【小説】i’m as harmless as a kitten:二月 前編


 
 わたしはお菓子作りが苦手だ。

 時間はかかるし、手間もかかる。
 何気に力仕事も多いし、繊細で綿密な作業も多い。
 そりゃあ、ホットケーキや簡単なパウンドケーキ、チョコレートを溶かして固める、くらいのことはできるけど。
 レシピを見れば、たいがい家庭で作れるものなら滞りなく作れる自信もある。
 かといって、労力をかけて作ろうとも思わない。
 短期なところもある自分には、向かない。

 というわけで、わたしはお菓子作りが苦手なのだ。

 それでも、やっぱり手作りのお菓子は喜ばれるし、二月といえばバレンタインデー。
 世の男性は、そういうのを求めているのだろう。

 バレンタインデーには苦い記憶がある。
 二十歳に満たないころのわたしは、なんというか、自暴自棄にも近い時期があって、とんでもないバカ男と付き合っていた。
 そのバカ男ときたら、やっぱりチョコレートは手作りだよね、なんていうものだから、若くて愚かだったわたしは、良い彼女を演出すべく手作りに挑戦したのだ。
 当時、大学に通っていて、勉強の方がわたしにとっては楽しかったのだけれど、周りがどんどん彼氏ができて、なんとなくこの若さを謳歌できてないなんて思ってしまったわたし。
 恋に恋する、までもいかないような、ただ、誰でもよかったのかもしれない。
 わたしの若さに価値を感じてしまう男だった。

 しっかりと学業優先で楽しんでいたわたしは、彼氏からの毎日のアプローチに答えるために必死だった。
 だって、周りはみんな、良い彼女をやっている。
 だから、わたしもやらなくてはいけない。
 じゃないと、なんだかわたしが劣っているみたいじゃないか。
 そうしてがんばっていても、彼氏は満足せず、浮気をしてるんじゃないか、愛が足りないんじゃないか。
 そういうことばかり言う人だった。
 まあ、今思えば、愛なんてそこになかったのだから、わたしも悪い。
 
 浅はかだったのは、男のほうか、それともわたしのほうか。

 とにかく、そんな男と付き合っている最中のバレンタインデー。
 わたしはお菓子作りに失敗した。
 これならいけるだろうと、初めて作ったブラウニーは見事に真っ黒。
 作り直す時間もなくて、真っ黒ブラウニーを彼氏に見せる。
 彼は真顔になって、こんなものも作れないのか、なんて言っていて泣きそうになった。

 それでも必死にご機嫌取りをしたところ、彼が言い出したのだ。

「チョコはいいから、君を食べたいな」

 なんて。
 思い返しても寒気がする。

 良い彼女を演じようとしてたわたしは、そんな彼を適当になだめていたけれど、彼の気はおさまらない。
 そして提案されたのは、本気じゃなくていいから、わたしを食べて、なんて言ってほしいとかいうバカみたいなお願いだった。
 仕方ない、それで気がすむなら、と精一杯の引きつり笑いで言う。
 もちろん冗談。

 だというのに、その男ときたら、血相を変えて襲いかかってきた。
 目は血走って、筋肉質な腕に血管が浮かび、わたしを押さえ込もうとしてくる。
 身の危険から、決死の覚悟で反撃したら、どことは言わないけど、見事に蹴り上げてしまった。
 上着と荷物をひったくるように手に持ち、彼の家から出て、履き慣れないヒールで息が上がっても走り続けた。

 獰猛な肉食獣のようなあの目がどこからか迫ってくるような気がして、しばらくは男性と話すのもできなくなってしまった。

 そうした出来事があって、わたしはバレンタインデーというのが苦手だったのだ。
 今思えば、わたしにだって悪いところはあった。
 自分の見栄と、自己肯定感を高めるために、時間もさけないような気持ちの持てない男と付き合ってたのだから。
 そういうふうに思えるようになったのは、夫と付き合うようになってしばらく経ってからだった。

 彼に出会って、仲を深めて、付き合うようになって、それでもわたしは良い彼女を演出しようとしていた節があったのだろう。
 ことごとく、彼から、君はどうしたいの、したくないことを無理する必要はない、と言われ、困ってしまってケンカをしたこともある。
 それでも、彼は諦めず、わたしが自然体で居られるように、ゆっくりと時間をかけて付き合ってくれた。
 わたしは、昔のように自分の見栄で、自己肯定感を高めるために、彼と付き合っているのではないか。
 そういう不安は、ゆっくりと溶けてなくなっていった。

 だって、わたしの見栄は、彼にかわいいと思ってもらいたいから。
 だって、時間をさけないのは、わたしたちがお互いのことを大事にしているから。
 それでも、一緒にいたいから、そこは二人とも同じ気持ちだから、一緒にいる。
 たったそれだけのことを、わたしは今まで気付かないでいて、ゆっくりと教えてくれたのは、彼だった。
 彼がそういうことを言葉や行動で証明してくれるたび、彼のことを信用できて、彼への信用は自分への信用に変わる。
 いつの間にか、自信がついて、気付いたときには、わたしは絶対にこの人から離れない、という決心があった。

 
 と、まあ、話はずれたけど、とにかくバレンタインデーというのはわたしに相性が悪い。
 そもそも甘いものがそこまで好きでもないわたし。
 お菓子作りなんてものに勤しむと、匂いだけで胸焼けしてしまう。

 そんな話を付き合う前にちらっとしていたのを、しっかりと覚えている夫は、バレンタインデーが近くなるとわざわざ、何か予定はあるか、と聞いてくる。
 彼曰く

「イベントにかこつけて、二人の時間を楽しむ日なんだから、何したっていい」

 とのこと。

 だから、わたしたちにとってのバレンタインデーは、二人だけで、少しだけいいチョコを食べる日。
 二人だけで、がポイント。
 わたしがあげる、でもなく、逆バレンタインのように夫がくれる、でもない。

 二人で選んで、二人で食べる。
 それは日常の当たり前にあることかもしれないけど、意識してすると、ちょっと特別。
 特別なことだって、お互いに理解しているのだろう。
 二月に入るとどちらともなく、甘いものを控えるのだ。
 夫なんて、甘いものが大好きなのに目に見えて控えるから、かわいい。

 そんな繊細な心配りが見える彼だから、実のところそこそこモテる、らしい。
 いまさら、なにも心配することはないけれど、ちょっとだけ、そう、本当にちょっとだけ気になる。

 見た目は、まんま冴えないサラリーマンで、いつもくたびれた顔をして、死んだ魚のような目。
 声に抑揚がなくて、薄く開いたまぶたはどこを見ているのかわからない。
 そこそこ普通に身長があるのに、癖ついた猫背で小さく見える。
 おまけに最近はちょっとお腹も出てきた。
 タバコが大好き、お酒は人並み。賭け事も女遊びもしない。
 趣味は、音楽と映画。あと読書。

 なんともまあ、これだけあげると、どうしようもない普通のおじさん。
 
 そんな人が大好きで、結婚しているわけだから、もちろんいいところだってある。

 とにかく人の話はきっちり聞くし、的確に物事を捉えて指摘する。
 思ったことは、なるべくはっきり伝わるように言ってくれるし、良いと思ったことは即実行。
 即断即決の鬼である。
 おかげで、相談なんてしようものなら、どんな悩みも迷いも、今どうするべきかの指針を出して、こちらのペースに合わせて計画立てて、あとはこちらで実行するのみ、なんてことになってしまう。
 そりゃあ、モテる。
 彼曰く、

「良いプレイヤーじゃなくても良いコーチになれるようなものだよ」

 とのことだが、ならば、と一緒にいる時間が長引けば長引くほど、安定したプレイヤーとして頭角を表すものだから、困る。
 他の人は知らないけど、わたしにとっては好きになる要素しか出てこなかったわけで、いまだに、恥ずかしながら、いまだにだ。
 日々、好きになっていってしまう。

 そういう人だから、わたしだって女だし、やきもきすることはあるのだ。

 付き合い始めの頃だって、バレンタインデーともなれば、六つも七つもチョコレートを貰ってくる。
 学生ならまだしも、社会人で。
 多い年には、二桁も。
 極め付けは、同性にまで。

 なんというか、どうしようもなく、人たらしなのだ。あの人は。

 当の本人は、といえば、言葉通りというにはちょっとマイナス思考なその感性から、感謝の印だから、だの、お返しとかいらないので、とかを愚直に愚鈍に信じてしまって、チョコレートをもらって帰ってくる。
 騙されないぞ、わたしは。
 わたしだって、女なんだもの。
 ほら、見たことか。
 メッセージカードがちらり。
 ――なんてことが過去何回かあってから、彼も学んだのだろう。
 個人的に渡してくるチョコレートは断っているようで、結婚した年からは見事に減った。
 なんともまあ、世の中、虎視眈々と人のものを奪う機会を狙う猫ちゃんは多いのだろう。
 わたしだって、人のことを言えないくらい、そういうところはあるだろうと理解している。
 彼にその気がなくても、なんというか乱暴だけど、女ってそういうもん。
 ――男もそういうところある気がする。
 だから、人間ってそんなもんなんだ。きっと。

 彼の魅力をわかってくれる人が増えることはいいこと。
 でも、彼を奪い取ろうとするのは許せない。
 ならば、戦い続けるのみ!

 だって、彼だって男で、わたしだって女なのだもの。

 
 そう、決意していても、不安に思うことはある。

 それは二月に入ってのことだった。
 普段はリモートワークの彼が、月に何度かある出社日。
 二月頭にあった、それ。

 わたしはゆっくり寝ないと調子がでない性質で、その日もしっかり寝ていた。
 起きたときにはもう彼は出ていて、いつもなら顔にかかっている長い髪の毛がかきあげられていることから、彼が行きがけに撫でてくれたんだろうと感じる。
 そんな幸せな痕跡を感じて、起きて、真っ先に台所にいく。
 前の日の夜に作っていたおにぎりはしっかりと片付けられ、洗い物も終わっている。
 湯沸かしポットに水を入れ、スイッチを入れる。
 その間に、洗面所に行って、歯磨きと洗顔。
 やりながら、洗濯機を回す。
 そうだ、今日はシーツも洗おう、なんて考える。
 そうして、沸いたお湯で紅茶を淹れたり、彼の洗濯物を片付けたり、お昼はなにを食べているかな、とか、晩ごはんはなにを作ったら喜んでくれるだろう、とか、考えながら過ごす。
 そんな、なんでもない日が、ひとつひとつ彼の痕跡を集めているみたいで楽しい。
 まるでそれは宝探しのようで、わたしの趣味のひとつなのだ。

 そうこうしている間にあっという間に彼が帰ってくる。
 いつも真っ直ぐ帰ってくる彼にしては、少し遅く。
 まあ、どうせタバコでも吸っていたのだろう。
 高橋くんとゆっくり話していたとか。

「ただいま」
「おかえり〜」

 リビングに入ってきた彼をソファの上で迎える。
 そしてすぐ気がついた。
 彼の手に、見慣れない紙バッグがあることを。

 なに、それ、なんて直ぐには聞かない。
 気にしているなんて思われたくない。
 重いなんて思われたくない。
 絶対に思わないって信じているけど。

 コートを脱いで、ハンガーに掛ける仕草。
 いつもと変わらない。
 ネクタイを緩める姿に、ちょっと釘付けになる。
 だって、珍しいし。
 彼はそのまま、荷物をテーブルの上に置くと、わたしの隣に腰掛けた。
 一連のゆっくりとした動作。
 これは聞いても大丈夫かな。

「ん?それ、どうしたの?」

 今、見つけましたよ、とばかりになんでもないように装い声を出す。

「ああ、バレンタインだって」
 
 彼はテレビをザッピングしながら、なんでもないように答える。
 きっと、本当になんでもないのだろう。
 だから、ちょっとだけふざけて、言う
 
「え、やだ。おモテになりますこと」

 ふふふ、と口元に手をやるのも忘れない。
 わざとらしい、この姿に、彼は楽しそうに微笑むと、見透かしたように柔らかい目で一言。

「義理だよ」

 わかっているわよ。
 そんなにわかりやすかったかしら。
 そんなに、子どもに言い聞かせるような顔、しなくてもいいじゃない。
 急になんだか恥ずかしくなってきたわたしは、立ち上がる。

「開けないなら冷蔵庫に入れないと。せっかくもらったのに溶けちゃうわよ」
「ブラウニーって言ってたぞ。開けてみるか」

 適当に言葉を紡ぐと、彼が答える。
 開けてみると、そこには大きめのブラウニーが二切れ。
 端のほうに、かわいらしい茶色のうさぎの飾り紙。

 あ、これ手作りだ。
 ブラウニーだし、彼が貰って帰ってくるくらいだから、きっとみんなに配っている。
 そう、わかっていても、なんだか心にチクリと針が刺さったような気がする。
 
「美味しそうね。これ、手作り?」
「そう言ってた。食べてみようか」

 気軽に言ってくれる。
 心の準備をさせて。
 添えてある、かわいらしい茶色のうさぎの飾りがみ。
 そのうさぎが、つぶらな瞳でこちらを見ているような気がして。
 美味しそうなブラウニー。
 甘いチョコレートの香り。
 きっと、この茶色のうさぎのように、かわいらしい子なのだろう。
 そんな甘い甘い、ブラウニー。
 全部、彼の口に入るのはなんとなく、嫌だった。
 だから
  
 「一口、もらっちゃったら悪いかしら」 

 自分の口に入るのはいいのか、と、自分でも思う。
 彼が貰ったものなのだから、彼のもの。
 義理とはいえ、普段の感謝とか色々な感情がきっと詰まっている。
 これを渡した彼女は、きっと作るときも、色々考えたに違いない。
 そこに好意が混じっていてもいなくても、わたしが食べていいものじゃない。
 それがわかっていても、言わずにはいられなかった。
 だって、わたしはお菓子作りが苦手だから。
 こんな、おいしそうなブラウニー、作れない。
 こんな、かわいいラッピング、きっと作れない。

「ほら」

 一口、食べた彼は、食べかけのそれを、あーん、とばかりに差し出す。
 なんとまあ、大胆なことか。
 作った人の気持ちとか考えないのだろうか。
 これを本命チョコレートでもしてきそうなところ。
 そういうところである。

 差し出されたブラウニーを一口、かじる。
 口にいれて、舌に乗せる。
 その瞬間、それまでのわたしの考えは吹き飛んだ。

「甘っ」

 え、なにこれ、甘っ。
 甘すぎる。
 だだ甘いブラウニーは、まるでブラウニーの食感をした砂糖の塊のよう。
 砂糖にチョコレートの風味が乗っている、と言った方が正しいくらい。
 いくらわたしが甘いものが苦手、とはいえ、それは量を食べられないだけであって、ちょっと食べる分には好きなのだ。
 とにかく、甘い。
 甘いというのは、本来、辛いと同等の刺激だということを思い出させてくれるような甘さ。
 水!
 とにかく流し込まなきゃ!
 そう思って、ダイニングテーブルの上にあったポットからお湯を入れ、飲む。
 その間にも、夫は笑いながらしっかりと食べている。
 え、食べられるの、それ。
 言っては悪いが、たぶん、失敗作。
 でなければ、嫌がらせ。
 まさか、わたしの甘い気持ちをいっぱい召し上がれ、なんてハッピーな脳をしている人が作ったわけではない、はず。
 おいしい、と言いながらしっかり食べた夫に、信じられない、という目を向ける。

「……甘いもの断ちしてたからかな」

 そんな視線に気付いたのか、一言添える夫。
 まあ、たしかにここ一ヶ月くらい、控えているのは知っているけど。
 とんでもない人だな、と思った。
 でも、こうして知らない一面を次々見られるのは夫婦ならでは。
 こういう日常を送って、いつまでも飽きない日々を過ごす。
 そう思えば、義理チョコひとつに嫉妬するのが醜くて馬鹿らしい。

 甘さの衝撃で、不安は全部吹き飛んでいった。

 そして、なにもなかったように日常へ帰る。

 吹き飛んでいった不安は、次の日に、女友達との電話で、また舞い戻ってくることを、このときのわたしは知らない。

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