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【連作短編】産声と遠吠えと恋心:五月 後編【小説】



 それから数年経って、私は妻と出会う。
 得た教訓を生かし――というほど人間は変われないもので、なあなあになって過去と変わらないようなやり方で接していたが、考えてみるとこれが自分でありそれを偽り隠すのも良くはない。
 だから、変われないなら変われないでありのままを見てほしいと思った。


 妻は物覚えが良い。
 結構な情報量があってもきちんと覚えるし何より飲み込みがよく理解力がある。
 それでいて効率的に物事を成すし、人の気持ちに配慮する。

 妻は物忘れが激しい。
 きっちり覚えたことを何かの拍子にすっぱり忘れて大慌てなんて日常茶飯事だ。
 思い出してから目まぐるしい速度でことを成し、取り戻してしまうのだから舌を巻く。

 私にそんなトラウマじみた過去があって教訓を得たことを知っている妻は出会いこそ大胆だったけれど、付き合い始めから慎重に私に接していた。
 妻は妻でトラウマじみた過去があるわけだから、私も相応に慎重さと大胆さを兼ね備えて接していた。

 最初こそ冷静に物事を話していたが、感情というのはどうにも抑えられないものでお互いに些細な相手の一言に傷ついたり、学生の恋愛かと見紛うほどに繊細な時期があった。
 そんなギクシャクした状態でうまくいくはずもなくて、口論を繰り返し喧嘩を繰り返し、およそ議論なんてものではなかった。
 年上の私としてみれば、年上らしからぬ行動は慎みたかったし、できるだけ大人の男性らしく余裕を持ちたかったが、それこそ偽り隠すことなどできないもので見透かされ、いつの間にやら立てられているのだから頭も上がらない。
 自分がこの人を好きなんだなと思う理由はじゅうぶんにあって、どれだけ喧嘩を繰り返そうと傷付き、傷付けられても、不思議と嫌な気持ちはしなかった。




 決定的だったのは付き合い始めて最初の私の誕生日だった。
 平日だったから、とくに特別な約束はしていなかった。
 そこそこに多忙な毎日をお互い送っていたし、生活リズムも合わない。
 そんな最中、私は誕生日を迎えた。
 ロングスリーパーな彼女は、日が変わる前に寝るし朝だって私のほうが起きるのが早い。
 だから、連絡のひとつも来てなくて当たり前なのだ。
 そうは言ってもなんとなく物悲しさを感じながら、いつも通り準備をして仕事に出掛ける。
 彼女からメッセージが届いたのは家を出る直前くらいで、いつも通りの挨拶から他愛無いやり取りがスタートした。
 職場についた私は気のいい同僚たちに挨拶代わりに祝ってもらいながら、仕事に没頭し始める。
 そうして昼を過ぎる頃には自分が誕生日だなんてすっかり忘れるほどに。

 帰り支度をして、後輩の一人に呑みに誘われたところで思い出した。
 なんだか複雑な気持ちのまま、呑みを断り家路についたのをよく覚えている。
 彼女も彼女で仕事が忙しいのか昼に連絡が途絶えたきりだった。

 だから、私は少し期待してしまったのだ。
 合鍵を持った彼女がサプライズで来てくれていたりするんじゃないか。
 そうでなくても、会えなくても今日の会話は弾むんじゃないか。
 そんな勝手な期待をしていたから、家の近くのコンビニに寄っているときにスマートフォンの着信音が鳴ったときには慌ててポケットから取り出した。

『残業になっちゃった』

 その文字を見て、ひどく落胆したのをよく覚えている。
 飲めない酒と弁当を買って帰って、悲しみとともに流し込んだ。
 変わらず勝手な自分が情けなくて、泣きそうになっているうちにいつの間にか寝てしまった。







 着信音がする。
 聞き慣れた通話アプリの音。
 電車なんかで人のスマートフォンから鳴ってるのを聞くと、なんであんなにドキッとするんだろう。
 そんなことを思いながら画面を確認しないで出た。

「もしもし!?」

 彼女だ。ずいぶん慌てた様子で、息も切らしている。

「ぁい」

 寝起きで声が出ない。時計を見ると思ったより寝ていなかった。

「やっと出てくれた……ごめん、ごめんなさい」
「いつの間にか寝てた……ああ、いっぱい連絡くれてたのか。ごめん」

 回らない頭で確認すると、何件かのメッセージと着信が残っていた。
 そうして泣きそうな声で謝る彼女に気付き、きっと連絡がつかなくて不安だったろうと思い声をかけた。
 彼女は、違う、違うと絞り出すように言いながら、嗚咽混じりに話し始めた。



 誕生日を忘れてしまっていたこと。
 気付いたのは残業の仕事で日付を確認したときのことであったこと。
 この残業だって断れる仕事だったこと。
 なにも変わらずにやり取りをしてくれていて気付けなかったこと。
 言ってくれればいいのに、なんて少しでも思ってしまったこと。
 気持ちを考えたら、ものすごく悲しくて涙が溢れてきたこと。

 そんなことを謝りながら言う彼女に、私は愚かにも嬉しくて、愛おしくてたまらなくなった。


 彼女に、気にしなくていいよ、と言おうとしたときだった。
 果たしてそんな言葉を吐いていいのだろうか、と思った。
 私が言葉に詰まったのを察したのか、彼女は早口で捲し立てる。

「今から行くからっ! ていうか、もう向かってるから!」
「え、でも、寝る時間……」

 彼女はロングスリーパーなのだ。
 人より長く寝なければ、心も体も擦り切れてしまう。
 それを知っているから私は彼女の理解者として、無理はしてほしくない。
 そんなことは彼女も承知のはずだった。

「ついてもすぐ寝る準備したりでなんにもできないけど、行くから!」
「えぇ……?」

 すごい剣幕で押し通そうとする彼女に困惑してきた。
 喜びも悲しみもどこかに飛んでいく勢いだった。

「誕生日だから、一緒にいたいの!」
「いや、俺の誕生日なんだけど」
「有給取ったから大丈夫!」

 なにが大丈夫なのかもわからないし、要求する側が逆転している気がして、もはや笑えてきた。
 堪えきれず笑いが漏れると、彼女は、なんで笑うのよう、と怒ったように言う。
 そんな彼女に、自然と、ありがとう、と言葉が漏れた。

 そして徒然と、自分の正直な気持ちを、今日思ったことと情けない自分の話をしたのだ。

 結局、その日から一週間もうちに滞在した彼女に同棲の提案をするまで至った。










 そして、彼女は妻となった。




 まだいくらか涼しい朝。
 太陽が昇るのは日に日に早くなって、ついこの間まで真っ暗だった時間でも薄明かりが差している。
 いつも通りの時間に起きて、布団から起き上がる。
 隣で毛布の毛玉の親玉になっている妻を起こさないように、慎重に。

 パーカーを羽織り、小銭と煙草、鍵とスマートフォンを手に、家を出る。
 エレベータを降りて、下の自販機で缶コーヒーを買った。

 まだ完全に日が昇っているわけではないが、今日も今日とて、春とは名ばかりの暑い日になりそうだ。
 五月も半ば、初夏と言ってもいいのだろうか、などと思いながら、いつもの橋に辿り着く。

 パキリ、と小気味いい音と共に缶コーヒーを開け、一口。

 煙草を一本取り出し、火を着ける。
 深呼吸するように深く吸って、吐き出す。
 そこでパーカーのポケットに入れっぱなしにしていた携帯灰皿を取りだそうとした。

 クシャリ。

 ポケットの中で、およそ硬質的ではないものが手にあたる。
 それを携帯灰皿と一緒に取り出した。



 一通の便箋。
 表には『誕生日、おめでとう』の可愛らしい文字。

 来年からは、ハサミも一緒に入れてもらおう、と思いながら、ゆっくりと煙を吸い込んだ。

陽光に反射した水面がきらきらと輝いていた。

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