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Guitar0829

月はだいぶ満ちてきた。もうすぐ満月。いつまでこうして月を見上げながらギターを弾けるだろうか。まだまだ暑さは続くけれども夏は終わる。
Savage Gardenを歌う。今回は"The animal song"。ダレンのあのインタビューを聞いた後にこの歌詞を読むとまた色々考えさせられる。やっぱりの物言いは、というか私の物言いはに近い気がする。

歌った部分の野鳥版日本語
ーーーーー
僕は自分の中に困難を抱えている
気持ちや感情なんて直視しないほうがいい
動物や子どもは決して嘘をつかないよね
考えているんだけど 君はどっちがより優れていると思う?

ジャングルの中の動物の優しさと
人間の手の中にある優しさと
ねえ君は逃げ出すの?
それとも手を差し伸べてくれるの?

僕は動物みたいに生きたい
考え過ぎることなく自由に
僕は動物みたいに生きて
頭に風、足に砂を感じながらジャングルを駆け抜けたいんだ
ーーーーー

ここで「動物」と比較されているのは「人間」の「大人」。
(人間の)「子ども」は「嘘をつかない」ものとして「動物」と並列されている。
つまり、「人間」の「大人」は嘘つきだ、信じるに値しないと言っていることになる。
上では「優しさ」としたけど、"Compassion"は包容力、包み込む、受け止め受け入れる力で、それが「人間」の「大人」には無いとも示唆されている。それは機能不全家庭身近な大人から適切な愛情を得られなかったこと、周囲からの助けも無かったこと、自分の気持ちを自由に表出できることが無かったこと(アダルトチルドレンにはよくあることだしの場合は性自認も含めて)から
自分などどこからも受け入れられることがないんじゃないかという不安や「人間」(の「大人」)に対する忌避、警戒・不信感を抱いていることから来ているのではないか。
これは私が野鳥になってしまったのと同じで、早く言えば「人間」が嫌いだから、「(人間ではない)動物」の側に自分を置こうとしている状態(私の場合はそこにさらに理性や知性を排した暴力性、獣性への忌避があるから、鳥になってしまった)であるとも言える。
"careless"で"free"に、動物みたいに生きたいというのは、実際はそうできていないということ。つまり、は考え・気にし過ぎ&不自由な状態で、だからfeelingsやemotionsから逃れようとしている(それくらい囚われている)。
上では「手を差し伸べて」としたけど、実際"take my hand"と言われている部分は、本当は助けてほしいという気持ちがあるということ。でもそれを直接言えないし言っても無駄だと思っている(から挑発のような形で投げかける感じになっている)。この切望渇望と諦めの間で揺れ動く感じもよくわかる。

の逆説的というか直接的でない物言いは、本音を言えなかった・受け止められなかった者の環境適応の結果ではないか(もしかしたらイギリスの影響があるオーストラリアの表現傾向もあるのかもしれないけど)。

私は自分が京都やイギリスに惹かれるし親和性を感じてきたのは、いずれも「いけず」や「皮肉」のhigh context文化があって、言葉の裏が存在するところにもあったのかなと最近思うようになった(くるりや志村さん時代のフジファブリックが好きなのも歌詞に余白が多いから)。
私も直接的に言葉を発することができなかった。言うべきこと、見せるべき姿、求められていること、許されないこと。"careless"で"free"な子ども時代は無かったし、その子ども時代から大人に対する警戒・不信感を持ち、それを内包させたまま大人になってしまった。
私は大学で色々な人に大切にしてもらえたから、全ての人間が危険なわけではない、危なくない人間もいると思えるようになっていたけど、コロナと退職で防波堤が決壊した。ノーマスクは理性や知性を排した暴力的で危険な野獣だし、そんな野獣だらけの世界は危険極まりない。野獣を変えることなどできないのだから私にできるのは逃げ去ることだけ。だから、こうして終える準備を続けている。

人間は知性をもって理性的に行動してほしい。けれども特に現在の日本でそうなることなんかない。


チョコボをもう少し練習してみた。けど、速いのもあって残存音がきれいに出ない。もっと軽快に&快適走らせてあげたいんだけどね、鳥だし。はコロナを媒介させるけど鳥がコロナを媒介させるという話は今のところ聞かない。

ギルバートの存在も思い出したので久々に弾いてみた。久しぶりだったのでだいぶ忘れていた。けれどもなんだか前より少し弾きやすくなっていた気がもする。



ブルーベリーも生地に混ぜ込んでしまった。


糖質爆弾を食べ続けている。よろしくない。

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