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とある夫婦の平凡な日常。

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記事一覧

【連作短編】産声と遠吠えと恋心:五月 後編【小説】

【連作短編】産声と遠吠えと恋心:五月 後編【小説】

 それから数年経って、私は妻と出会う。
 得た教訓を生かし――というほど人間は変われないもので、なあなあになって過去と変わらないようなやり方で接していたが、考えてみるとこれが自分でありそれを偽り隠すのも良くはない。
 だから、変われないなら変われないでありのままを見てほしいと思った。

 妻は物覚えが良い。
 結構な情報量があってもきちんと覚えるし何より飲み込みがよく理解力がある。
 それでいて効

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【連作短編】産声と遠吠えと恋心:五月 前編【小説】

【連作短編】産声と遠吠えと恋心:五月 前編【小説】

 世の中は意外と理不尽であり、ままならない。
 そんなことは良く知っているし、事あるごとに身に沁みて、いつしかそれは常識となり関わりさえも億劫になる。
 その中でも人との関わりというのは非常に厄介で、億劫で、うまくいっているうちは楽しいものだが、一度転けたりするとどうしようもなく重く心にのしかかってくる。

 同じ言語を使っていても文言ひとつ、言葉ひとつとっても、その意味は今まで培ったイメージや乗

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【連作短編】Shepherd that doesn’t bark:四月 後編【小説】

【連作短編】Shepherd that doesn’t bark:四月 後編【小説】

 昨日の夜のことだった。

 晩御飯を食べ終わり、さて洗い物でもなんて台所に向かったときに着信音が響く。
 テーブルに置きっぱなしにしていたスマートフォンを夫に見てもらう。

「お母さんからだ」
「スピーカーモードにして、出て」

 珍しい。
 特筆して仲が良くも悪くもないけれど、こうして急に掛かってくるのは何かあったのだろう。
 洗い物の手を休めることなく、電話に出る。

「もしもし」
「もしも

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【連作短編】Shepherd that doesn’t bark:四月 前編【小説】

【連作短編】Shepherd that doesn’t bark:四月 前編【小説】

 桜なんかあっという間に散ってしまって、どんどん暖かくなっていく。
 この間までピンク色の可愛い花弁を咲かせていたかと思えば、もう緑でいっぱいで、すぐに夏が来ることを感じさせるのだ。
 まあ、実際はここからまた少し肌寒くなったり、雨季があったりと慌ただしい日々を過ごしているうちに、なのだけど。

 毎日が晴れ、晴れ、晴れ、の連続でお天気日和も束の間、黄砂の影響で窓も開けられない――開けたくない日々

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【連作短編】桜と閑古鳥:四月 後編【小説】

【連作短編】桜と閑古鳥:四月 後編【小説】

 女の子はじっ、とこちらを見ていた。

 びゅう、と大きな風が吹き、桜が揺れる。
 薄紅色の花吹雪は渦を巻いて、地面や樹木を走り回る。
 それを見て、まるで風に誘われるかのように女の子が舞う。
 バレエのようなステップでくるくると回りながら舞う。
 子供向けのピンク色のビニールボールは器用にも手のひらに吸い付いたように離れず、身体の一部のようだ。
 舞い上がる紺のワンピースの裾は鳥が羽ばたくように

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【連作短編】桜と閑古鳥:四月 前編 【小説】

【連作短編】桜と閑古鳥:四月 前編 【小説】

 まだまだ寒いと思っていたのも束の間、あっという間に暖かくなり季節は春へと移り変わる。
 いつの間にやら菜の花が咲き乱れ、桜前線はこれでもかという速度で侵攻していった。
 春休みが終わる前にと躍起になって遊ぶ子どもたちの声は眩しく、春の陽気は人々を外へと誘う。
 そして今年も薄紅色の小さな花は満開の兆しを見せて、大人たちは酒を飲む機会へ思いを馳せる。
 入学式でもあったのだろう。
 新品ぴかぴかの

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【短編】migratory birds in books:三月 後編【小説】

【短編】migratory birds in books:三月 後編【小説】

 彼は、まず本屋に行った。
 適当に見るだけのつもりだったけど、なんとなく気になって一冊、手に取る。
 ぱらぱらと捲ってそれが自分の好きな文章だったからレジに向かった。
 そして喫茶店に向かう。
 喫茶店は混んでいた。
 運良く空いた席があって案内されて、コーヒーを頼む。
 購入した本をまた、ゆっくりと捲る。
 読み始めると夢中になってしまって、このままでは連絡が来ても気付かない、と思った彼は、ス

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【短編】migratory birds in books:三月 前編【小説】

【短編】migratory birds in books:三月 前編【小説】

 本が好き。
 子どもの頃から、ずっと。
 
 母が読んでくれた寝る前の物語。
 途中で寝ちゃって、最後まで聞けたことはないけれど。

 歯医者さんの待ち時間の絵本。
 読むっていうより、見るだけだったけれど。

 初めてのお小遣いで買った名作。
 よく寝るわたしが、眠い目を擦って遅くまで読んでいた。

 学校の図書室で読んだ小説。
 勉強しに行ったはずなのに、勉強なんてそっちのけで、早く帰れ、な

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【短編】不思議な梟:三月 後編【小説】

【短編】不思議な梟:三月 後編【小説】

「これも何かの縁、と思って、少し老人にアドバイスなどしていただけませんか」

 突然の話に、呆気に取られてしまう。
 むっ、と顔をしかめ、すぐに申し訳なさそうな様子になる、壮年の男性。
 なんとなく、この人は何か悩んでいるのだな、と思った。
 
「もちろんです。私にできることなら、是非」

 そう答えると、彼は少し表情を和らげ、また、むう、と唸って黙りこくってしまった。
 よくよく見ると、猛禽類の

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【連作短編】偏屈な梟:三月 前編【小説】

【連作短編】偏屈な梟:三月 前編【小説】

 
 季節は少しづつ春へと近づいていく。

 いつの間にやら梅が咲き、三寒四温の言葉通りに近づいていく。
 繰り返すたびに気温は上がり、だんだんと寒と温の差は縮まっていくものの、寒のほうが来るたびに、また冬が帰ってきた、とばかりに冷え込んで、寒い寒いとばかり言ってしまう。
 いまだに、朝夜、煙草を吸いに行く時は、コートとホットのコーヒーが手放せない。
 日々、変わらないようで移りゆく日々。
 そん

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【小説】i’m as harmless as a kitten:二月 前編

 
 わたしはお菓子作りが苦手だ。

 時間はかかるし、手間もかかる。
 何気に力仕事も多いし、繊細で綿密な作業も多い。
 そりゃあ、ホットケーキや簡単なパウンドケーキ、チョコレートを溶かして固める、くらいのことはできるけど。
 レシピを見れば、たいがい家庭で作れるものなら滞りなく作れる自信もある。
 かといって、労力をかけて作ろうとも思わない。
 短期なところもある自分には、向かない。

 とい

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【小説】i’m as harmless as a kitten:二月 後編

 翌日のことである。

 夫はいつも通りのリモートワークに戻り、遅めの朝食を二人で食べ、いそいそと仕事部屋兼書斎へと向かっていった。
 家事を滞りなく片付け、お昼になって、またもや二人で昼食を摂る。
 そして、午後からまた仕事、と我が家の短い廊下で、いってらっしゃい、早く帰ってきてね、など、およそ大人がやっていいものか頭を捻りたくなるようなママゴトを楽しんだ後。
 さて、やるか、と趣味の裁縫でも、

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【小説】茶色の兎:二月 後編

 結論から言うと、香月は仕事を辞めないらしい。
 どうにも旦那となる人はフリーランスで軌道に乗り始めたばかりで、収入が安定するまでと、何かあったときの備えとして、今のうちに稼いでおこう、というわけだ。
 籍を入れるのは三月末。年度変わりに合わせた方が、書類の変更などが楽だろうと、会社に配慮をしているようだった。
 そんなもの、上側の仕事だから、好きな時に籍を入れていいんだぞ、と言うと、実は二人の出

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【小説】茶色の兎:二月 前編

 リモートワークが増えたのは私にとって僥倖だった。
 なにせ、乗車率が百パーセントを超える電車に乗る必要がない。

 電車通勤のときの出勤は大変だった。
 片道三十分以上の道のりを電車内でなにをするでもなく、ただただ無心で前の人の頭頂部、を見られればまだ良かったのだろうが、あいにく私の身長ではせいぜい後頭部をうらめしそうに見つめるしかできない。
 同じ苦境を共にする仲間の後頭部を睨むのは、いささか

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