【小説】i’m as harmless as a kitten:二月 後編


 翌日のことである。

 夫はいつも通りのリモートワークに戻り、遅めの朝食を二人で食べ、いそいそと仕事部屋兼書斎へと向かっていった。
 家事を滞りなく片付け、お昼になって、またもや二人で昼食を摂る。
 そして、午後からまた仕事、と我が家の短い廊下で、いってらっしゃい、早く帰ってきてね、など、およそ大人がやっていいものか頭を捻りたくなるようなママゴトを楽しんだ後。
 さて、やるか、と趣味の裁縫でも、と思い、裁縫箱と布を取り出していた。

 唐突に振動するスマートフォン。
 画面表示を見ると、『カナ』。
 学生時代からの付き合いであり良き理解者である女友達からの電話だった。

 やれやれ、とばかりに電話に出る。

「もしもし」
「やっほ〜! 元気〜!」

 この子は、いつもこうだ。
 普段は、こっちがメッセージなんかを送っても、興味のある話題にしか返信しない。
 バリバリのキャリアウーマンをやってる彼女に、昼間に電話しても出るわけもない。
 土日ともなれば、彼女は趣味の旅行で、他の友達とあっちに行ったり、こっちに行ったり。
 ――どこか行けば必ず写真を一枚、送ってくるのが嬉しい。
 かといって、夜にかけるか、と思っても、わたしはわたしで夫との時間を大事にしたい。
 わたしの良き理解者であるカナ曰く、夜、遅い時間のあんたは不機嫌だからイヤ、とのこと。
 そういうわけで、必然、連絡を取り合うのはこうしてカナが昼間に時間があるとき、もしくは何か緊急の用事があるときだけなのだ。

 声色はいつも通り。
 察するに暇なのだろう。

「元気だよ。カナは?」
「いやあ、インフルエンザに掛かっちゃってさ。自宅療養中」
「熱は?」
「すごいね、今の薬って。一発で下がっちゃうんだもん」
「要するに、暇なわけね」
「はい、暇でした」

 てへっ、とでも言いそうなくらいなカナにわたしも笑ってしまう。
 お裁縫……したかったけど、久しぶりの電話だ。楽しもう。

「忙しかった?」
「お裁縫しようとしていたとこ」
「きゃー! 主婦してるわねえ!」

 なにが『主婦している』のかわからないが、いつもこんなテンション。
 いつも通りのカナに安堵した。

「イヤホンに変えるから、ちょっとまって」
「あ、裁縫したいならいいよ」
「カナと話たいの。裁縫道具片付けるのよ」
「あんた、そういうのストレートに言うようになったわねえ。嬉しいケド」

 そうかもしれない。
 夫がストレートにこういうことを言う人だからだろうか。
 わたしはずいぶんとはっきりと気持ちを伝えるようになったと思う。
 それが、なんだか嬉しくて、ちょっと恥ずかしい。

 そそくさとイヤホンに切り替えて、よいしょ、と道具箱を片付ける。
 よいしょ、とか言うなんて歳をとったね、なんてカナに言われたけれど、カナだって同い年じゃない。

 久しぶりの電話にもかかわらず、話は盛り上がる。
 仕事のことや生活のこと、カナはいまだに恋愛に興味がないこと、わたしは夫婦仲睦まじくやっていること、お互いの家族のこと。
 話すことはいくらでもあった。
 そして話題はバレンタインデーに移る。
 昔の思い出話に花を咲かせる二人。
 お互いの昔の彼氏の話をしたり、チョコレートと若かりし恋愛にいかに翻弄されたかを話したり。
 長い付き合いの中、カナに言ってないことはほとんどない。
 カナもきっと、わたしに言ってないことはほとんどない。
 だから、お互い、言いたいことも言える、この関係を維持しようと、間の空いた時間を躍起になって埋めていくのだ。
 ケンカもいっぱいしたこともあったし、一緒に泣いたこともあった。
 わたしと彼女は、きっとこれからもそうして一緒にいるのだろう。
 そう思わせてくれる彼女が大好き。

 電話をしながら淹れたお茶を飲みながら、ふう、と一息つく。

 そういえば、とカナに昨日の話をしてみる。
 彼が出勤日だったこと。
 昔はよくチョコレートを貰ってきて、不安に思ったこと。
 昨日、義理とは言っていたけど、手作りのブラウニーを貰ってきたこと。
 それがすごく甘かったこと。
 添えてある飾り紙のうさぎが、とても可愛かったこと。
 わたしが、少しだけ不安に思ったこと。
 わたしが、嫉妬深いこと。
 全部、カナに言ってみた。

「それってさ、別にあんたが嫉妬深いわけじゃないでしょ」

 そうかなあ、と考える。
 既婚者である彼に、チョコレートをあげる。
 それは別に本命だろうが義理だろうが、気持ちを送る、という点では同じこと。
 誰しもが想いに制限をかけることなどできない。
 そして、それを伝えることも、特にわたしは倫理的に反している、とは思わない。
 彼がそれを受け取ることも、彼からすれば、ただ食べ物を貰っただけ。
 気持ちまでは受け取らない。
 そして、それらにも制限をかけることなどできない。
 それでも、貰ってきたこと自体、少し嫌だったし、できることなら断って欲しかった。
 やっぱり、自分が嫉妬深いと思う。

「いやだってさあ」
「なによ」
「そんなに口、尖らせないでよ」

 あはは、と笑うカナ。
 わたしは見事に口を尖らせていた。
 バレバレだ。
 
「だってさ、イヤなもんは、イヤじゃん?」

 それはそうだけど。

「あんたが不安に思う気持ちはわかるけど、それ、彼に言ったの?」
「言ってない……」
「ふーん」
「なによ」
「口、尖らせないの」

 むー、と唸りながら、さらに口を尖らせるわたし。

「あんたがそういうところがあること、彼だって知っているでしょう」
「うん」
「だったら、尚更、言ったほうがいいと思うね」
「なんでよ」
「だって、彼ならそんなあんたを愛しいと思ってくれるじゃない」

 そう、だろうか。
 そうかもしれない。
 恥を忍んで、自分の醜い部分をさらけ出すのは、とても恥ずかしい。
 だからこそ、彼がそうして醜い部分をさらけ出すとき、とても愛おしいくて、愛らしくて、たまらなくなる。
 彼も同じように思ってくれるのだろうか。
 今までは、そうだった。

「あ、そうか、わかった」

 にやにやしているような声で、カナが言う。

「あんた、怖いんでしょ。拒絶されるかもしれない、って。
 夫婦になってそこそこなのに、そんなところでまだ躓くのか、って思われるの、怖いんでしょ」

 図星だった。
 彼に拒絶されるのは、とても怖い。
 絶対にないって言い切れるのに、そう信じられるのに、とても怖いのだ。
 想像することすら、怖くてできないほどに。

「会社の同僚に義理チョコ貰って帰ってきて、そのチョコが手作りで可愛らしくて、ちょっとでも気持ちがそっちに向いたりしないかな……可愛い子からのチョコで舞い上がって、甘すぎるのを無理して食べてたんじゃないのかな、なんて思ってんでしょ」
 
 後半なんか言われるまで気付かなかった。
 確かに、カナの言うとおり。
 彼を信じてないわけではない。
 ただ、不安なのだ。
 なんだか、自分の気持ちがちゃんとわかったら、泣きそうになってきた。

「あー、やだやだ。そんな歳になって、みっともない。もっと、でーん、と構えなさいよ」
「わかってるわよ……そんなに言わないでよう」

 歳は一緒でしょうが。
 こういうときのカナは容赦がない。
 ほら、目が霞んできた。
 涙が溢れそう。

「ちょっと! 泣かないでよ!」
「カナが泣かせるんじゃん」
「わかった、わかったって。じゃあさ、こうしな」

 なによ、と絞り出すように言う。
 我ながら情けない。
 昔は、こんなに弱くなかったのに。

「思い切って、不安だった、ってちゃんと言いな」
「嫌がられないかな」
「うじうじしているほうが嫌がるでしょ。あんたの旦那は」
「そうかも」
「抱きつくなりなんなりして、ちょっと不安だったの、なんて言えば、あの人ならちゃんとしてくれるでしょ」

 なんでカナのほうが詳しそうに言うんだ。
 ちょっとだけ腹立たしいけど、言ってることはきっとあってる。

「甘えて、いいのかな」
「それって甘えなの?」
「ちがうの?」
「わかんないけど、いいんじゃない? 夫婦なんだし。私はそういうもんだと思うけど」

 適当だなあ、なんて黙り込むと、続けざまに、カナは恥ずかしそうに言った。

「あんたのとこ、わたしの理想なんだから、がんばってよ。
 あんた見ていると、結婚っていいな、って思っちゃうんだから」

 わたしの良き理解者。
 わたしの親友。
 こんなくだらない話を、くだらなくない、って言ってくれる友達。

「うん、がんばる」
「よし!」

 やっと笑えるようになったわたしは、またカナと笑いあって、話を続けた。

 感情が、波のように押しては引いていく時間は、とても楽しくて、あっという間に時間が過ぎる。

「あ、もうこんな時間か」
「あら、んじゃ、またね」
「うん、また」

 あっさりと引いていくのも、またそれはそれで良いもの。
 時間が空いても、また前の続きのように始まるわたしたちの関係。
 お互いの信頼。
 そういうものを感じながら、電話を切る。

 さて、とわたしは、腫れぼったくなった目を冷やすために洗面所へ向かう。
 あとニ時間もすれば、夫の仕事も終わるだろう。
 今日の晩御飯、なにがいいかな。

 あれやこれやとしていると、時間はあっという間に過ぎる。
 晩御飯を終わらせ、適当にテレビを見て、二人でお風呂に入り、寝る準備を済ませた。
 カナにがんばるとは言ったものの、なんでもないような日常に戻ると、今度はそれを壊したくなくてなかなか言い出せない。
 
 なんだか温かいものが飲みたい気分。
 ホットミルクでも作ろうかな、と台所に立つ。
 夫に声をかけると、俺の分もお願い、と頼まれたので、二人分。
 出来上がったホットミルクに、夫は角砂糖を二ついれていた。
 昨日、あんなに甘いものを食べたのに、今日も甘いのがいいんだ、とちょっと驚く。
 その顔を見たのか、夫が話しかけてくる。

「あー、そういえばさ」

 こういう言い方をするときは、決まって、言いずらいことを言うとき。
 だから、わたしは努めてなんでもない振りをする。

「昨日のブラウニー、砂糖の分量、間違っていたらしい。
 みんなに、あれよく食べられたな、って笑われたよ。
 本人にも驚かれた」

 あはは、でしょうね、甘かったもん、なんて返すわたし。
 あれ、なんか下手じゃない? わたし。

「それでさ、あんまり聞きたくないかもしれないけど、聞いてほしいんだ」

 そう言って、始まったのは、後輩の女の子の話。
 彼女が新入社員のころに面倒を見ていたこと。
 失敗した彼女を慰め、仕事でカバーをしたこと。
 そういう経緯があったから憧れを抱かれてたかもしれないということ。
 高橋くんがピンチなときに、彼女が自分の代わりにがんばってくれていたこと。
 高橋くんから見れば、それは恋にしか見えなかった、ということ。
 そして、そんな彼女が結婚するということ。
 そんな話のあとに、夫は付け加えて、こう言った。

「あの子には悪いけど、俺はきっと父親目線で見ていたんだろうな。
 結婚するって聞いて、娘が嫁にいくような感覚がして、少し寂しかったんだ」

 情けなさそうに言う彼。
 確かに、そういうこともあるだろう。
 人情深く、義理堅い彼のことだ。
 優しくて、素直で、脆い人。
 そんな彼の話を、うん、うん、と聞いている。

「だから、きっと感傷に浸っていて、昨日、君に不安な思いをさせたんだろうなって思ったんだ」

 突然、わたしの目を真っ直ぐに見ながら言う、彼。
 その瞳は、いつものように死んだ魚の目のようではなくて、薄く開いた瞼から、きらきらとした情熱が溢れるような目をしていた。

「不安にさせてたら、ごめん」

 立ち上がって、背中から抱きしめてくる。
 なんであなたが謝るの。
 わたしだって、醜く嫉妬なんかして不安になって。
 でもどうしよう、わかってくれてた。
 それが嬉しい。

「わたしだって、勝手に不安になって、聞けばいいのになにも聞かないで」
「怖かったよな。君はそういうところがあるって知ってるんだから」

 でも、と付け加えて、彼は言う。

「そういうところも、全部含めて、愛しているよ」

 カナの、言うとおり。
 彼は、全部、全部受け入れてくれる。
 その上で、受け入れた上で、わたしを想ってくれる。
 だから

「わたしだって、あなたのこと愛しているんだから」

 泣きそうな声になっているのが、自分でもわかった。
 こんな、些細なことで不安になって、結婚して何年も経つというのに、面倒臭い女だ、って自分でも思う。

「これからも一緒にいたいから、俺たちの速度でやっていこう。
 君とこういう恥ずかしいことをさらけ出し合うの、好きだから」
「うん、そうする。わたしもこういうことできるあなたがいいから」

 ぎゅう、と抱きしめられ、その腕をまた、ぎゅう、と抱きしめ返す。
 ああ、わたしはこれでいいんだ。
 わたしたちは、これでいいんだ。
 そう思える確かな温もりがそこにあった。

 しばらく抱きしめられて、わたしが落ち着くのを見計らうと、彼は、そっと離れていく。
 そしてわたしの正面に向き合うと言った。

「というわけで」

 その瞳は、少年のようにきらきらと輝いている。
 ん? なんか様子がおかしいぞ!

「いや、君との毎年恒例のバレンタインを楽しみにしすぎるあまり、俺は一ヶ月も甘いもの断ちをするという暴挙にでているのは君も知っているだろう」

 うん。知っているケド。

「これが良くない。
 失敗作であった砂糖山盛りのブラウニーを食べて、平気な顔でしているのは勘違いを生む。というか、生んだ。
 だから、対策を考えた」

 そう言いながら、ファイルを取り出す彼。
 
 あ、これ、あれだ、と気がつく。
 彼の癖。
 良いか悪いかは置いておいて、なにか問題が起きると徹底的に計画を練り直す、癖。
 どんなことであろうと嬉々爛々としてやるからタチが悪いやつ。
 こうなると恥も外聞もない。
 
「俺は甘党で、一ヶ月も甘いものを断つのは間違っている。というか、いっぱい食べたい。
 しかし、君は辛党で、甘いものは少量でいい。匂いだけでも辛いかもしれない。
 例年通りであれば、毎回一度、チョコレートを買いにいくわけだけど、このとおり、世の中にはバレンタインフェアはたくさんある」

 ファイルから出てきたのは、大量のプリントアウトされた紙。
 デパート、スーパー、ケーキ屋、洋菓子屋、たくさん。
 そして、どこもかしこもチョコ、チョコ、チョコ!
 おまけに、全部の紙に、手書きの丸印。
 ああ、もう。
 おかしくて笑いが込み上げてくる。
 わかったわよ!
 
「君と一緒に見て、買って、食べるチョコが一番美味しい。
 だから、しばらく、どっかしら付き合ってくれ」

 もうだめ。
 少年のような瞳と笑顔で、そんな真面目にプレゼンしてくる彼がおかしくて。
 愛しくて、かわいい。
 いいわよ。
 ホント、とんでもない人
 でも、こうして知らない一面を次々見られるのは夫婦ならでは。
 こういう日常を送って、いつまでも飽きない日々を過ごす。
 そう思えば、義理チョコひとつに嫉妬するのが醜くて馬鹿らしい。

 あなたがしたいことは、わたしのしたいこと。
 あなたの笑顔は、わたしの笑顔。
 普通の日常に増えていく、特別な日常。
 
「じゃあ、今年はもう日数も少ないし、毎日いきましょう。
  明日はどこにする?」
「いいのか!?」

 いいに決まってる。
 あなたがそんな顔を見せてくれるのだから。
 甘い、この想いはいつまでも変わらない。

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