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映画 『カッコーの巣の上で』(1975年)

母の勧めで高校生の時に見て印象に残っている。大学の英語の自由プレゼンでこの映画を紹介したほどだ。やはり若い世代でこの映画を知ってる人はほとんどいなかったが、当時教わっていたカナダ人の男性講師は知っていた。アカデミー賞受賞作であり、歴史的にも重要な映画である。概要は以下。

原作は1962年に発表されたケン・キージーのベストセラー小説。精神異常を装って刑務所での強制労働を逃れた男が、患者の人間性までを統制しようとする病院から自由を勝ちとろうと試みるという物語である。いわゆるアメリカン・ニューシネマの代表作の一つで、アメリカでは興行収入1億ドルを超える大ヒットになった。1998年にアメリカ映画協会が選出したアメリカ映画ベスト100では20位に、2006年に選出した感動の映画ベスト100では17位に、2007年に選出したアメリカ映画ベスト100(10周年エディション)では33位にランクインしている。2012年に英『Total Film』誌が「映画史に残る演技ベスト200(The 200 Greatest Movie Performances of All Time)」を発表し、第1位にこの映画でのジャック・ニコルソンの演技が選ばれた。

あらすじは次の通り。ネタバレ注意。

主人公のマクマーフィーは刑務所から逃れるために精神病院に(詐病によって)入院してきた。向精神薬を飲んだふりをしてごまかし、婦長の定めた病棟のルールに片っ端から反抗していく。グループセラピーなどやめてテレビでワールドシリーズを観たいと主張し、他の患者たちに多数決を取ったりなどする。最初は患者たちは決められた生活を望むが、マクマーフィーとともに生活をするうちに彼に賛同するようになる。またほかの患者と無断で外出し船に乗せて、マクマーフィーの女友達とともに海へ釣りへ行く。こうした反抗的な行動が管理主義的な婦長の逆鱗に触れ、彼女はマクマーフィーが病院から出ることができないようにしてしまう。ある日患者が騒動を起こした際、止めようとしたマクマーフィーも一緒に、お仕置きである電気けいれん療法を受けさせられてしまう。マクマーフィーは、しゃべることのできないネイティブアメリカンであるチーフとともに順番を待っていたが、実際は彼がしゃべれないフリをしていることに気づき、一緒に病院から脱出しようと約束する。しかしチーフは、自分は小さな人間だとその誘いを断る。クリスマスの夜、マクマーフィーは病棟に女友達を連れ込み、酒を持ち込んでどんちゃん騒ぎをやる。一騒ぎ終わった後の別れ際になって、ビリーが女友達の一人を好いていることに気づく。ビリーはマクマーフィーに可愛がられていた。マクマーフィーは女友達に、ビリーとセックスをするよう頼み込み、二人は個室に入っていく。二人の行為が終わるのを待っている間、酒も廻り、ついに寝過ごしてしまう。翌朝、乱痴気騒ぎが発覚し、そのことを婦長からビリーは激しく糾弾され、母親に報告すると告げられる。そのショックでビリーは自殺してしまう。マクマーフィーは激昂し、彼女を絞殺しようとする。婦長を絞殺しようとしたマクマーフィーは他の入院患者と隔離される。チーフはついに逃げ出すことを覚悟し、マクマーフィーを待っていたが、戻ってきたマクマーフィーは病院が行った治療(ロボトミー)によって、もはや言葉もしゃべれず、正常な思考もできない廃人のような姿になっていた。チーフはマクマーフィーを窒息死させ、「持ち上げた者には奇跡が起きる」とマクマーフィーが言った水飲み台を持ち上げて窓を破り、精神病院を脱走する。

この映画は1960年代に起きた、精神医学の非人道的な治療を批判する「反精神医学」の運動を背景に、閉鎖された精神病院で行われていた当時の治療を告発する映画だと言われている。当時、精神異常だとされた人々は強制入院させられ、病院内では規律という名の下に統制された生活を送らされていたという。そして「電気けいれん療法」など、人間の尊厳を脅かすような治療もされていた。たしかに映画内での婦長たちの発言、「手を挙げてから発言しろ」「まず座れ」などは、規律を強制しているような支配構造が見える。

僕はフロイトやラカンの精神分析を勉強していた事があるが、精神異常は誰にでも起こり得るものである。フロイトは人間を「神経症的動物」であるとした。(一般に、異常でないと認識される)誰しもが局所的に異常な部分を持っており、神経症的な営みを日常的に行っているのである。

この映画で一番よくわかるのは、精神的に病んでいる人を治す適当な療法は彼らの内に入り込み接するということだ。婦長は人と触れ合うことが療法と言いつつも、あからさまに病人として接している。一方、主人公マクマーフィーは彼らを仲間とみなしている。しゃべれないと嘘をついていた大男チーフは、ずっと絡んでくれる彼に心を開いたし、自殺に追い込まれたビリーの復讐をした。

決められたルールの趣旨を「現実」に照らし合わせて、その都度で検討することができない人は今でも多くいる。婦長のように、自分で現実を見て判断できずにルールを押し付けようとしては問題は解決できない。一方、極端ではあるが「現実世界」を生きている破天荒な主人公はどんどん人を変えていく。良い方向に。

僕はアメリカン・ニューシネマ期の映画作品が好きだ。所謂、反体制的な描写、「アンチ・ヒーロー」、「アンチ・ハッピーエンド」の流れであるが、そこには社会システムにおける「不条理」が反映されているからである。大きな背景にはベトナム戦争がある。アメリカ歴史上最大の汚点として認識される悲劇であり、強者が弱者を食いつぶす、資本主義の脆さが表面化した。あまりに酷い現実を目の当たりにしたアメリカ国民による、世相を反映させたムーブメント。その深い悲しみと怒りが、僕の胸を打つのである。

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