見出し画像

女性特有の母親が原因の生きづらさを深掘りしてみてわかったこと


最近、浄化活動が起きてから、いろいろと過去の傷やトラウマのあぶり出しが頻発しています。


私の母親はかつて“毒親”でしたが、今ではその影もなく関係は良好だと思っていました。

これまで母について、集大成の意味を込めて記事を投稿したこともあります。(一時期下書きに戻していましたが再投稿しました。)

しかし、最近なぜかやたらと母と喧嘩する夢を見たり、“怒り”の感情が元と思われる体調不良が起きたりして、

母との関係を見つめざるを得ない状況に至りました。

思い返せば、母親と娘の関係を今一度きちんとまとめたい…という思いに駆られながらも、達成できないまま1年以上の月日が経ってしまいました。

これまでアダルトチルドレンとして記事に書いてはきたのですが、きちんと向き合うことができなかったんだな、ということを実感してます。

ということで前置きが長くなりましたが、今回は女性特有の母親が原因の生きづらさを深掘りしてみてわかったことをまとめてみました。


さっそく結論から書きますと、

母親を幸せにできなくても娘として罪悪感を持つ必要は一切ない


ということと、

どんな親に育てられたとしても、自分を癒し育むことで女性である自分を愛することができる


ということです。

熱量の多さから文字数が多くなりますが、無理のない範囲でお付き合いいただければと思います。




さて、私にはずっと疑問だったことがあります。

それは、

“なぜ娘は母親から愛されたいのか?”

ということです。

え?子どもが親に愛されたいのは当然じゃない?

と思われるかもしれないのですが、私は個人的に、


女性は、世界中で誰よりも母親に愛されたい生き物だ


と思っています。

それはなぜでしょうか。

よくよく考えればそこまで難しいことではないのですが、自分の中の女性らしさに対するブロックがあったからか、

私はなぜ娘はこうも母親から愛されたいのか、長い間疑問に思ってきました。

そして、たどり着いた結論はずばり、


(女性である)自分を好きになりたいから


です。


娘は母親に、“女として生きることの喜び”を教えてもらいたいと思っています。

もっと踏み込んで言うと、娘は女性としての弱い部分も、女性だからこそ不利と思うところも、すべてひっくるめて好きになりたいと思っています。

女性ってこんなところが不利だよね
女性ってこんなところが弱いよね

ーけれど、そこが愛おしくもあるよね。

そんな風に、女性は自分たちの性をまるごと受け入れ、愛したいのです。

女性として生まれてきた以上、私たちは意識・無意識問わずにそう思っているのです。

そしてそれを、一番身近な女性である母親から教わりたいのです。

そもそも、子どもは母親を見て女性性を、父親を見て男性性の使い方を学ぶとされています。

しかし、世の中の母親が全員自己愛に満ち溢れた状態とは限りません。

むしろ、自分の性(女性性)をきちんと育めている母親は少数なのではとさえ感じます。

特に、

  • 夫婦仲がうまくいっていない

  • 夫が不在で一人で子育てを担っている

といった場合、女性としての自信を失い、挫折感を抱え込んだ状態になってしまいます。

また、夫の協力が得られない中で、“子どもを立派に育てなければ…”と家事や育児を過度に背負い込んでしまうことで、

男性性が優位になりすぎて、エネルギーバランスを崩してしまいます。


人の生きづらさをひもとくと、女性性(感じる・受け取る)と男性性(実行する・与える)のバランスがうまくとれていない状態といえます。

男性性が優位になりすぎた母親に育てられると、当然ながら健全な女性性を育むことができません。

人に頼ったり甘えたりすることができず、なんでも一人で解決しようとしてしまいます。

また何よりも、女性として傷ついた母親の姿を目にすることで、

自分の性(女らしさ)に対するコンプレックスを抱え、愛し愛されるという健全なパートナーシップを築くことが難しくなってしまいます。



ここで、母親の背景を見てみます。

いわゆる“毒親”と言われる親の背景には、不安と孤独が存在しています。

毒親は心の奥底で、“自分なんかが子どもを立派に育てられるんだろうか…”という不安や孤独感を抱えているのです。

ひきこもりUX会議代表理事で、ひきこもり経験を持つ林恭子さんは、その著書の中で、母親との関係をこう記述しています。

母親の理想に適うように自らを抑圧して育ってきた結果、自分らしさを見失い、どう生きていったら良いのかわからなくなる。そのことに気づいて親子関係を修復しようにも母親のほうにはその自覚がなく、逃げれば追われることもあり、一度絡めとられた呪縛から抜け出すことは容易ではない。

『ひきこもりの真実』より引用

長い間、しつけの厳しかった母親との確執に悩んできた林さんですが、そのお母さんがNHKのインタビュー記事で、当時の心境を以下のように振り返っています。

「私みたいな不完全な人間が子どもを産んでいいんだろうかと。親の欲望だけで子どもを産んでもいいのか、すごく悩んで。」

「私は母のゴミ箱だった」ひきこもり母娘40年…たどりついた答えより引用

「自分のやり方に自信が持てない。それで夫には『私これでいいのかしら。この子育てで良いのかしら』っていうのはすごく問いかけはしてたんですね。でも『元気に育ってるからいいんじゃない?』って言うだけで、通じないんですよね。」

「私は母のゴミ箱だった」ひきこもり母娘40年…たどりついた答えより引用

毒親だったと自身を振り返る林さんのお母さんが、当時いかに孤独で不安だったのかが、文面から痛いほどに伝わってきます。

そしてその母親の孤独には、自身も母親から満足な愛情を感じることなく育ってきた、という背景があります。

「私自身も、母親から愛情を受け取った記憶がなくて、“自分には母性というものがないんじゃないか”と自信がありませんでした。完璧主義なところも、子育てには向いていないだろうな、と思っていました」

「私は母のゴミ箱だった」ひきこもり母娘40年…たどりついた答えより引用

母親の子育ての自信のなさの背景には、自分の母親から満足な愛情を与えられなかったという挫折経験があります。

過保護な母親を描いたアメリカのドラマ『シャープ・オブジェクト』に、反抗的な娘に対して、母親のこんなセリフがあります。

私はあなたが私を救ってくれると思った。
あなたが私を愛してくれると思った。
そうしたら、私の母親も、私を愛してくれると思ったから。
あなたは生まれたときから私の与える食べ物を受け付けず、まるで私が生まれてきたことすら否定しているようだった。
あなたは、私が愚かで幼い子どものように感じさせた。

『シャープ・オブジェクト』第4話より

フィクションとはいえ、母親の心理を突いた鋭い描写だと感じます。



母親といえども、所詮は一人の人間でしかありません。

自分が痛い思いをして産んだとしても、家事や育児を完璧にこなせるわけではないのです。

ましてや、自身の母親からの愛情を適切に得ることができないまま母親になると、

うまく子どもを愛することができず、結果として娘との間に深い溝ができることになってしまいます。

また何がやっかいかと言うと、母親の孤独や悲しみが娘へと引き継がれることで、母親の中にある傷や挫折感が次世代へと連鎖してしまうということです。

上野千鶴子氏は、著書の『女ぎらい――ニッポンのミソジニー』の中で、その様子をこう描写しています。

女はミソジニーを母から学ぶ。母は娘の「女らしさ」を憎むことで娘に自己嫌悪を植えつけ、娘は母の満たされなさや不如意を目撃することで母をさげすむことを覚える。

あまりにも辛辣な表現でドキッとする記述ですが、なんとなく腑に落ちる方もいるのではないかと思います。

また、こんな記述もあります。

娘の母に対する怨嗟の感情は、自責観と自己嫌悪としてあらわれる。母を好きになれない自分を、娘は好きになれない。なぜなら母は娘の分身であり、娘は母の分身だから。娘にとってのミソジニーは、つねに母を含む自分自身に対する自己嫌悪となる。


傷ついている母親を、娘はなんとか救おうとします。

母親を幸せにしたい、とくに父親がモラハラの場合は、理不尽な扱いをしてくる父親から母親を救い出してあげたい

と感じ、母親を幸せにしようと奮闘します。

それはすなわち、母親から愛されたい、もっと言ってしまえば、女性としての自分を愛したいという欲求からきています。

しかし一方で、夫をバカにしたり見下しながら、もしくは夫からバカにされたり見下されながらも、夫に依存的で頼りない母親の姿を見て、

ああはなりたくない

という否定的な感情も抱きます。

つまり、母親を愛したい、けど母親みたいにはなりたくない、といった相反する感情を抱くことになるのです。

そしてそのうちに、

娘の母に対する怨嗟の感情は、自責観と自己嫌悪としてあらわれる。

とあるように、

母親を愛せない、母親から愛されない、父親から救い出すことができないという“自責観”と、

無力で男性に依存的な母親に対して嫌悪感を抱くことへの“自己嫌悪”が、娘の中に生じてしまうのです。

その“自責観”や“自己嫌悪”が自己否定につながり、何とも言えない女性特有の生きづらさを生み出してしまいます。



しかし、ここで重要なのは、

良い娘になれないことと自分の価値には一切の関係がないと知ること

です。

先ほど紹介した林さんは、

女性当事者のなかには母親から(父親の場合もある)の過保護、過干渉、支配に苦しみ、「良い娘」であることを続けてきたことが生きづらさの原因となっていることがあるように感じる。

『ひきこもりの真実』より引用

「良い娘」の先には「良い妻」「良い母」、そして今や「良い社会人(正社員)」であることも求められている。雑誌やテレビを見ていても、すべてをなんなくこなしているように見える女性たちはキラキラしていて、それができない自分は「ダメな人間であり」「価値がなく」「生きていていいと思えない」という、徹底した自己否定につながっていく。

『ひきこもりの真実』より引用

と、毒親である母親に育てられた娘の苦悩を吐露しています。

しかし、重要なのは、

母親を幸せにしようとすることで自分が幸せになろうとするのをやめること

なのです。

母親の期待に応えようとしなくていいのです。

母親を幸せにすることを放棄していいのです。

「良い娘」にならなくても、娘はそのままで幸せになれます。なっていいのです。


他人軸の究極のルーツは、“母親軸”です。

“母子癒着”や“母子密着”、“母子カプセル”などと言われるものは、自分の中の女性性と母親が癒着してしまっている状態といえます。

つまり、

“自分の中の女性性=母親”

となっている状態を、切り離す必要があります。

自分を守ることで母親を傷つけることになったとしても、自分を優先していいんです。

母親の言うことは聞かなくていいんです。

母親の言うことを聞かなくてもあなたは女性として愛されるし、女性として幸せになれるんです。なっていいんです。

母親を幸せにできなくても、女性としてのあなたの価値は1ミリも貶められることはありません。

あなたの母親が、どれだけ母として女として不幸であったとしても、娘であるあなたに責任は一切ありません。

ましてや、あなたがそんな母親を幸せにする義務はありませんし、幸せにできないからと言って、あなたが女性として幸せに生きられないわけではないのです。

女性としての幸せを、当たり前に受け取っていいのです。あなたの母親がどんな状況であれ、女性としての自分を祝福していいのです。

女性は素晴らしい
女性は美しい
女性は弱くて強い
女性は愛すべき存在だ

と、堂々と思っていいし、そんな女性である自分を誇りに思っていていいのです。


ご紹介した『女ぎらい  ニッポンのミソジニー』にも、以下のような記述があります。

母が母を降りたとき、娘はやっと娘であることから解放されたのだ。

『女ぎらい ニッポンのミソジニー』上野千鶴子著より

このための処方箋は(中略)「わたしはあなたではない」と、母もそして娘も、互いに相手に向かって告げることからしか始まらない。

『女ぎらい ニッポンのミソジニー』上野千鶴子著より

母親も所詮は愛されることを切望する一人の人間であり、女でしかありません。

そして、母親の傷やトラウマは母親が背負うべきものであり、娘が引き継ぐべきものではないのです。


どうかあなたの中の“女らしさ”や“女性性(感じる・受け取る)”を、罪悪感を持つことなく、育んでいってください。

女性であるということは、それだけで素晴らしいということです。(もちろん男性もそうですが)

男女二元論で語る時代ではなくなってきましたが、自分の性をネガティブにしか見られないと、生きづらさや苦しみが生じてしまいます。

ときには、重い生理痛に悩まされたり、深刻な婦人科系の病気を患ってしまうこともあります。


女性は、本来一人ひとりの頭の上にティアラ・・・・が載っていて、それに見合ったドレスを好きに自由に選んで着ていいんです。

(※もちろんティアラは別に興味がないという人は、レイでも月桂冠でも好きなものでいいです。)

大事なのは、素敵なティアラが載っているにも関わらず、自分には似合わないから…とあたかもそれが載っていないように振舞うことのないようにする、ということです。

自分が似合わないと思っていても、あなたの頭の上には、確実にティアラが光り輝いています。

あなたがすべきことは、それに見合ったドレスを好きに自由に選んで、堂々と着こなせばいいだけなのです。

自分にはドレスなんか似合わない、ティアラなんか載っていないと卑屈になることなく、

私は誰になんと言われようと、体型や年齢関係なく、自分のティアラに合ったドレスを着るんだ!

と、堂々と自分の中の女性らしさを表現していっていいのです。

どうか、あなたが女性として喜ぶことを、誰に気兼ねもせずに、たくさん自分にさせてあげてください。





~おわりに~

私は、姉と私の2人姉妹で育ちました。

母の期待に応えるにせよ、母の期待を裏切るにせよ、どちらにしても、娘は母が生きている限り、母の呪縛から逃れることができない。母に従っても逆らっても、母は娘の人生を支配し続ける。

『女ぎらい ニッポンのミソジニー』上野千鶴子著より

20歳そこそこで結婚・出産しその後離婚した姉は、“母の期待を裏切った娘”であり、

30代半ばで未だ実家暮らしの私は、“母の期待に応えた娘”(母のそばにいるという点で)と言えます。


一度絡めとられた呪縛から抜け出すことは容易ではない。

『ひきこもりの真実』より引用

母の期待に応えるにせよ、母の期待を裏切るにせよ、どちらにしても、娘は母が生きている限り、母の呪縛から逃れることができない。

『女ぎらい ニッポンのミソジニー』上野千鶴子著より


この“呪縛”とは、いったい何なのでしょうか。

私はこれまでずっと、この見えない“呪縛”にとらわれていたように思います。

もうとっくに卒業したと思い込んでいましたが、私の中でまだいろいろとくすぶっていることがわかりました。(何より、家を出ることができていないのが証拠のように思います。)


この“呪縛”の意味はそれぞれによって違うかもしれませんが、つきつめると、

“女性として生きることの虚しさや哀しさ”

なのではないかと、個人的に思います。

そしてそれが、これまで多くの女性たちの間で、母から娘へと代々引き継がれてきたのではないか、と感じます。

ちょっとスピリチュアルな話になってしまいますが、子宮は、負の感情が溜まりやすいとされています。

子宮が浄化されていないと、生まれてくる子どもが母親の傷やトラウマを引き受けてしまい、

結果として、子どもが母親の不幸を過剰に背負ってしまうことがあります。

特に娘として生まれた場合、同じ女性として母親と同じ傷や痛みを引き継いでしまうのです。


しかし、女性が抑圧される時代は終わりました。

今なおジェンダー格差に苦しむ人はたくさんいるものの、女性を取り巻く環境は変わりつつあります。

もちろん、呪縛を取り除くことは簡単ではありません。

世界一愛してほしい人からかけられた呪いを解くのは、かなりの痛みを伴います。

母を憎むことは許されない、どんなことがあろうとも。母を憎むだけで、娘は自分を人非人のように恥じなければならない。なぜなら、母は抑圧者でありながら、犠牲者だからだ。

『女ぎらい ニッポンのミソジニー』上野千鶴子著より

とあるように、母親との関係を見つめなおすのは容易なことではありません。

自分のことながら思うのは、「良い娘」に縛られてしまう人は心優しく、まじめな人が多いということです。

自分を犠牲にしてでも、親を幸せにしようと頑張ってしまうのです。

けれども、この負の連鎖を断ち切ることは不可能なことではありません。

自分の足元は、自分で照らしていくことができます。

自分がどの道を選ぶのか、私たちは自分で決めることができるのです。

たとえどんなに時間がかかったとしても、女性は、自らの手で、ありのままの自分で愛されることを選択することができると、私は思っています。


この記事が、少しでもあなたとあなたのお母さんの呪縛を解く手助けになりますように…🕊



※本記事を書くにあたってつぶやきを投稿しました。スキを付けて頂いた方々に、この場を借りてお礼を申し上げます。とても励みになりました。ありがとうございました🥰


※関連記事↓↓

※参考リンク↓↓

※参考文献・DVD↓↓





お読みいただきありがとうございます。 サポートも嬉しいですが、あなたの優しい心が何よりも嬉しいです。 頂いたサポート代は、もっと多くの人の豊かさにつながるよう還元していきたいと思います。