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余命半年。

今回、Memeimeestudio(メイミースタジオ)が話をするのは、僕自身成人式の半年後に起きた出来事について話したいと思います。


今までの人生振り返っても一番辛く一番受け入れ難い出来事です。


それは、成人式の3ヶ月前に遡ります。
当時まだまだ中途半端、大人なった感覚もろくになく好きな事をダラダラ毎日繰り返しているだけのクソガキでした。

同世代の人達より少し早く社会人になった為、特に凄くもないのに僕は、同世代の人を見下し「俺は凄い・偉い・学生とは違うんだ」と天狗になっている時期。

それは、突然目の前に現れた避けようのない出来事。

最初は、受け入れる事ができず嘘だと何かの間違いだと否定し家族には、涙を見せたくなく1人外で号泣する事しかできなかった。


体調不良で病院に行くようになった親父、初めは風をこじらし結核になったので少し入院すると母親から話を受けました。


親父は、学生時代柔道をしていたので身体が丈夫で入院するのは、初めての体験だったので少し困惑していました。

お見舞いに行くとしばらく入院するから成人式の準備をしっかりする事と家族の事を頼むと告げられました。

最初は、うるさいなとしか思わなく反発する感じの対応しか出来ませんでした。

入院から数日がたち精密検査を何度も受けて言われた病名が肺癌の末期、脊髄と脳にも転移していて余命半年。


正直、家族全員膝から崩れ落ちるような衝撃でした。

母親も兄弟も泣き崩れどうにもならない現実にただ立ち尽くす事しかできず、僕自身の中でただ大丈夫だと根拠の無い言葉を繰り返すしか出来ない。

それを告げられた時の親父の顔が、言葉にはならないほど打ちのめされた絶望的な表情をしていました。

家族を子供を安心させるため必死に涙をこらえる親父の後ろ姿が、切なく僕自身も涙をこらえるのに必死になるしかなかった。

親父を安心させるため強い自分を演じるしかできなかったんだと今は、思います。

それから痛みを和らげる為の抗がん剤治療に入ります。

みるみる衰弱していく親父の見るのが辛かった。

ガッチリ系の親父が、ガリガリに痩せ骨と革の状態になり髪も抜ける為、坊主頭。

本人が、一番辛いはずなのに必死に家族の前で笑顔を造る親父の姿を見て何度も影で涙しました。

病院の先生からは、成人式まで持たないかもしれないからその覚悟を持っておくように言われました。


その時の親父の口癖が、
「成人式の前には、死ねない」
でした。

必死に家族の為に1日でも長く少しでも長く生きようともがいていた。

必死に家族の為に何か残そうともがいていた。


その行動・言動・想いは、当時未熟な僕自身にもしっかり伝わっていましたがどうして良いのか解らなかった。

今の僕の知識・経験・言葉・感情・想いが、あればもっと親父にしてあげれたことが沢山あったと思っています。

必死に頑張った親父は、余命半年後をすぎ8ヶ月必死な後ろ姿、想いを僕の心の中に残していってくれました。


親父の最後の言葉は、「家族の事を頼む」でした。


僕の腕をしっかり掴み僕の目をしっかり見て僕に残した言葉。

当時、親父の歳は50歳。
まだまだ、沢山したい事経験したい事が、あったと思います。
今の僕が、40歳。
後10年で親父の歳になりますが親父の偉大さには、全然追い付けてないと実感する毎日です。

あの必死に生きた8ヶ月は、親父の中ではどんなに長い8ヶ月だったのか・・・。

その時間を共有し共に必死に走ったから今の自分があり必死に学んだからこそ今の心(想い)が、ある。

できるだけ同じ経験をするなら少しでも遅く経験して欲しいと思いますし少しでも長く喜びをわかち合って欲しいと感じます。


人は、いずれ死にます。
死ぬ時は、1人です。
ですが、生きた足跡と想いは必ず貴方の大切な人の心中に残ります。
身体と心が、一体になって奇跡を起こしていくその先に精神的世界が待っているんだと命を通し親父から教わった気がします。

この経験を得て僕の中の価値観が、ガラリと変化し見えてる世界が変わりました。
まだまだ変化の途中ですが、読んで頂いた読者さんを巻き込み加速して変化していけるように想いをのせ書き残していきます。

今回の話しは以上になります。
最後まで読んで頂いてありがとうございます。
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