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ぼくが聖書を好きな理由

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キリスト教の礼拝でするお話の原稿はこちらにまとめています。そんなに「新しい」とは自負していませんが、「正統派」に疲れた方々に届けたい聖書のまた一味違った魅力を書いています。
大体月に4本です。 一本200円の記事をマガジン登録で500円でお読みいただける設定にしています。…
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#キリスト教

逃げ切ろう

逃げ切ろう

ヤコブはいよいよ、自分が父からの祝福を奪った兄と再会します。この箇所では「順序」にこだわる

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弱さからしか見えない景色

弱さからしか見えない景色

天幕の周りで過ごしていた弟ヤコブ、狩りが得意な兄エサウ、そして父イサク。今朝の聖書のお話には、三人の男、父、兄、弟役が登場します。
三人とも、どことなく

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この先も共に行こう〜キリスト教の特徴を考え中〜

この先も共に行こう〜キリスト教の特徴を考え中〜

コリントの手紙二は、かつて、教会で起こっている問題に提案や助言をしたパウロが、その後にさらにフォローアップしようと書き送ったものと紹介されることが多いです。なんとなくフォローアップという考え方自体が、私にはガッツのある指導者像を思い起こさせるものですが。今回は、その冒頭部分からのお話です。

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キリスト教会はイエスの宣教を真に受け継ごうとしているのか〜イザヤ書2章4節を巡って〜後半

キリスト教会はイエスの宣教を真に受け継ごうとしているのか〜イザヤ書2章4節を巡って〜後半

さて、前半で述べたイザヤの時代のことばは数百年のちにどのように受け継がれていったのかを考えていきたいと思うのです。それはやっぱり絵に描いた餅だったのでしょうか。
 また最後の部分は教会ではお話ししていない加筆部分です。

平和の預言はイエスによっても受け継がれました。「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ5:39

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返却することよりも次へ渡すことへ〜コリントの信徒への手紙一3章1−9節〜

返却することよりも次へ渡すことへ〜コリントの信徒への手紙一3章1−9節〜

コリントにはローマの解放奴隷たちが多く移住していたようです。コリンとは、南ギリシャ州の大都市でローマの繁栄を象徴するような都市とも言われています。ローマの市民権を持つ人びと、ユダヤの民、ギリシャ人が共生するところでした。その共生の様子は残された史料から想像するほかありません。少なくともキリスト教共同体では、ユダヤの人々とギリシャ人との間には超えられない壁があったことがわかっています。パウロは、その

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はっきりと言えない時がもうすぐ来るが〜ヨハネ9章②

はっきりと言えない時がもうすぐ来るが〜ヨハネ9章②

さて、前回はヨハネ9章を読むその前段階として、ファリサイ派のことについて述べました。今度は、このシーンでのイエスと弟子たちの様子から考えてみます。弟子たちは目が見えない人が見えないことを罪のせいだというのです。それは

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同族意識、同属意識を打ち破れ ヨハネ9章①

同族意識、同属意識を打ち破れ ヨハネ9章①

今回のお話は、さてはて、どう言っていいのやら、と頭を抱えます。

イエス様がエルサレムにいた時の話です。エルサレムには神殿で働く祭司たちや律法を厳格に守ろうとしているファリサイ派の人々がいました。この話では祭司たちやファリサイ派の人々が、一人の目が見えなかった人を巡ってイエスを訴えようとすることを伝えています。物語は一人の人を取り巻いて、いわば出汁にして、イエス様に何か罪があったことにしよう、いわ

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カーブが強い聖書の読み

カーブが強い聖書の読み

正直、心臓の音が大きくなるぐらい、寝られない〜日々でした。
忙しいでした。
その理由の一つは

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いのちの水とキリスト教(4・完結)

いのちの水とキリスト教(4・完結)

今回が4つに分けていたお話の最終です。ヨハネによる福音書4章前半をどちらかというと「教会論」的にお話ししてきました。教会ってどういうところなんだろう?それを問うことは自分の頭の中で〜あるべき〜なことを超えていく一つの霊的な活動だと思うのです。大体の教会論は逆に自分の頭の中にあるべきことを形成していく形で紡がれてきたことへの逆ベクトルですね。

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いのちの水とキリスト教(3)

いのちの水とキリスト教(3)

シリーズ3回目。
ウィンドウショッピングはお好きですか?
いわゆる商業地区を歩いていくと圧倒されることがあるのです。シュッとしたマネキンが着ている華やかな洋服や、ショーウィンドーに並んだ何を入れたらいいのかわからないほどのバッグ、数百万もするアクセサリーや時計が並んでいます。飲食店が立ち並ぶ街を歩くとぎゅうぎゅうに詰め込まれたように色とりどりのポスターでお得セットが売り出され、中には待ち時間90分

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いのちの水とキリスト教(2)

いのちの水とキリスト教(2)

さて、前回の続きです。

キリスト教は、今日の聖書の箇所のように幾重にも折り重なりがあり、正直「なんなん?」と言いたくなる、

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教会が野原になる時

教会が野原になる時

ヨハネによる福音書6章1−15節を読んで、心に響いていることを書いています。(最後まで無料でお読みいただけます)

イエスの道行は目まぐるしいほどにあちらこちらを周回するものでした。当て所ない旅です。行き先に何があるのか、何をするべきか予定や目的を持たない旅へ、イエスはなぜかき立てられたのでしょうか。この問いに触れていくことこそが、私たちが自分の人生を「振り返る」時の肯定感を与えてくれると思います

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浮ついた明るさとは裏腹な新年〜虐殺、そして貧困の2024年を迎えるにあたり〜(2)

浮ついた明るさとは裏腹な新年〜虐殺、そして貧困の2024年を迎えるにあたり〜(2)

マタイによる福音書にある王による嬰児の虐殺の物語はまるで出エジプト記という書物にあるモーセ誕生の物語のようです。モーセが生まれた時、誰が鞭を受けていたでしょうか。エジプト王は奴隷の人口が増え、力が増すのを恐れました。そして生まれた男児を殺害すると命令します。その時、シフラとプアという助産師は命令には従わず、市民不服従運動、CDMしたのです。CDMへの参加は自分自身が迫害されることを意味します。CD

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浮ついた明るさとは裏腹な新年〜虐殺、そして貧困の2024年を迎えるにあたり〜(1)

浮ついた明るさとは裏腹な新年〜虐殺、そして貧困の2024年を迎えるにあたり〜(1)

これは2023年12月31日に行われたキリスト教プロテスタントの礼拝でのメッセージです。聖書の箇所は、イザヤ書61章とマタイ2章から。
 私としては相当に勇気を出したメッセージでした。その重さがどれぐらい表現できているのかは分かりませんが。3回に分け、そして少し加筆修正しています。

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