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作品の向こうには仲間がいた


2023年8月22日(火)朝の6:00になりました。

バイバイとか、サンキューとか、簡単だけど。

どうも、高倉大希です。




むかしから、人に言われて嫌な言葉というものがあります。

それは「考えすぎ」という言葉です。


他者から言われると、とてもさみしい気持ちになります。

「これ以上お前の思考に付き合うつもりはない」と、切り捨てられた気になるからです。



そんなとき、文学に出会いました。

文学作品の向こうには、自分とおなじように考えすぎる人がいました。


そんなとき、音楽に出会いました。

音楽作品の向こうには、自分とおなじように考えすぎる人がいました。


そんなとき、映画に出会いました。

映像作品の向こうには、自分とおなじように考えすぎる人がいました。


現実のつまらなさを、一瞬でも忘れさせてくれる希望は、人には本来欠かせないはずだ。全部だめで、なにひとつ希望が叶わなかったとしても、友と一緒に酒を飲んで笑い話にすればいい。そのために友がいる。

燃え殻(2023)「ブルーハワイ」新潮社


この世には確実に、考えすぎる人がいる。

そんな事実を証明してくれた作品は、大切な拠りどころとなりました。


間違いなく、存在はしています。

しかし、そんなつくり手はなぜかいつも遠くにいます。


会って、話すことはできない。

作品を通してしか出会えない距離に、さみしさを感じることもありました。


だけど、ぼくは、思った。「孤独」は、前提なのだ。「ひとりぼっち」は、当たり前の人間の姿である。赤ん坊じゃないんだから、誰もあんたのために生きてない。それでも、「ひとりぼっち」と「ひとりぼっち」が、リンクすることはできるし、時には共振し、時には矛盾し、時には協力しあうことはこれもまた当たり前のことのようにできる。

ほぼ日刊イトイ新聞「2000/11/6 今日のダーリン」より


作品は、遠くの仲間の存在を知らせてくれる便りのようなものでした。

返信を送ることはできない、一方通行の便りです。


仲間の存在を確認できなければ、いまの自分はここにはいない。

ときどき、そんな大袈裟なことを考えることもあります。


作品の向こうにいる人も、決して自分とおなじではない。

孤独が前提になったのは、もうすこしあとのことだったように思います。


そもそも、コミュニケーションとは、わかりあうためのものではなく、わかりあえなさを互いに受け止め、それでもなお共に在ることを受け容れるための技法である。

ドミニク・チェン(2022)「未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために」新潮社


どれだけ共感したとしても、みんなちがう人間です。

だからこそ、話をしましょう。






サポートしたあなたには幸せが訪れます。