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自由、責任、覚悟が腑におちた。



退職してから3週間、だんだんと何もない生活が日常になってきたこの日このごろ、深く深く変化があったのは、自由責任覚悟、です。

まぁ、冒頭から偉そうなことを言っていますが、ほんの数か月前までは、

『責任感で生きるなんて馬鹿。人生棒に振るってる。自由に生きることこそ幸せ。』


くらいには考えていました。笑

この考え方を否定はしないんですが、ちょっと物足りない気がしていて、最近わかってきたことをまとめてみます。



自由


いきなりこれが曲者で、いまの社会だと、個人は自由であるべきっていう風潮があります。

16000年前くらいに縄文時代がはじまってるらしいんですが、つまり人間は、16000年は不自由な社会・環境で何千年も活動してきたってことです。

16000年(不自由) vs 20年(自由)

うん、そりゃあ当然、自由に慣れていません。
なので、こんなふうに勘違いするときがあります。


自由に生きる=自分勝手に生きる


1年前くらいのぼくは、いま思えばこれでした。何よりも自分だったんですね。

仮に自分勝手に生きたとして、その生き方は不幸になりやすいです。

理由はシンプルで、近くの人と、社会から批判されるからです。かつ、批判されている自分を好きでいられる人はいないです。
どうせなら、幸せになりたいですよね。笑


書籍『嫌われる勇気』で取り扱われたアドラー哲学が教えてくれたことがあります。

幸せに生きるためには、3つの条件がある。
①自分がすきとおもえる
②他人がすきとおもえる
③自分は役に立つことができる


加えて、こんなことも言っています。

『もしあなたが幸せになりたかったら、今すぐ誰かの役に立つことをしなさい。』


アドラー哲学で興味深いのは、『役に立つ』っていう部分がとても重要視されていることです。


たとえば、
夏休みにおばあちゃん家に遊びに行ったとします。孫たちはおばあちゃんのあま~い卵焼きが大好きで、作ってほしいとせがみます。

おばあちゃんが台所へ立とうとしたその瞬間、
「わがまま言うのはやめなさい。おばあちゃんは足が悪いんだから。」
なんて、親がいっちゃったりします。

そうすると、おばあちゃんの足は痛まないかも知れないけど、同時に誰かの役に立つタイミングを失ってしまいます。
それはとても、とても悲しいことです。

だって、おばあちゃんからしたら、
『あなたは誰かから助けられる人で、助ける人ではありません。』
なんてふうに、言われていることと同じです。
その傷は、なかなか治せません。


ですから、自由に生きて自己表現をすることと、まわりの人、社会の『役に立つ』ことは、ちゃんとバランスを取ることが必要です。そこを、自分勝手と混同しないようにしたい、ということです。


そして、
自由と自分勝手を区別するのが、
責任覚悟です。



責任


そもそも、人間はひとりで生きていません。
すくなくとも、その人自身と、相手と、社会が関わっています。

幸せになるためには、その全員がwin-win-winになるようにサービスをしたり、人間関係を作ったりしないといけません。

これも理由はシンプルで、誰かがLoseになるとその関係は長続きしないからです。
(半沢直樹。すごいですよね。笑)


自由社会が尊重されている今、一緒にいて気持ちよくない人と接する人はいません。すぐ、次に乗り換えられます。SNSも浸透しているので、1億人総監視社会です。


だから、

自分がLoseになれば、自分が自分に批判を浴びせます。

相手がLoseになれば、相手が自分に、あるいは相手がまわりの友人に批判を共有します。

社会がLoseになれば、友人・知人・家族・同僚など関係者から批判を浴びます。そして、関係者も批判を浴びます。


信頼を築くのは大変で、壊すのは一瞬です。

自分、相手、社会のwinに責任を感じられないと、自分勝手になりがちです。自分勝手になると、不幸になるっていうとてもシンプルなお話です。


覚悟


自分、相手、社会のwinに責任を感じたところで、無力だととても辛いことです。

愛なき力は暴力であり、力なき愛は無力である。

有名な言葉ですね。

少林寺拳法の創始者が残した言葉で~とか、
マーティン・ルーサー・キング牧師がいった言葉で~とか、まぁ起源はわからなかったです。笑


ぼくは達成できる実力がないことを、無力だとは思いません。

綺麗ごとですが、想い(愛)ひとつで変わっていくこと、変えられるもの、事実あるとおもいます。ただそれは、『想い(愛)を持ちつづけて、力を身につけましょう。』という意味です。想うだけじゃ、たしかに救えないものがあるんだと、たくさんあるんだと思います。

理想が達成できそうにない難しいものであっても、達成できる力が得られるまで何でも何度でも挑戦しつづけることを決めるのが、覚悟なんだとおもいます。

ぼくは、自分の人生を生きること、そして、自分が幸せになることに、覚悟を持ちました。

それはつまり、アドラー哲学が教えてくれた3つの条件を、自分と一緒に幸せになりたい人が持つことでもあります。


そうやって、自分たちの力で幸せになっていく道を選べば、誰かを非難したり、環境のせいにすることも減ります。
同時に、自分を蔑ろにすることも無くなります。

バランスの取れたちょうどよい自責思考でいられて、自分、相手、社会をwin-win-winになれます。



まとめ。


幸せになるために自由を引き受けて、同時に自分、相手、社会がwin-win-winになるよう責任を感じ、それが達成できる力を得るまで挑戦しつづける覚悟を持てるようになった。

最近の変化をまとめると、こんな感じです。



とくに、人間関係なんてそうですね。

自分の発言で、

・相手が今この瞬間にどんな感情になるのか、
・相手がどんなふうに思い、行動するのか、
・相手の将来にどう影響するのか、
・周りの人はどんな感情になるのか、
・周りの人はどんなふうに思い、行動するのか、

個人的にはすくなくとも、これくらいは考えて行動・発言をしたいものです。
ちなみに、周りの人っていうのが社会ですね。(一例です。)



余談。


矛盾するようですが、ぼくが聞くときは、
『何も気にしなくていいから、好きに話して』

っていう状態です。
だって、考えすぎても何も話せなくなりますもの。笑笑


それから、嘘をつかれてもいいです。その人が嘘をつかなきゃいけない状態だっただけの話です。


たとえば、
遊びにいく当日に、そういう気分じゃなくなるときってあるじゃないですか。
『体調不良だったら許せるけど、遊ぶ気分じゃなくなるっていうのは行かない理由にならない』的なことを聞きますが、ぼくは立派な理由になると思います。だって、それは体が何かしらのストップをかけてるサインです。

まぁそんなとき、断る側からは断り文句が来るわけで、断り文句ってほとんど嘘なわけで、そんなこと否定したってみんな損するだけですもんね。


もし誰かにつかれた嘘で自分の身に迷惑が降りかかったら、それは気づけなかったり調整しきれなかった自分のミスです。
あとはまぁ、疑って傷つくことを恐れて人が信じられなくなるより、傷ついてもいいから人を信じられる人でありたい、っていう想いも強いですね。笑


個人的には、
なんでも受け止める覚悟があるので、なんでも話してほしいんです。笑

ぼくはおそらく異常なまでにその受け入れ態勢が整ってます。それは単純に、元々のおだやかな性格とトレーニングの結果なんですよね。笑



最近、ここの想いと行動が一致してきたので、発言に自信が持てるし、自由でいられるし、いい感じです。

あとは愛ある力を持つために、具体的な方法に落とすだけです。そしたらもう、やるべきことを粛々とやるだけですね。笑




2020年8月21日
しっぱいノート187日目
えだちゃん。

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