見出し画像

恋愛依存なわたしを俯瞰して認知してみた

昨日、母と今の状況について話をした。
母が抱えているわたしに対する漠然とした不安感は、わたしの状態を改善するための選択そのものについてではなく、わたしが今付き合っている彼との関係性についてだということがわかった。

「あなたがいつもと同じパターンに陥ってるんじゃないかっていうのが、正直不安要素としてあるの」と。

母親っていうのは、いくつになっても、何年経っても、子どものことをよくわかってる。見られたくないところ、気づかれたくないところにも気づくし、そこを的確に突いてくるから、嫌だなぁと思う。

でも、嫌だなぁ、ほっといてよって思う時点で、図星を突かれてるからなんだよな。


いつものパターンというのは、わたしが恋愛対象の相手に依存するということ。相手に自分という存在のすべてが吸収されて、自分の力でその場所から動き出すことができず、相手にコントロールされた「自分の意思」とは関係ない状態でその人と一緒にいてしまうこと。その状態のすべてに影響されて「相手のことが好きなんだ」と自分の気持ちを決定して、本当に好きなのかどうかわからないのに、そこに依存して沼ってしまう状態のこと。

その沼に陥ってしまうのは、「1人になりたくない」「寂しい」「愛されたい」というわたしの心の渇望や虚無感、自尊心の無さからくるもの。


実際、今、その要素が一切ないかと尋ねられると、わたしは強く否定することはできない。依存してしまっているところはあると思う。

ただ、今回の恋愛が今までと違うのは、わたしには守るべき必然的優先順位第一となる「子どもがいる」ということ。
そして、相手の人が、わたしが彼に対して依存状態になることを良しとしない性格の人であるということだ。


彼は、わたしの人生における優先順位を、わたし以上に理解している。

わたしの人生における “大切なもの” は、「わたし自身」「子ども」「家族」。この3つ。
この3つだけのときにうまくバランスがとれているならいい。でもそこに「彼氏」という4つ目の要素が介入したときに、わたしの “大切なもの” である3つのバランスが崩れてしまうのなら、4つ目の彼氏(恋愛)は、わたしの人生にはないほうがいい。そういう考え方の人。

もちろん、「彼氏(恋愛)」が、わたしの根本的に大切な3つの “大切なもの” のバランスを崩すことなく、逆に強固なものとしてくれるのなら、その第4の要素があっても、それはわたしにとっても子どもや家族にとってもポジティブなものだからOKと彼は考える。その考え方に、わたしも、そして母も、同意している。


「でも、その見極めを、つむはちゃんと冷静にできてる?そのバランスが崩れている原因が自分(彼氏)だとしたら、そのときにはあっさりと俺を切り離すことができる?」と彼はわたしに問う。

結論をいうと、感情スイッチをオフにして、理論だけで動けば、「できる」とわたしは思っている。

緊急事態や非常事態において、わたしはどこまでも理論だけで考えることができるし、どこまでも冷徹に判断を下していくことができる。最近、そういうことがあった。彼と別れるべきかどうかで大きく揺れる出来事が起こり、わたしは最初は感情的に揺れ動いたが、その後友達に話を聞いてもらう中でひどく理性的かつ論理的に今の現状を分析し、今彼といることのメリットとデメリットを正確に分析判断し、その上で今の現状において彼のことを「利用価値あり」と判断した。わたしにとって “大切” な3つの要素を守るために。だから、別れる必要性はない。むしろ、今別れることは得策ではない、という結論に達した。現状、利用できるものはなんでも利用する。それくらい、母親としてのわたしは、”大切なもの” を守るために真剣だ。

そのわたしの理論と考えについて「どう思う?むりやりこじつけてる?」とわたしは相談に乗ってくれていた友達に聞いた。「いや、むしろめっちゃ冷静。冷静すぎて怖いくらい。笑」と言われた。

結局、その翌日、彼といろんなことを話し合って、感情面でも彼で大丈夫だ、と心から思えたので、感情と理論が和解して、一旦落ち着いた。(もちろん、そんな理論と感情の乖離から、和解までの行程を彼は知らない)


彼は、言葉やわかりやすいスキンシップを通しての愛情表現をする人ではない。LINEも少ないし、電話も別にしないし、もちろん金銭的にサポートするよとかもない。ご飯行くときがあれば、彼が奢ってくれるけど。
なんなら、わたしがパニックを起こしていたり、うつっぽくなっていても、彼はニュートラルだ。わたしから頼まなければ、隣にきて寄り添ってくれたり抱きしめたりもしない。

少し落ち着いたときに「なにがあったの?」とだけ、尋ねてくれる。わたしは、なにが原因でパニックが誘発されたのかを伝える。彼は、それをただ黙って聞く。そこに変な同情も、寄り添いの言葉もない。ただ、事実を聞いている。それ以上でもそれ以下でもない、という感じ。


その距離感が、わたしには不満だった。
本当にわたしのこと大切にしてるの?好きなの?好きだったらさあ、もうちょっとこう、なんかないの?寄り添うとかさ。安心させてあげようとかさ。そういうのないの?って。

結局、相手はわたしのことなんて、そんなに好きでもないし、どーでもいいんだろうか。そんな人と付き合っていても自分がしんどくなるだけなんじゃないか。別れて、もっとわかりやすい愛情表現をしてくれる人を見つけた方がいいんじゃないか。そんなことまで、何度も考えたりした。

でも。

それ以外の部分で、彼は彼なりにしっかりと愛情を示してくれる。どれだけ疲れていても、疲れて寝落ちするギリギリまでわたしの話を聞き続けてくれる。翌日、どんなに早朝出勤だとしても。思いやりもある。気遣いもある。ふと気づくと、わたしが好きなものが冷蔵庫やお菓子コーナーに補充されていたりする。たまに彼の家に行くと、わたしの分のご飯もしれっと用意されていて、「今から食べようと思ってたんだよ。一緒に食べる?」とさりげなく声をかけてくれる。絶対、待ってくれてたのに。

前の結婚生活が、鍵がかけられた閉ざされた密室に閉じ込められて、相手を愛するしか自分を正常に保つことができない関係性だったのであるとするならば。
彼との関係性は、その真逆。扉は施錠されていないどころか、完全に開きっぱなし。束縛しない。嫉妬もしない。期待もしない。完全に、わたしの自由にすべてが委ねられている。彼は彼の人生を生きているし、わたしはわたしの人生を生きろ、と。それぞれの選択の中で、道が離れていってしまったとしても、それはそれで仕方ない。つむにとって、”大切なもの” が守られることが一番大事だから。俺の存在がその “大切なもの” のバランスを崩すのであれば、俺はつむの人生にとっていらない。

でも。願わくば、そうならず、2人で歳をとるまで寄り添って生きていける道が自然と続いていけばいいと思っている。

そんな人。


何度も悩んだ。何度も迷った。

思い返せば、今までのわたしの恋愛は、キラキラドキドキに満ち溢れた THE 恋愛っていう感じのものだった。ドラマがたくさんあって、刺激もたくさんあって、嫉妬したりされたり、束縛されたり、何度も言葉や態度で愛を確かめ合うような関係性。

そういう関係性は、確かに安心感があった。愛されているという安心感。何度でも、自信を取り戻させてくれる安心感。自分には価値があるんだ、この人がこんなにそれを示してくれるんだから、と。


でもさ、と最近思う。
自分の中に横たわる漠然とした不安や自信のなさは、外の人に埋めてもらえば満たされるものなんだろうか?

まるでヒビの入ったコップみたいに、水を入れても入れても、いつまでもいっぱいに満たされることはない。そして、今までのわたしは、ヒビは無視して、「もっと満たしてよ、もっと水を注いでよ」と相手に求め続けた。

でも。それって、他者依存。
健康的な関係性ではない。相手もどこかのタイミングで疲弊する。疲弊しないのは、相手を束縛やコントロールをすることで自分自身の承認欲求や愛されているという自己価値を感じる地雷系の人たちだけ。(元旦那がいい例だ)


そんなことを冷静に、少し俯瞰して眺めてみたときに。
今の彼氏のスタンスは、わたしにとって良いことなんだと思い始めている。キツイかキツくないかで言ったら、キツイときもある。正直ね。

でも。
愛は、確実にそこにあるのはわかってるんだ。
ただ、今までに経験したことのない「穏やかな愛」だから、穏やかすぎて、平穏すぎて、わたしは不安になる。大波ザブンザブンの刺激たっぷりの恋愛こそが、恋愛だと思ってここまでの人生を生きてきてしまったから。

でも、本当にいい、長く続く恋愛っていうのは、炭酸ジュースみたいなパチパチ爆ぜるものではなく、水みたいなものだよな、とも思う。炭酸ジュースだけを毎日飲み続けるのは、しんどい。すぐ飽きて、他のものを飲みたくなる。でも、水は、いつまででも飲める。水だけで、人は一生を生きていける。


今のわたしに本当に必要なことは、恋愛の相手からわたし自身の自己肯定感や自尊心、愛される価値を証明してもらったり、養ったりしてもらうことではない。

ヒビが入ったコップにいくら水を注いでもらったって、その水を注ぐ対象がいなくなったり、水を注ぐことをやめてしまったら、あっという間にすっからかんだ。そして、また新たに水を注いでくれる人を探す?その繰り返しの人生?

そんなの、もう卒業するときだよ。
学生じゃないんだから。

コップにヒビが入っているのなら、わたしがすべきことは、そのコップのヒビを治すこと。金継ぎして、ヒビすらも美しい装飾に昇華してあげればいい。そしてその行程を、ニュートラルに見守ってくれる人、それを実行していくためのスペースを与えてくれる人が、いい。

わたしは、彼のことを、そんな人として認識している。


そんな話を、母にした。
「言い訳したり、説得したりしてるように聞こえる?」と、また少し不安にって、わたしは彼女に尋ねた。いかんせん、前回の結婚で大火傷を負っているわたしは、恋愛に対する選択への自信と信頼が完全に欠如している。

そんなわたしに母は、「言い訳したり、むりやり説得してるとは思わなかったよ。正直に、ありのままに、真実を伝えてくれていると感じた。あなたと彼の関係性について、よりクリアになった」と答えてくれた。

100%安心した、とは言わなかった。ただ、クリアになった、と。経過を見ていかなければいけないってことなんだと思う。それは、わたしも、わたしが相談した友達も、彼自身も思っていること。


わたしが、わたしのために、どこまで動いていけるのか。わたしのこころのコップのヒビを、少しずつ、でも確実に、金継ぎしていくことができるのかどうか。

難しいタイミングで、難しいことをさせられてるなあと思う。
でも、これをやらなきゃ、根本治療にはならないと思うし、わたしの人生は先に進められないとも思う。

じゃあ、具体的にどうしたらってのはないんだけど。まだ未知の世界なんだけど。

まずは、現状把握。現状整理。
それが、認知行動療法の最初の一歩、かな。

少しずつ、進んでいく。それでいい。
無理することなく、でも自分に向き合っていくというベクトルだけは見失わず。

ゆっくり進んでいこう。
わたしのためだけじゃない。
わたしが進む背中を見て、吸収し、学び続けている小さな、何よりも大切な生命があるんだから。

この記事が参加している募集

最近の学び

サポートしていただいた方のことは忘れません