、自己研鑽によって、均整の人がまれにしか到達しないかの天上的な透明さ、自照の境地に行きつく。真の天才は、この両極をむすびつけるものである。天才は、速度を後者とわかち、充溢を前者とともにしている」

ノヴァーリス『花粉』前田敬作訳(現代思潮社)

 ノヴァーリスは、ドイツロマン派の詩人、作家です。
 彼は、30歳を前に夭折したため、生前には、わずかな作品しか知られていませんでした。しかし、同時代の巨匠ゲーテに、「もしノヴァーリスに長命が与えられていたとしたら、彼は、詩壇の王になっていただろう」と言わしめた特異な天才でした。
 

Novalis 1772 – 1801


 ノヴァーリスが生きた時代は、近代の幕開けの時期であり、近代的な思想や実証主義が、新しい人類史の開明をつくっていくと、希望と期待を持たれていた、そんな時代でした。
 ノヴァーリス自身は、早々に亡くなってしまうのですが、その後の人類の行く末や、凡庸化を予感していたのでしょう、それらをフォローしつつも、自らは逆張りをし、「世界のメルヘン化」を唱え、「魔術的観念論」を標榜したのでした。 
 そのようなわけで、今から見ると、彼の作品には、近代主義的な陳腐さから身をかわした、独特の幻視的感性が横溢しているのです。

 完成した作品はわずかですが、彼は、さまざまなジャンルに関する、膨大な断章を残しました。
 それらは、どれも独自の屈曲と透明性のある、味わい深いものとして、一部の才能ある人々に感銘を与えてきました。
 特に、人間の心や魂については、一種透視な洞察力を持っており、その意味でも、彼の文章を、人類史の中でも、特権的なものにしているのです。

 上に引用した文章も、そんな彼が、人間の能力(才能)と成長性の、2つのタイプについて記したものです。

 ここでは、能力(才能)の種類について、
 「混乱した頭脳」、または「愚鈍な人」 
 「秩序だった、均整のとれた頭脳」、または「均整(バランス)の人」 とが、
 対比的に語られています。
 実際、この2種類の能力は、世間でも、簡単に見分けられます。
 誰しも、両方の面を併せ持っていますが、どちらかの面が、特に強く出ている人もいます。
 そういう人は、典型的な人として、以下のようなパターンを示すでしょう。

 「秩序だった、均整のとれた頭脳」「均整の人」は、秀才タイプです。
 「均整の人は、進歩が早い」「たちまちにして第二の段階に達する」。
 子どもの頃や十代の頃、「頭のいい子」「優秀な生徒」と言われ、目立っているのは、この手のタイプです。
 情報処理能力に長けていて、物事を整理するのもうまいタイプです。
 記憶も整理されており、聞けば、ルールにそった、的確な回答を出してくれるでしょう。
 現代の社会や仕事でも、このタイプの人々は、重宝され、高く評価されています。
 
 「混乱した頭脳」「愚鈍」のタイプは、特に、目立つところのない生徒、もしくは、冴えない生徒のタイプでしょう。
 「最初てごわい障害とたたかわねばならない。進歩も、きわめておそいし、仕事をおぼえるのにも苦労する」。
 学校でも、物覚えが悪く、勉強ができなかったり、苦手なことが多く、苦痛な時代として学生時代を過ごすかもしれません。
 しかし、自分の好きなジャンルには、他の人々にない、独特のこだわりや集中力を持っているかもしれません。
 このタイプの人々は、社会の中で、然るべき場所が与えられると、能力を発揮したりします。
 しかし、たいがいは、外からは、わかりづらいタイプです。
 現代社会では、特に、生きづらさを抱えるタイプになっています。

 さて、ノヴァーリスは、これらの能力が意味している特性をもう一段、深く掘り下げていきます。
 その成長パターン到達点です。

 彼は、「秩序だった、均整のとれた頭脳」について、
「混乱の人が発展的でであり、進歩の可能性をはらんでいるのに反して、均整の人は、早くから俗人として発展がとまってしまう」
「ふつうここで立ちどまってしまう。最後の道程が苦しくなる。そして、すでにある程度の熟達の域に達していながら、あらためてまた初心者の状態に身をおくのが堪えがたいのである」とします。

 均整のとれた人というのは、与えられた情報を、要領よく、演算処理して、すばやく「解」を出します。
 ただ、そこで止まってしまうわけです。
 というのも、最初の整理した与件を疑い、ふたたびゼロに戻して、「解」を導くプロセスを、もう一度やり直すほどの鋭い感性(猜疑性)、エネルギーや意欲(情熱)はないからです。
 また、「自分が一度やった方法(演算)」以外のやり方がありうるとは思えないからです。揺るがないからです。
 一度やったら、それでよし(完了)、となるわけです。
 「均整は、釣合いはただしいが、能力とちからの貧困を意味する」とは
そのような意味合いです。
 そのため、ノヴァーリスは、「均整の人」は、「真の学究、徹底した博識家(エンチクロペディスト)になるようにつとめなくてはならぬ」と提案するのです。

 一方、混乱した人について、「混乱は、ちからと能力の過剰を意味する。ただ釣合いが欠けているのである」、「混乱しておればおるほど」「発展的であり、進歩の可能性をはらんでいる」、「大成する可能性がある」とします。
 混乱している人というのは、与件や情報をバランスよく整理するのが苦手です。もしくは好きじゃありません。
 自分のこだわりが強く、「自分の好きな形」でまとめて、「解」を出そうとします。そのため、自分の作った与件にもすぐ疑いが湧き(与件が崩れて)、なかなかアウトプットが積み上がっていかず、「何度もはじめからやり直す」はめに陥ります。全然、進捗しないのです。
 結果、混乱した人は、「解」を出すのに、均整の人の何倍も、時間がかかったりします。世間的な時間軸でいうと、時間がかかりすぎて、納品期日に間に合わなかったりします。そのため、いくら良いものをつくっても、評価されないのです。

 しかし、混乱した人のアウトプットは 何度も与件を練り直し、噛み砕き、練り直しをつづけた末のものなので、その内容には、情報の厚みや密度があります。また、応用が効くのです。
 一方、「均整の人」のアウトプットは、要領よく手早くまとめたものなので、どこか表層的です。徹底的に突き詰められたという痕跡、情報の厚みや密度というものがありません。通り一辺倒なので、深い普遍性もあまりないのです。
 混乱した人のアウトプットには、何度も与件を練り直したものなので、苦悶とともに生きた経験情報が、そのまま厚みや深さとなって残っているのです。

 ノヴァーリスは、混乱した人について言います。「しかし、やがてはかれらも、永久にゆるぎない名匠・大家になることができる」「混乱した人も、自己研鑽によって、均整の人がまれにしか到達しないかの天上的な透明さ、自照の境地に行きつく」と。

 混乱した人は 物事に取り組む際に、与件の基礎から疑い、崩壊を繰り返し、徹底的に取り組むため、心理的・人格的にも基盤から危機にさらされます。苦悶することが多く、自らが精錬されるプロセスを経がちです。
 そのため、人格の中にあった不純物が焼き尽くされて、雑味がとれ、「天上的な透明さ」が現れてくることにもなるのです。

 また、「天上的な透明さ」「高み」をつくるのは、それに見合った土台の深さです。
 高い建物を造るには、その分の堅固をもった地盤の深さ・固さや、基礎工事が必要となります。
 高い樹木というものは、地表に見えている高さの、数倍もの根の深さとひろがりを、地中の中に持っています。
 「より高く上がるには、より深く沈まなければならない」と言われるように、数々の苦しみや修羅場の経験によって練られた深さや基礎体力の上に、「高みに飛翔する能力」も獲得できるのです。
 煉獄の死と再生のプロセスが、そこには必要なのです。

 ところで、現代社会で重宝される能力のタイプは、「均整(バランス)の人」のタイプです。
 これは、短期的に投資回収して、利潤を上げる資本主義のモデルが、この社会の価値基準となっているからです。
 そのため、その場でその場で、与件の情報をすばやく整理して、瞬時に演算処理し、損益(損得)を見分ける頭脳が尊ばれているのです。
 コスパ、タイパなどという言葉は、その矮人化された世界観のあらわれです。
 日本のマスコミでは、「天才」という言葉が、マーケティング的に、安く使われていますが、そういう場合の才能は、たいてい、小器用で如才のない「秀才」タイプのことです。才能がまったくない場合さえあります。単に、金儲けにうまく絡んだというだけの話です。
 しかし、「天才」とは、ノヴァーリスが指摘するように、混乱した人のカオス的(愚鈍的)な充溢性に、均整の人の組織化と処理速度が合わさったものを言うのです。だから、昔から、天才と狂人は紙一重と言われているのです。
 そして、前提の基礎を破壊した、粉々の未規定の領域から、瞬時に(俗人の目に届かない)尖塔の高みを創る存在を、天才と言うのです。
 そういう人のアウトプットは、短期の投資回収モデルの論理(浅い知性)や計算可能性に、決して回収できない(理解できない)高みと深さを持っているのです。天才は、基本、採算度外視です。
 実際、ノヴァーリスは死んで、2世紀以上経ちますが、現代でさえ、彼が充分に理解されているかと言えば、全然、そんなことでもないのです。
 そういうものが、「天才」というものなのです。
 

 さて、ところで、筆者のように、セラピーのセッションを行なっていると、さまざまなクライアントの人たちがやってきます。
 当然、クライアントの人たちは、多くの苦しみや葛藤、混乱を抱えています。
 そして、現代の凡庸な社会通念に合わせて、それらの「混乱がよくないもの」と思っています。

 しかし、上で色々と見てきたように、「混乱」とは、然るべき文脈では、「充溢」や「発展性」としての局面を持っているのです。
 そのような際、「混乱」または「愚鈍」が、いかに能力発現のひとつの表出形態であるか、素晴らしい成長の機会であるかを、お話することがあります。
 実際、「混乱」は、人格変容と才能発現へ至る、重要なチャンスであるのです。
 「混乱」によってこそ、古い自己を解体をして、「あらためてまた初心者の状態に身をおく」ことができるからです。
 普通、そういうことはあまり起きないのです。
 そして、そこから、苦労はありますが、「新しい自分」をつくっていくことができるのです。
 そのような再生(刷新)は、真の創造力をもつ者の条件なのです。
 そのため、「混乱」を抱えている人は、そのことをポテンシャルの発現であり、善きことと考えていただきたいと思うのです。
 
 また、人生の時期として見ると、若い頃の「混乱」は特に重要です。
 それは、生成と成長(生長)への促しだからです。
 また、現代は、よりネオテニー(幼形成熟)化してきているので、「若い時代」といっても、十代二十代だけでなく、今や、三十代四十代までも、「青春」が続いているような状況です。
 そのような時期に、充分「混乱」し、のたうちまわり、前提をひっくり返し、多く試行錯誤を重ねた人は、結果的に、大成していくこととなります。
 
 「愚者も、その愚かさを貫けば、賢者となる」と、ノヴァーリスと同時代の、同じく幻視家のウィリアム・ブレイクは言いました。
 人生の早い時期から、賢くこじんまりと、バランスをとって生きるのではなく、たとえ、いくつになっても、「混乱」を抱えて、野暮に、愚直に、その「愚鈍さ」を突きつめ自己研鑽に励めば、必ず「均整の人がまれにしか到達しないかの天上的な透明さ、自照の境地に」到達することもできるのです。

 さて、次回(その2)は、このような能力の構造が、システム論的には、どうような仕組みになっているのか、見ていきたいと思います。

【ブックガイド】
変性意識状態(ASC)やサイケデリック体験、意識変容や超越的全体性を含めた、より総合的な方法論については、拙著
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容(改訂版)』
『ゲシュタルト療法 自由と創造のための変容技法』
をご覧ください。


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