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【短編】migratory birds in books:三月 前編【小説】




 本が好き。
 子どもの頃から、ずっと。
 
 母が読んでくれた寝る前の物語。
 途中で寝ちゃって、最後まで聞けたことはないけれど。

 歯医者さんの待ち時間の絵本。
 読むっていうより、見るだけだったけれど。

 初めてのお小遣いで買った名作。
 よく寝るわたしが、眠い目を擦って遅くまで読んでいた。

 学校の図書室で読んだ小説。
 勉強しに行ったはずなのに、勉強なんてそっちのけで、早く帰れ、なんて図書室担当の先生に怒られた。

 街にある図書館で見つけた図鑑。
 まるでそれは大人の絵本。時間も忘れて、ふむふむなるほど、と読み耽っていた。

 本が好き。
 好きなのだ。
 どうしようもなく。
 とんでもなく。

 だからこれはしょうがない。性分だから。
 幸い、愛しの夫も許してくれているし、しょうがないのだ。


「なあ」

 愛しの夫の声がする。

「んー」

 生返事なわたし。

「……そんなにおもしろい?」
「おもしろい」

 即答するわたし。

「いや、いいんだけどね」

 じゃあ、このままで。

「……ごめん、やっぱりあんまりよくない」
「あ、やっぱり?」

 そう言って顔をあげると、テーブルを挟んで向こう側には困り果てたような申し訳なさそうなような顔をした夫。
 彼の前には白い丸いお皿。彼の手にはフォークとスプーン。
 お皿にはちょっとオシャレに盛られたトマトのパスタ。
 テーブルの真ん中には平皿にシーザーサラダ。
 そしてわたしの前に置かれているのも、彼と同じお皿にトマトのパスタ。
 でもわたしの手にはフォークと、本。
 
「さすがに食事中はやめよう。なんだか寂しい」

 彼は言いながら、しゅんとしてしまって、それがなんだかおあずけをくらっている犬のようで、どうしようもなくかわいい。

「ごめん、ごめん」


 そう。
 わたしときたら、本を読みながらお昼を食べていた。
 そりゃあ、いくら温厚な夫だって一言いいたくなるものである。
 それはわかってる。
 でも仕方ないの。
 だって、おもしろいんだもの。この本。

 昨日、彼が買ってきた本。
 ドラマ化もされた推理小説で、わたしはそのドラマも録画までして見ていた。
 原作があることは知っていたけれど、なんだかんだしたいこともあるから読む暇はないな、と思って買っていなかった。
 サプライズが苦手な彼が、バレンタインデーのお返しに、と化粧品を買ってくれるというので、デパートに向かった昨日。
 目的のブランドはとっても混んでいて、待ち時間は別行動をしていたところ、時間潰しのつもりだったのか本を買って喫茶店に向かったそうな。
 それが、この本。
 では、どうしてそれがわたしの手元にあるかというと、理由は簡単。

 そこにあって、わたしが読みたかったから。

 さっき、サプライズが苦手な彼、とか言っておいてなんだけど、昨日は見事に花束をサプライズプレゼントされてしまい、しっかりと嬉し泣きまでしてしまったわたし。
 ひとしきり感動したあとに目に入ったのは、彼が手に持っていた本だった。
 それでも晩御飯の支度もあったし、なにを買ったのかなあ、なんて軽く思う程度であまり気に留めてなかった。
 ブックカバーも付いてたしね。
 それが、お風呂からあがって、わたしが寝支度をしているときに彼が読んでいるものだから気になって、聞いたのだ。
 すると、彼ったら、子どもが悪戯をバラすときのような笑顔でブックカバーを外して見せてくる。
 思わず、あっ、と叫んでしまった。
 だって、読みたかったんだもの。
 見つかってしまった、とかなんとか言いながら手渡してくる本を受け取ると、わたしは寝支度もそこそこに読み耽る。
 珍しくベッドで寝転びながら、ライトをつけて。
 いつの間にかそのまま寝落ちてしまったらしく、彼が整えてくれたであろう、もふもふの毛布とふかふかの布団の中で目が覚めた。
 それだというのにわたしは、寝起き一番に思ったことは、本どこ、である。
 枕元に添えられていた本を見つけ――ご丁寧に読んだところに付箋までしてくれていた。わたしは嬉々としてそのままベッドから出ることなくまた本の世界に旅立っていった。
 いつの間にやらお昼になっていて、起きてこないわたしを心配して夫が声をかけにきてくれたのが凡そ一時間半前。

「読んでいていいよ」

 お昼を作ってくれるという彼に甘えて、ダイニングテーブルで食事ができるのを待ちながら読み耽る。
 台所で料理をする音も、いつもならすんすんと鼻を鳴らすほどの勢いのいい匂いも、お皿を用意する彼の姿も目に入らないくらい、集中して。
 そうして出来上がった料理が並べられていることにも言われて気付く有り様で、それどころかパスタとサラダが出てきたことに、これ片手でいける、などととんでもなく失礼なスタイルで食事をしながら本を読んでいた、というわけだ。

 我ながら、甘えるにもほどがあった。

 でも。
 だって。
 おもしろいんだもの。

 そんな言い訳にもならない言い訳が口をついて出そうになっては飲み込んでを繰り返していると、彼はくすりと笑う。

「そういうところは変わらないなあ」

 そうだろうか。これでも幾分かマシになっている、はず。

「君は夢中になると何も目に入らないよ」
「そうかなあ」
「自覚がないのが一番たちが悪い。少し反省してくれ」

 そう言って本を取り上げられる。
 ああ、わたしの本が!

「……そんな顔をしなくても、食べ終わったら返すよ」

 苦笑い、というよりちょっと引いてる顔で言われ、渋々食事を再開。
 と、どうにもお腹が空いていたらしく、料理に集中し始めると夢中になってしまう。

「そんなに慌てなくても、本は逃げないよ」

 いいや。逃げる。
 わたしは知っているのだ。本というのは読む機会を逃してしまえば、その機会はなかなか訪れない。
 でもちがうんだ。

「ちがうの。お腹空いてたみたいで……おいしくて」
「ああ、そうか。いっぱいお食べ」

 そう言って、にこにことしながらわたしの食べるところを見つめている。
 なんだかこれじゃあ、子どもと父親みたいだな、と思って、やっぱり自分の行いを反省することにした。

 冷静になって、ダイニングテーブルの端に置かれた花瓶をちらりと見る。
 そこには、初めて彼がプレゼントしてくれたブーケ。
 かわいらしいチューリップとカスミソウ。
 すぐにお気に入りの白い陶器の花瓶に移して、ここに飾ったのだ。
 こうしておけば、いつでも彼の優しさに包まれているような気がして。

 いや、まあ、実際こうして甘えてばかりで優しさに包まれるどころかどっぷり浸かっているのだが。
 彼の本を自分のものにしたがり、朝も寝床から起きてこずに心配をかけ、普段仕事をして稼いできてくれる彼のせっかくの休みを料理までさせて、思い返してみれば自分が嫁なのか彼の子どもなのかわからない。
 恥ずかしさと共に申し訳なさが心を支配して、なんだか泣き出しそうになってしまった。

「本に夢中になると、情緒不安定になるところも変わらないなあ」

 そんなわたしを見て、いやあ俺も慣れたもんだ、と彼が言う。

「本のせいなのかなあ」
「感情移入しすぎるんだよ」
「どっちかっていうと心ここにあらず、だと思うんだけど」
「夫を前にしてよく言えたもんだ」

 最後の一口を惜しむように口に入れ、ごちそうさまでした、と呟くと、先に食べ終えた夫が、おそまつさま、とお皿を持っていこうとする。
 慌てて、わたしがやるから、と告げるも、たまにこういう日があってもいいんじゃない、と押し通されてしまった。
 わたしは、じゃあ代わりにとばかりに紅茶を淹れるために台所に一緒に向かう。

 電気ポットにお水を入れて、スイッチオン。
 その間にティーパックを取り出す。
 透明なガラスのポットにふたついれてお湯が沸くのを待つ。
 その後ろで、夫はさっそく洗い物をし始めていた。

「なんか、心ここにあらず、とは違うんだよなあ」

 うーん、と洗い物をしながら考え込む夫。

「脳の演算処理が全部、本の世界の描写に持って行かれているというか。
 心だけはここにあって、他の全部が本の世界に入っているような。
 映画なんかを見ているときもそうなるよね」

 そうかもしれない。

「昔、初めて君のそういう姿を見た時は心配したよ」
「そう、だった気がする」

 なにせこっちは集中してしまっている。
 なので、その時の彼の様子なんてあまり覚えていないのだ。
 
「初めの方は、具合でも悪いのかと思ったなあ。
 だって、受け答えがまるっきり子どもになるんだ。
 そういえば、俺がなにかしてしまったのかと不安になったこともあったなあ」
「それはその、ごめんなさい」

 彼は笑いながら、いいんだよ、と言うとこう続けた。

「今となってはなんでそういう風になるのかわかっているから、むしろ安心するよ。
 ちゃんと好きなものを好きなままでいれてくれるんだな、って」
「……夢中になりすぎて放置して、いやな女だと思ってない?」
「思ってたら結婚なんてするもんか」

 わからないじゃないか。
 結婚してからだって、そんなに言うくらい変わらなければいやになることくらいあるだろう。
 そう思いながら、ガラスのポットにお湯を注ぐ。
 洗い物を終えた彼は手を拭いて、カップを二つ持つと戻って行った。
 それを見て、わたしはポットにさらにお湯を注いだ。
 そしてティーパックをふたつ、入れる。
 茶葉が開くのを待って、ティーパックを取り出すとポットごとダイニングテーブルに持って行く。
 テーブルに置かれた二つのカップに並々と紅茶を注ぐ。

「ありがとう」

 わたしの顔を見て、柔らかく微笑む夫。

「どういたしまして」

 それが嬉しくて、わたしもにこにこと笑顔になってしまう。



 
 そっか。
 こういうことか。
 なんとなくわかって、嬉しくなる。
 なんのことはない。
 こういう、お互いをわかっている、ということが増えるのは嬉しいのだ。
 
 わたしが子どもっぽくなっている理由が本に夢中だから、とわかるように、彼が何も言わずにカップをふたつ持って行ったことで『あ、飲みたいんだな』ってわかって、それをなんにも考えることなく、思うことなく、二人分の紅茶をわたしは作った。
 そして、嬉しそうにお礼を言ってくれる彼の笑顔を見て、わたしは幸せを感じて。

 そっか。
 それでいいんだ。

 紅茶に一口、口をつけて彼が言う。
 
「……たまに一緒に本屋に行ったりするだろう。
 俺も君も、本が好きなものだから、長くなっちゃって。
 そういうとき、俺はたいがい専門書なんかを見てて、いろんな本棚をうろうろするじゃないか」

「うん。そういうとき、わんこが尻尾振りながらうろうろしているみたいでかわいいんだよ」

 くすくす笑いながら言うと、彼は恥ずかしそうに、そうじゃなくて、と続ける。

「俺を犬みたい、というなら、君ときたら、まるで物語を渡る渡り鳥のようじゃないか。
 小説のコーナーの中をあっちにいたかと思えば、今度はこっち、って。
 そういうところが、好きなんだよ」

 渡り鳥。
 そうか。
 渡り鳥か。
 そうかもしれない。
 素敵な表現で、なんだかうれしくて、戯けて見せる。

「あら、ずいぶんと詩的な表現で褒めてくれるのね!」
「ああ、昨日、不思議な人と話したからかな?」

 そういえば、今日は一人称の出が多い。
 こういうとき、彼は決まってなにか心に触れる出来事が起きているのだ。
 と、そういうことをきちんと理解できている自分と、なんだかんだで今日の彼のことを覚えている自分に安堵する。

「不思議な人って?」
「ああ、梟みたいな人だったよ。ホウホウホウ、って」
「なあに、それ」

 思わず笑ってしまう。
 彼もつられて、笑う。

「本当に不思議な人だったんだ」

 そう言って、彼は昨日の出来事を語り出した。
 

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