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メンタル不調の対処療法と根本治療のバランスってむずかしいよねって話

少しずつ調子が落ちついてきて、少しずつ先のことを考えるようになった。
自分自身の中にある生きづらさの解消っていうのは、なんだかんだ自律神経系を整えていくっていうところに行きつくのかもしれないって思う。

うつ状態で本当にひどかったときは、とりあえず薬でもなんでもいい。この状態を少しでも救ってくれるものがほしいと思った。薬を飲むことはあくまでもサポートでしかないことも、対処療法にすぎないことも理解していた。それでもいい。根本治療につながらなくてもいい。とりあえず、なんでもいいから今の苦しさの脱却口、その糸口でもなんでもいいから、それを求めていた。それくらい、つらかったんだ。

自分にできることをできる範囲でやりながら、家族を守るためにできることも同時進行的にやっていった。そのときにたくさん自分の過去の傷をえぐったことで(過去のトラウマになっている話をしていかないといけなかったから)パニックやフラッシュバックがより頻発するようになった今があるのかもしれないとも、ここ数日、この数ヶ月を振り返ってみて感じた。

なんだかんだで、だいぶと無茶をしてしまっていたようだ。それでも、その無茶は大切な家族を守るためにも必要なことだったから、そこに対しての後悔はない。

でも。
もともと、どちらかというと安定しているとは言えないわたしの情緒は、この数ヶ月でさらに不安定になった。それは事実として存在している。

服薬や今できること(自分にとって重荷になっているさまざまなものから可能な範囲ではなれること)が、今の自分にできるベストであることはわかっている。でも、それは所詮、対処療法でしかないことも、気づきはじめているんだ。

根本治療をしたいと思う。
その糸口を、今は探しはじめている。

生きづらさの根本治療。
特に、家族やパートナーに対して感じる不安感や、自信のなさ。依存的になってしまう自分。愛されていることを分かっているはずなのに、不安でたまらなくなってパニックになりそうなくらい "不安" をこじらせる自分。うたれ弱さ。小さなことで深く傷ついたり、あまりにもいろんなことに対してセンサーが働いて一喜一憂してしまう自分の病的なまでの繊細さ。もっと頑張らなきゃと思ってしまう完璧主義的な自分。なにごとも深く考えすぎて、シンプルなものごとをあえて複雑化してしまったり、安定しているのにそこにあえて不安要素や不満点をみつけて、波風をたてようとしてしまう自分。

フラットに生きるのが苦手なのかもしれない。
自分自身の不安や心配を覆いかくすために、ドーパミン的なしあわせや満ち足りた感情を追い求めてしまう状態を「躁的防衛」と呼ぶらしい。

目の前のいろんな事象に対して、あえてテンション高く反応してしまうこと。言い換えると、目先のことに深く一喜一憂してしまうこと。

思い当たる節が多すぎた。

確かにそうだな。子育てでもそうだ。テンションを上げて、それで子どもと対峙する。そして夕方くらいには疲労困憊になって、脳が溶けてしまうような無気力感にさいなまれる。恋愛でも、仕事でも、同じくだ。

思えば、学生時代もそうだった。
テスト前や受験前の勉強のとき、わたしは自分をあえて「怒り」モードに入れ込んでいた。「怒り」を誘発するような音楽をあえてチョイスして、あえてイライラした状態に自分をもっていっていた。その方が、自分の集中力が瞬発的に向上するからだ。

でも、それも自分からテンションを高く上げていこうとしているということ。ある意味「躁的防衛」に当てはまるのかもしれない。そうでないとしても、交感神経と副交感神経、どちらを刺激しているのかというと、間違いなく交感神経のほうを刺激する選択を、わたしは無意識でやりがちだ。

交感神経と副交感神経。そのどちらが無意識に優位になるのかは、幼少期の環境や、その後の生活でどちらがより刺激されつづけたのかに影響される(それがすべてではないかもしれない。先天的なものもあるのかな?)

どちらにせよ、交感神経が優位になっているのであれば、副交感神経に刺激をたくさん与えてあげて、安心安全な感覚とか、ドーパミン的幸福ではなくセロトニンやオキシトシン的幸福を感じる時間を増やしてあげて、少しずつでいいから、副交感神経を刺激して、そちらを強く太くするのが大切なのかもしれない。


そういうことを考え出すと、わたしはつい、それに関することを学術的に学ぶ方向に走りたくなってしまう。知識ばっかりを入れ込もうとしちゃうんだよね。

でも、どれだけ知識を入れ込んでみても、それを実行しなければなんの意味もない。知識を入れ込むって行為自体が、BeingではなくてDoingだから、それも結局「躁的防衛」の一部、言い換えると現実逃避とか、問題のすり替え、交感神経を刺激するループに入ることになるのかもしれない。


うつっぽい時期を抜けたあと、新しいことを学びたくなったり、始めたくなったりする傾向が自分にあるっていうのを、少しずつ認識できるようになってきた。だから、この「生きづらさの根本治療のために正しい知識を身につけたい」と本屋さんに走り出しそうになる自分が、本当に「生きづらさの根本治療をするための糸口を求めている」という思いからくるものなのか、それとも、なにかをやっている "フリ" をしているだけなのか。問題のすり替えをしているだけなんじゃないか。

その辺りは、冷静に見極めていかないとな、って思う。


生きづらさの根本治療っていうのは、根気もいるし、一見地味で「こんなのして意味あるの?」ってことをコツコツと年単位で続けていかないといけないものなのかもしれない。

でも、気持ちは「早く抜け出したい」と焦るから、短期的に、バッとやってサッと解決できるようなものを求めてしまう。でも、今回、かなり無理をしてたくさん動いたから自分のトラウマをこじあけてしまったり、フラッシュバックやパニックが頻発するようになったり、不安感や自信のなさ、身近な人への依存心が強くなってしまったのも事実。

むずかしいバランスだなって思う。
見極めもむずかしい。

でも、とりあえず、まずは言語化。
このnoteという場所で、それができるのは、本当によかったなって思う。

少しずつ、だね。
分かってるんだけど。
目先のことに一喜一憂しない。フラットに生きる。
分かっているんだけど。

まあ、大丈夫。
きっと、大丈夫。
お手本みたいな人が、身近にいてくれているから。

人生はなるようにしかならない。
考えても仕方がない。
だから、心配もしない。

少しずつ。
一歩ずつ。
走りたくなる気持ちも、やさしくなだめながら。
少しずつだね。

がんばれ自分。
がんばりすぎないように。

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