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クリスマスキャロルが流れる頃には君と僕はもう離婚した方が良いだろう


 今回はクリスマスシーズンらしく離婚についての話(当noteの読者諸賢なら既知の事実だが筆者は性格が修復不可能なレベルで歪曲しているのでマジカルバナナよろしくクリスマスといえば離婚という思考になる)。


 
 あらかじめ断っておくが、筆者は独身未婚の27歳生態系ピラミッド最下層男性であるため、今から述べることはすべて机上の空論に過ぎず、あまり参考にはならないだろうし、実際に離婚を経験したという人たちの琴線に触れるやもしれぬが、そこは筆者が学生時代に使用していた激ダサ非モテベリベリテープ財布に免じて許容していただきたい(ベリベリテープ財布を使うとダサく見えてしまう筆者のような人間の戯言には執着せずに適当に読んでくださいねの意であり、ベリベリテープ財布自体に罪は無い)。




 まず、離婚というと一般的には負のイメージがあるが、一概にデメリットばかりだとも言えないのではないかと最近切に思うようになった。



 離婚の理由として挙げられるものは価値観の相違やすれ違い、夫または妻の不倫、経済的な事情、お互いの音楽性の違い夫婦のどちらか一方が甲殻類アレルギーなのにも関わらず回転寿司に行くともう一方の夫あるいは妻が見せしめのようにエビとカニの寿司ばかり食べようとしてくるなど、色々あるだろう。



 いずれにしても、お互いの中に不満や不安が少なからずあり、共同生活をしたり共に時を同じく過ごしたりする上でスムーズにいかないような障壁が発生するからこそ、離婚という選択肢が浮上してくる。


 そしてやはり、離婚という言葉はそういった衝突を連想させ、世間的には「上手くいかなかったのだな」という否定的な印象を持たれる事が多い。 


 
 しかしながら、昨今の多様性を尊重するという標榜を掲げたがる世の中、離婚というものは徐々にではあるが「前向きな選択肢」のひとつとして捉えられるようになってきてもいるようだ。



 離婚以外にも別居婚とか事実婚とか、今は多様な婚姻形態が世間に認知され、受容されつつある(未婚独身だからよく知らんけど多分)。



 この流れは非常に良いだろう。

 昨年のM-1グランプリのキュウ風にいえばそれぞれの人生の形があって然るべきでしょ~う2人の遠回りさえ、ひとひらの人生となりえるでしょ~~~う(GLAY『However』より引用)。
 あらためて見たらHoweverの歌詞、めっちゃええやん。



  毎回書いてて感じるがこのnoteは無用な脱線をしすぎである。そりゃなかなか念願の新規読者も増えないよ。
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 話を戻そう。 



 今は時代の変遷により、肯定的な離婚という選択肢も確かに存在しているということだ。 

 しかし出る杭は打たれるというか、新しい価値観は受け入れられるまでに時間がかかるというか、やはり離婚という言葉の根底にある負のイメージは完全には払拭できていないし、この先もそうなるまでには時間がかかるだろう。



 リモートワークというものが登場しても、結局出社こそが正義だとでもいうような風潮が幅を利かしていくように、このジャパンという国は以前からの伝統というか価値観を一切合切ぶち壊してリセットするということが壊滅的に苦手である。



 
 そしてジャパニーズの付和雷同という悪癖。


 マジョリティが市民権を得るように、ジャパンでは古くから正義として存在するもの、つまりその価値観自体の信奉者が多ければ多いほどその価値観を支持したがる。


 要は自分が異端者であることを嫌がるのだ。その方が絶対的な安心感がある。


 
 世間体、体裁という言葉の裏にはそういった考え方が深く、そしてねっとりと根付いている。



 だから大抵の世の夫婦は関係性が悪くてもなかなか離婚したがらない。子どもがいるとなおさらである。


 子どもがいる状態で離婚することというのは、生活苦難、経済的な困窮というダメージを子どもに与えてしまうことを連想させる。



 そして何より、「親が離婚した」という事実そのもの自体が、子どもの心になんらかの傷を与えるという想像が働く。



 確かに、この理屈は正しいかもしれない。


 もし離婚しないことによって、そういった被害を防げるのであれば最大限の努力を尽くしてそうするべきであろう。


 
 しかし、じゃあ子どものために、そして世間体のために離婚はしないでおこう、という風に解決できるほど世の中というのはそう単純明快ではない。



 夫婦間で生じた衝突によるストレスを我慢しながら生活を続けると、毒気が蓄積していき、やがてはそれを抱えきれなくなって必ず口論や喧嘩などの対立を生む。



 ここで子どもがいない家庭ならば、すんなり離婚するか、どちらかが仲直りしようと歩み寄ることさえすれば解決の糸口には近づけるだろう。



 問題なのは子どもがいる家庭である。


 先述したように、子どもがいる夫婦というのは離婚に対してのハードルが高い。どちらかが世間体や体裁を気にする夫婦なら特に。


 ただ、子どものためにここで離婚をしないという選択をすると、かえって逆効果になる場合がある。



 口論や喧嘩が絶えない夫婦間の子どもは、両親の不仲な関係性を見ることにより心に傷を負う。
 
 不安や恐怖などのネガティブな感情は増幅され、希望や勇気というポジティブな感情が発露しにくくなる。



 だからたとえ夫婦間で話し合いをしたとて、口論や喧嘩が絶えない家庭では、夫婦が離婚しないことによって子どもが少なからず心の傷を負うことになるのだ。


 人間は他人の感情が伝播する生き物だと言われるが、一番身近な人間がそのように常に怒気を含んでいたり、険悪な関係だったりするとその負の感情を請け負わなくてはいけなくなる。


    
 いわば、離婚しないことにより、子どもの左胸に突き刺さりかけているナイフをより奥までじわじわと差し込んでいっているようなものだ。


 多くの夫婦は、話し合いというその場限りの一時的な鎮火行為をすることによって、そのナイフを抜いたつもりになっている。


 
 しかし中には、離婚という形を選択することによってしかそのナイフを抜けないこともあるのだということに気付けない。


 だからそういうケースが悪化し、極端なところまでいくとたまにニュースで報道されるような家庭内殺人などが起きる。


 もうナイフが心臓に到達してしまってからでは遅いのだ。ナイフを抜くための方法を誤ると、やがて取り返しのつかないことになる。



 だから、一刻も早く離婚というものがネガティブなものではなく、子どもを、ひとりの人間を救済する可能性を持つものでもあるのだという認知が広まるべきなのだ。



 
 離婚は哀しいものではない。

 人生の船出であり、今まで乗っていた船に別れを告げ新しい冒険の旅へと踏み出す一歩なのだ(筆者がYoutubeでONE PIECEのアニメ公式チャンネルを無限視聴していることが容易に推察できる)。



 まるで離婚経験者のような主張であるが、私は別方向からの当事者としてこの考え方を世間に提唱したい。



 また、離婚経験者をバツ○(○の箇所に離婚回数)と呼ぶ風習があるが、これも時代を考慮して「○逃げ切り」と呼ぶように変更した方が良いだろう。
 
 襲い来る不幸から逃げ切れてよかったね、という意を込めて。ある意味バツと言うより非難を呼びそうではあるが。





おわり

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