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“見捨てられ不安”を克服するために必要なこと


みなさんは、“見捨てられ不安”という言葉をご存じでしょうか。

“見捨てられ不安”とは、人に嫌われたり人が自分から離れていくことに対して、必要以上に不安や恐怖を感じることを言います。

その対象は、家族や恋人のみならず、友人、職場の人間関係とさまざまです。


私たちは、多かれ少なかれこの“見捨てられ不安”を持っています。

誰だって人から嫌われることは避けたいですし、人が離れていくことに寂しさや悲しみを覚えてしまうものです。

しかし、この“見捨てられ不安”によって、毎回毎回同じようなパターンで人と衝突したり別れてしまうという場合、

永遠に同じことの繰り返しになってしまい、いつまでたっても人と健全な関係を築けません。

そこで今回は、『なんとなく自分の生きづらさが“見捨てられ不安”から来ている気がする…。』というときの対処法を見ていきたいと思います。


親から植え付けられた無力感と罪悪感


見捨てられ不安の原因は、幼少期に親から適切な愛情をもらえなかったことから来ていると言われています。

そして大人になっても、親しくなった人に対して、

離れて行ってしまうのではないか
嫌われてしまうのではないか

という不安から、愛情を試すような行為をしたり、逆に一方的に距離を取ってしまったりして、適切な関係を築くことができません。

“嫌われたらどうしよう”、“傷つきたくない”という不安から、かえって相手を傷つけたり、周囲を振り回すトラブルメーカーとなってしまうのです。



親という存在は、絶対的なものです。

言ってしまえば親は子どもにとって“神”であり、たとえどんなに不条理なことであっても、親の言うことは子どもにとっての“法律”になります。

しかし、それはあくまでも非力で経済力のない子ども時代に限っての場合です。

大人になると、親は神でもなんでもなく、一人の“弱い人間”に過ぎなかったことを思い知ります。

そんな人間の言うことを聞くよりも、自分のやりたいようにやっていくことが幸せなのだということに気づきます。

しかし、大人になっても親の“呪縛”から逃れられない人もいます。

それはなぜでしょうか。



私が思うにそれは、親から無力感や罪悪感を植えつけられてしまったからだと思っています。

アダルトチルドレンの人はみんな、この無力感と罪悪感を持ち合わせています。

親から認められなかったことからくる自分の無力感と、

親の期待通りに生きれない自分に対する罪悪感をセットで植えつけられているのです。

そしてその無力感と罪悪感が強ければ強いほど、大人になっても親の呪縛から逃れられず、

強い見捨てられ不安を感じてしまい、人と健全な関係を築けなくなってしまうのです。


見捨てられ不安の裏には母子密着がある


そもそも私がこの記事を書こうと思ったのは、過去のある経験から来ています。


それは、ある友人とフードフェスに出かけたときのこと。

その友人の母親は話を聞いているといわゆる“毒親”らしく、そんな母親に対する愚痴(「わかってくれない、理解してくれない」等)をよく聞かされていました。

そんな友人が、「母親から“お土産”として食べ物を買って帰るように言われた」と言い出し、

おもむろにかばんから母親に持たされたというジップロックを取り出して、いそいそと購入した食べ物を詰め始めたのです。

普段、母親への愚痴は流れるように出てくる彼女でしたが、“お土産”として食べ物を買ってきてほしいという母親の言いつけに甲斐甲斐しく従っている姿を見て、

私はなんとも言えない違和感を持ってしまいました。

海外旅行のお土産を頼むならまだしも、国内のありふれたフードフェスの食べ物です。ましてや、子どものお使いではありません。

それなのに、なぜ友人と遊びに行ったフードフェスで、親のために食べ物を持って帰らないといけないのか。

その“仲のいい親子”をはるか超えた関係性に、なんとも言えない違和感を覚えてしまいました。

そして、ある映画のワンシーンを思い出しました。


それは、1961年の石坂洋次郎さん原作の『あいつと私』という映画で、ヒロインが想いを寄せる男性が、安保闘争の騒ぎの中に飛び込んでいくのを目の当たりにしたときのシーンです。


そのときふと私は、誰かが私の背中にぴったりくっつき、絶えず私と一緒に動き回っていることに突然気づいた。なんて煩わしい。それは母だった。母の呼吸、母の動悸、母の沈黙。そういうものが私の体にぴったり密着している。これでは息が詰まってしまう。

1961年『あいつと私』より抜粋


もう半世紀以上前の映画で時代を感じるシーンが多い中、なぜだかこのセリフだけは共感性が高く強烈に胸に残っていました。

そして、友人に対して私が抱いた違和感の正体は、この“背中にぴったりとくっついている友人の母親の存在”だと感じたのでした。


見捨てられ不安は親だけが持つもの


どうして人は、もらえないとわかっている人にいつまでも執着をして、愛情を得ようとしてしまうのでしょうか。

なぜ、親はただの一人の“弱い人間”なのだと見切りをつけ、親からもらえなかった愛情を別で補おうとすることができないのでしょうか。

その姿はまるで、大人になってもなお見えない胎盤で母親とつながっていて、その胎盤がないと生きていけない胎児と同じ感覚で生きているように見えます。


そもそも、見捨てられ不安というのは親が持つもので、子どもが持つものではないと私は思っています。

本来、見捨てられて困るのは親のほう・・・・です。

なぜなら、子どもには親にはない“若さ”や“未来”があります。

老い先短い親と違って、子どもには無限の可能性があるのです。

たくさんの人と出会うチャンスがあり、そこで親から得られなかった愛情を受け取ることができるのです。

子どもは、親の見捨てられ不安をわざわざ引き受ける必要はありません。

それよりも、自分は人を幸せにすることができるのだと確信することがより大事になってくると感じます。

無力感や罪悪感の反対の概念こそ、この“自分は人を幸せにできる”という確信なのです。


自分が人を幸せにする存在だと気づくこと


見捨てられ不安は、愛着障害やパーソナリティ障害と関連付けられることもあり、深刻な問題となることもあります。

ただ、自分は人を幸せにする力があると思うことで、解決の糸口が見えてくることもあると思っています。

自分と出会ったことで、癒された人がいる。
自分と出会ったことで、幸せになった人がいる。

そういう人たちの存在を信じるだけで、見えてくる景色が違ってくると思うのです。

一度自分の中の無力感や罪悪感ときちんと向き合うと、そんな自分も悪くないかなと思えてきます。

そして、過去に出会ってきた人たちから愛をもらってきたことを思い出します。

それはなにより、自分自身が愛を与えたからなのです。

そんな人たちの存在を信じること、そして何よりも、そんな自分自身を信じること。

そのプロセスを通して、見捨てられ不安が少しずつ減ってくるのではないかと思っています。


親のことも自分のことも認める


親からの愛情がないと自分が不完全に思えて仕方がないというのは、ある意味自分自身を冒涜している状態と言えます。

自分自身が潜在的に持つ人を愛する力や、人から愛され得る自分の人間性を、まるまる否定してしまっているのです。




上記で引用したワンシーンのあと、主人公のヒロインは母親に電話をかけてこのように告げます。

あのね、お母さん。私、お母さんが私にぴったりくっついて歩いているような気がして息苦しいの。だから少し離れててもらおうと思って電話したのよ。

1961年『あいつと私』より抜粋

これに対して母親は、初めての子どもで難産だったことを挙げ、“どこまでもぴったりとくっついていく”と反論します。

それに対して主人公は、それは最初のお産で骨盤が狭かっただけだと一蹴し、こう締めくくります。

私、お母さんを好きよ。だからもう、私から離れていってちょうだい。お願いね、さよなら。

1961年『あいつと私』より抜粋

そして、電話を切るのでした。

(※『あいつと私』はAmazonプライム会員なら無料で視聴できます。ご興味のある方はぜひ)



親から思ったような愛情をもらえなくても、親を嫌いになる必要はありません。好きでいていいのです。

そのかわり、そういう人なのだと見切りをつけ、自分は自分の人生を歩んでいこうと切り替えることが大事なのです。

親を否定する必要はありません。親に執着してしまう自分を否定する必要もありません。


親は一人の“弱い人間”だったのだと認める。

親の言うことは“法律”でもなんでもなく、一つの考え方(それも見方によってはひどく偏りがある)に過ぎないのだと悟ること。

そして、自分は自分として生きていっていいのだと自分に言い聞かせてあげること。

親に執着しなくても、子どもは他でいくらでも同等の絆を育むことができ、愛を与えたりもらったりする関係を築けるのです。

見捨てられ不安を持つ人は、無力感や罪悪感をいつまでも持ち続ける必要はなく、また、親の見捨てられ不安を背負う必要もなく、

自分が望む未来を引き寄せられるという自分自身の力を信じて、好きに自由に生きていっていいのだと、私は思っています。





ここまでお読みいただき、ありがとうございました🍀

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