【小説】茶色の兎:二月 前編


 リモートワークが増えたのは私にとって僥倖だった。
 なにせ、乗車率が百パーセントを超える電車に乗る必要がない。

 電車通勤のときの出勤は大変だった。
 片道三十分以上の道のりを電車内でなにをするでもなく、ただただ無心で前の人の頭頂部、を見られればまだ良かったのだろうが、あいにく私の身長ではせいぜい後頭部をうらめしそうに見つめるしかできない。
 同じ苦境を共にする仲間の後頭部を睨むのは、いささか気が引けるので、たいがい目を瞑って無心を貫く。
 音楽でも聞けばいいのに、と同僚に言われたこともあるが、イヤホンコードが引っかかると面倒だ。
 それならばコードレスを使えばいい、と後輩に言われるが、心配性の私は、あの鮨詰めの中、万が一、落としてしまったときのことを考えてしまい、二の足を踏んでいる。
 結局、いつも通り、人の後頭部に向かって念仏でも唱えるように目を瞑り、手は吊り革と、腹側に回したバッグの上。
 ゆらゆらと揺られて、ぐいぐいと押されて、はい到着、てなもんだった。

 行きと違って、帰りは良かった。
 結婚してからというものの、私は残業などする気がなくて、勤務時間内にがむしゃらにこなしていた。
 どうしても、というものは持ち帰り、妻が寝てからやればいい。
 妻が待っていてくれると思うと、それだけで疲れた体は舞い上がり、足取りは軽い。
 それだけさっさと電車に乗ると、まだ空いていて座ることもできる。
 何より、ガタンゴトン、と、揺れる車内でバッグを抱えこみ座っていると、『家族が待つ家に帰る』という実感が心地良い。
 今思えば、あれはあれで幸せのひとつとして感じていたんだろう。

 帰り道に、コンビニに寄る、というのも好きだった。
 駅を出て、家路に着く前に、駅の近くのコンビニに寄る。
 お気に入りの煙草をひとつ、たまにコンビニスイーツなんかを買ってお土産にする。
 妻は、そんな私の無駄遣いを責めることもなく、全身全霊で喜んでくれるのだ。
 成功が約束された作戦ほどうれしいものはない。
 独身のときは、なんだか気恥ずかしかったエコバッグも、今ではもう五年にもなる相棒である。
 そんな愛着のあるエコバックを片手に、夕日が煌々と輝き、締め作業をしている商店街を帰るのは、やっぱりこれも幸せのひとつだった。

 思い起こせば、こうして、幸せも多かったけれど、それでも愛する妻がいる家には敵わない。

 なので、リモートワークが増えたのは私にとって僥倖だった。

 そうはいっても、月に数日程度の出社日はある。
 社外秘にあたる資料の閲覧や共有、チームメンバーとの顔合わせ、営業担当者との打ち合わせ、アナログ作業だってまだ山ほどある。
 それに加え、面談や健康診断、そして社員教習やインターンシップの実務案内など。
 業界内ではそこそこ有名になり、大手と取引をしている新進気鋭の我が社とて、所詮は人材不足の中小企業にすぎないので、まだまだ大企業のような高待遇は望めないのだ。
 それでも、私の世代が頑張れば、いち早く後輩達に楽をさせることもできる。
 慕ってくれる彼らの眼差しを見れば、頑張りたくもなるし、何より私はこの仕事とこの会社が好きなのだろう。

 だから、今日も、張り切って家を出よう。

 ひとり、用意されていた朝食を食べる。
 妻が昨晩握って置いてくれた、おにぎりにかじりつきながら、冷え切った味噌汁に火を入れる。
 我が家では、私の要望によって、妻にはゆっくり寝てもらうことにしている。
 独身時代から、朝だけはその日の気分で、パンだったり、ご飯だったり、食べなかったり。
 かと思えばコーヒーだけ飲んだり、なんとなく紅茶だったり。
 そんな自分勝手が身に染みていて、これを崩すとなかなかどうも調子がよくない。
 こんな勝手に妻を付き合わせる、というのも身が引ける。
 なので、元々睡眠を多めに取るタイプの妻には、ゆっくり寝ていてもらおう、というわけだ。
 それでもこうして、前日の晩に「片付けのついでだから。」などとしっかり朝食を準備している。

「気分じゃなかったら食べなくてもいいよ。わたしのお昼になるし」

 と、あっけらかんと言われたものの、そういえば私は、こうやって用意されているものは不思議と残したことがない。

 温まった味噌汁を椀によそい、一口飲む。。
 朝の静けさと、冬の寒さで満たされた私の体に、熱が入る。
 喉を抜け、胃に溜まる熱の感覚の心地よさ。
 味噌と出汁の香りに、ほっ、と一息吐くと、おにぎりをさらに頬張った。
 自家製の梅干しの風味と、さわやかな春の到来を思わせる酸味。
 それをまた、味噌汁で流し込む。
 ああ、そういえば、もう少しで梅が咲くな、と、そんなことを考えながら。

「ごちそうさまでした」

 きちんと手を合わせて、心の中で、妻に、今日もありがとう、と付け加えると、がんばってね、と聞こえた気がした。

 さて、と、ばかりに立ち上がり、さっさと食器を洗う。
 そのまま、ぱぱっと準備を終わらせ、寝室に向かう。

 ゆっくりとドアを開けると、そこにまだ夢の中の妻がいる。
 起こさぬようにゆっくりと近づくと、加湿器のタンクにまだ水が入っているのを確認して、妻に、毛布をもう一枚かけた。
 真っ白のシーツに広がった、黒髪。
 ふわふわの毛布を何枚も重ねて丸くなる妻は、まるで猫のようでかわいい。
 そっ、と黒髪に触れると、頭をぐいぐいと押し付けてくる。

「行ってくるよ」

 小さく、そう呟いて、また慎重に部屋を出た。

 そのまま肩掛けのビジネスバッグを持って、玄関を出る。  
 あまり履くことのなくなった革靴は、久しぶりだとなんだかスカスカとしているような、不思議な感じがした。

「おはようございます。あら、今日はスーツなのね?」
「おはようございます。出社日なもので。いやあ、寒いですね」

 鍵を閉めていると、ちょうど出てきたのだろう。
 お隣のおばさんから、声が掛かった。
 段ボールの束を抱えるおばさん。今日は資源ごみの日だったか。
 確か、足を悪くしたと聞いたような。

「ゴミ出しですか?差し支えなければ、ついでに持っていきますよ」
「あら、ほんと?悪いわねえ。足を悪くしてから、ほら、裏口の階段が辛くて。」
「ああ、気にしないでください。こういうのはお互い様ですよ」 
「ありがとう。助かるわあ」
 
 申し訳なさそうに、それでも喜んでくれているのだろう、にこにこと笑うおばさんに、こちらも自然と笑みが漏れる。
 ずっしりと重い段ボールの束を受け取ると、本当にありがとう、と部屋に戻って行った。

 マンション裏手にあるゴミ捨て場のロックを開け、段ボールの束を放る。
 冬晴れの澄んだ空気に、私の息が白いモヤを作る。
 そして、ふう、と一呼吸置いて、歩き出す。
 
 今日もいい日になりそうだ。

 思いの外、空いていた電車に揺られ、改札を出て街を行く。
 並ぶオフィスビルのひとつに入ると、エントランスで待機している警備員に挨拶をする。
 社員証を提示して奥へ向かい、エレベータを使って上へ。
 創業以来、レンタルオフィスの一角を占拠している我が社へ、と、その前に、まだ時間があるのでお楽しみタイムだ。

 エレベータを降りて、我が社とは逆の方向へ一直線。
 フロアの端にある自販機エリアで、缶コーヒーを買う。
 そして、そのエリアには通路の死角にひとつ、部屋がある。

 喫煙所だ。

 未だやめられないこの趣味は、もはや趣味か中毒かわからない、と私にとってお馴染みのモノローグが流れるが気にしない。
 分煙化が進んだ折に作られたこの部屋は、ご時世も相待って人はまばらで、利用者を見かけることも少ない。
 見かけても、うちの社員であることが多いから、なんとも世間体の悪い会社だ。

 重たいスライドドアを開けて、中に陣取る。
 缶コーヒーを開けて、一口。
 香ばしい匂いが鼻を抜け、じんわりとした熱が芯から温めてくれる。
 煙草を取り出して、火をつける。
 深呼吸をするように、ゆっくりと吸い込むと、今日の仕事内容を頭の中で整理する。
 そうこうしていると、ほら、来た。

「おはようございまーす」
「おはよう。寒いなあ」

 入ってきたのは、まだ眠そうな顔をした男。
 短く揃えられてツンツンとした髪は若干の金色を帯びている。
 高い身長と、すらりとした長い足。
 きっちりと着こなしたビジネススーツは、少しでも着崩せば、夜の街で働いてそうだ、と風評が飛ぶかららしい。
 後輩であり優秀な同僚、高橋。
 高身長、ワイルドな顔つき、そして仕事もできる、と、我が社の誇る――誇っていいのかわからないが――プレイボーイ、高橋。
 軽すぎる性格と楽観的な態度が欠点だが。

「寒いっすね〜。あ、先輩、それ、一口ちょーだい」
「やなこった。買ってこい」

 そう言ってポケットから小銭をいくつか渡す。

「あざーす!」

 眠そうな顔もどこへやら、しゃきしゃきと自販機に向かうのだから現金なものだ。
 高橋はいつも体育会系のテンションで、しっかりと相手を敬うことも忘れない。
 その上、甘えていい相手とそうでない相手と区別する。そして面倒見もよい。
 だから、なんとも憎めないやつなのだ。
 私も、高橋だから仕方ない、と、手を煩わされたことが何度もある。
 人同士、ぶつかったこともたくさんあるし、二人でくだらない話で盛り上がったりもする。
 ようするに、いい友人だ。

「あったけえ〜。ご馳走になります!」

 戻ってきた高橋は、わざとらしく缶コーヒーを掲げる。
 きっちりラベルもこっちに向けて、渾身の笑みで。
 やれやれ、こういうやつなのである。

「いやあ、先輩。今日、楽しみっすね」

 缶コーヒーを開けると一口。メンソールの煙草を取り出し火をつけながら言う高橋。

「ん? なにがだ? 仕事?」
「いや仕事はぶっちゃけダルいっす」

 なぜか遠い目をしながら、ちょっと憂いを帯びた声を出すのに笑ってしまう。

「二月ですよ。バレンタインですよ。もうすぐ」
「ああ」
「妻帯者は余裕でいいなあ!」

 憎いね! この! とばかりに、肘でぐりぐりやってくる。
 このやろうとばかりに戯れついてやると、煙草の灰が落ちそうになって、二人で慌てて落ち着く。
 このいつものやり取りが、楽しい。
 男はいつまでも子ども、というが、私達も例外なくそうなのだろう。

「誰かくれないかなあ。今日来る女子、誰でしたっけ」
「今どき、そういう時代でもないだろう。期待するなよ。みんな仕事で来てるんだから」
  
 そりゃあそうですけど、と続ける高橋。

 そういえば、リモートワークが主になる前は、ぽつぽつチョコレートをもらったりもしていたな、と思い返す。
 と、いっても、女性社員が、いわゆる友チョコのようなものを作って全員に渡す、とか、チーム内の男女費が同じようなときに、お互いの結束を高めるために連盟で、とか。
 ホワイトデーになれば、それ相応に返して終わりのコミュニケーションの一環だ。
 学生時代のようなときめきを期待する輩はいない、と思っていたが、まだここに例外がいたらしい。

 一度だけ、もう十年以上も昔に、お世話になったから、と当時新人の女性社員に特別待遇で貰ったこともあったが、あれはお礼のひとつだった。
 その女性社員も、いまやベテラン。
 今、抱えている業務のチームメンバーとして活躍している。
 ああ、あの人なら、全員分のチョコレートを持ってきそうだな。
 そんなことを考えながら、煙草を吸い終えた。

「よし、行くか」
「うす」

 揃って缶コーヒーを飲み干し、煙草を消す。
 ブレスケアを口に放り込むと、私達は喫煙室を後にした。

「おはよう」
「おはようございまーす」
「あ、おはようございます。ちょっと二人とも聞いてくださいよー!」
 
 挨拶もそこそこに、同僚のひとりに話しかけられる。
 少し離れたところでは、人だかりができていた。
 今日、出社予定なのは凡そ十五人。
 そのほとんどがそこにいる。

「どうした?なにかあったの?」
「それがなんとですね」
「待って待って!自分で言うから。おはようございます」

 人だかりを抜けて、待ったを掛けたのは、女性。

「おはよっす。香月先輩」
「おはよう、高橋くん。」

 挨拶ができてえらいね、と子どもをあやすような笑顔で返す、女性。
 アッシュブラウンのボブカットが特徴的な彼女は、香月さんという。
 明るくて朗らか。みんなのお姉さん的存在だ。
 かけよってきた彼女は手に紙袋をふたつ、持っていた。
 
「どうした、香月。」
「あ、その前に、はい、二人ともどうぞ」

 私に、青い紙袋。
 高橋に、赤い紙袋。
 そして、ふわっと香る、甘い匂い。

「バレンタインなので。ブラウニーを焼いてみました」
「おお!? 香月先輩が天使に見える!」

 ありがたや、と拝み始める高橋に、ふふん、とばかりに胸を張る香月。

「ありがとう、香月」
「わあ、淡白な返事。妻帯者は余裕ですね〜」
「それ、高橋と同じこと言ってるぞ」
「うぇえ」

 変な声をあげてげんなりとする香月を笑いながら、もう一度ありがとう、と繰り返す。
 どういたしまして、と今度はすんなり返す香月に、少し安堵する。
 新人のころ、香月はどうにも落ち着かない人だった。
 それがこうも、自信満々に冗談を言うようになるなんて、当時は思いもしなかった。
 彼女はそれだけ、成長をした。

「あ、それで、なんかあったんすか?」

 そういえば、とばかりに喜びの舞から戻った高橋が聞く。
 同じ発言をした、とげんなりされたことなど、彼にとってはどうでもいいことのようだ。

「あ、そうそう。結婚します。私。」
「結婚!?」
「高橋くん、そんな驚かなくてもいいじゃない」

 結婚。
 そうか、結婚。
 よくわからない衝撃が私を駆け抜ける。
 その衝撃を置いておいて、式はいつになるのかな、とか、仕事はどうするんだろう、とか、現実的な疑問を並行して考えていた。
 結婚。
 そうか、あの香月が。

「おめでとう。香月。」

 自然と、そんな言葉が出た。

「えへへ、ありがとうございます。先輩。」

 はにかむ笑顔が眩しくて、本当に幸せそうで、相手はとてもいい人なんだろうということが、伝わってきた。

 高橋が衝撃から帰ってきて、取ってつけたように祝福を述べる。
 香月がそれに絡みに行く。

 そんなやり取りをするのを横目に見ながら、私は仕事の準備に取り掛かった。

 ちらりと見た、青い紙袋から、メッセージカードが覗いているのを、気づかないふりをしながら。
  
 

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