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「ネグリ=ハート、ラカン、カントの狭間で――グローバル資本主義下における<協働>の構成」 心の諸問題考究会『心の諸問題論叢』 (ISSN:13496905) vol.3, no.1, pp.1-16, 2007

はじめに


 本論は、グローバル資本主義下における<協働>の構成をテーマとする。我々は、この<協働>とは何かを、ここで定義することはしない。(注1)  それに替えて、我々は、この<協働>の実践モデルとして、この私が他者との間で、「私の生活の工夫/技」を伝え合うことを提起する。これは、<線を引くこと>としての呼びかけと応答のモデルでもある。(注2)  この<協働>の構成は、グローバル資本主義下における我々の生存にとって切迫した課題である。

 我々は、これを相互的で対等なコミュニケーションを試みる実践として、ネグリ=ハートのいうマルチチュードの土台とする。マルチチュードは、これまでの歴史の展開のなかで、<帝国>と呼ばれるネットワーク的権力の土台を自らの力によって生み出してきた。また同時にマルチチュードは、この<帝国>の生権力の網の目に組み込まれた我々自身の生存でもある。マルチチュードと<帝国>とは、コインの裏表といった関係にある。現在、我々の生存それ自身が、グローバル資本主義そのものを構成する力として登場しているのである。

 本論では、<協働>の実践モデルが、<帝国>を変革するプログラムとして構成される。

 1では、「生活問題」をキーワードにして、<帝国>と<協働>の実践モデルとの関係を論じる。2では、「顔」をキーワードにして、この<協働>が、無意識の組替えとして論じられる。3では、新たな<協働>の構成プログラムに向けた実践事例を紹介して論じる。

1. <帝国>と生活問題の出会い


 本論では、<帝国>を、無数の差異を包み込み、無際限に階層序列化するコントロール統御装置としてとらえる。以下の記述が参照できる。 

 「<帝国>の指令の一般的な装置は、じつのところ互いに区別される以下の三つの契機から成り立っている。すなわち、ひとつめは包含的な契機、二つめは示差的な契機、そして三つめは管理運営的な契機、これらのことである(中略)<帝国>は、差異の受け入れにさいしてはまったく先入観をもたないわけであり、柔軟性がなかったり、管理が困難であったりするために、社会的葛藤を引き起こしかねないような差異を棚上げにすることによって、普遍的な包含を達成する (中略) <帝国>的コントロール管理の第二の契機――すなわち、その示差的な契機――は、<帝国>の領域の内部に受け入れられた諸々の差異を肯定することを必然的に伴っている(中略)<帝国>的管理の示差的な契機につづくのは、指令の一般的経済=配分のなかでそれらの差異を管理運営し階層化する契機でなければならない」(邦訳『<帝国>』アントニオ・ネグリ マイケル・ハート著 以文社 2003. p.257-259. 原書
Empire, Michael Hardt, Antonio Negri Harvard University Press.2000. p.198-199.)

 ネグリ=ハートのいう「階層化」とは、無数の差異を包み込むに十分な、無数の次元を持った階層序列化である。したがって、我々は<帝国>の無際限の階層序列化機能に注目する。「<帝国>的管理 (imperial control)」は、我々の生存における無数の差異を包み込み、それら差異をあらゆる次元で階層序列化するという機能を持っている。この機能により、我々の生存は、あらゆる次元においてあらかじめ階層序列化されている。言い換えれば、我々の生存は、およそ想定されうるすべての場面において「偏差値化」されているのだ。我々が、単独で、あるいは誰と何をしようと、そして他者とどんな関係を結ぼうと、<帝国>の機能はそれらすべてを統御可能な、階層序列化されたデータへとあらかじめ変換しているのである。

 ここで重要なことは、日々作動するそれら無数の階層序列化機能の「主体」もまた、無際限に多様な形態を取っているということである。少なくてもすべての専門化された機能集団・組織が、ということは、現代において機能し得るほぼすべての集団・組織が、この主権的権力の内部でネットワークを組んでいる。我々の一人一人が、職業的従事者、顧客、生産者、消費者等の多様なあり方においてその内部に組み込まれ、自己と他者のあらゆる関係を統御しかつ統御されている。<帝国>は、世界空間全体におけるこうした無際限の階層序列化機能を通じて、唯一の主権的権力として、自らの正統性を生産しているのである。

 「新しいパラダイムは、システムであると同時に階層秩序であり、中央集権的なかたちでの規範の構築であるとともに、世界空間全体にまで及ぶような広域にわたる正統性の生産である。それは水平的に節合されたダイナミックかつ柔軟なシステム構造として最初からかたちづくられている」(邦訳p.29. 原書p.13.) 

 もしこのような主権的権力が現在存在するとすれば、確かにそれはかつてなかった主権的権力であるといえる。次の記述が参照できる。
 「世界市場によって確立されるグローバルな差異の政治は、自由なゲームや平等によってではなく、新しい階層秩序の押しつけ、あるいはじっさいには絶えまない階層化のプロセスによって規定される」(邦訳p.202. 原書p.154.)
それでは、「この私が他者との間で、「私の生活の工夫/技」を伝え合うこと、そしてこの過程をネットワーク化すること」という実践はどのように位置づけられるのだろうか。

 この実践の狙いは、<帝国>の階層序列化機能によって隠蔽され消去されていた個の力を引き出すことである。言い換えれば、潜在的なもののレベル(無意識)へと働きかけ、日々の生活において埋もれていた「生活問題」とその解を発見=創造していくことである。個々人の多様な力は、個と個を結びつけながら、この潜在的なもののレベルにおいて、お互いに触発・強化し合っている。このことが、個々人の<協働>の土台なのである。
 このように位置づけられた実践は、どのような意味において、マルチチュードの土台となり得るのか。この問いに関して、我々は、次の記述を参照したい。

 「潜在的なものとは、私たちの理解では、マルチチュードに属する活動する諸力(存在すること、愛すること、変革すること、創造すること)の集合である。(中略) 潜在的なものから可能的なものを介しての現実的なものへの移行、それは根源的な創造の行為である。生きた労働こそが、潜在的なものから現実的なものへの通路を築きあげる (中略) 労働はたんに特異でありかつ普遍でもある活動する力として立ち現われるのである。特異であるとは、労働がマルチチュードの頭脳と身体の独占的な領域になったということである。普遍であるとは、潜在的なものから可能的なものへという運動においてマルチチュードが表現する欲望が、たえず共通のものとして構成されるということである」(邦訳p.448. 原書p.357-358.)

  我々のいう<協働>とは、潜在的なものから可能的なものを介しての現実的なものへの移行である。さらに、それは「個々人の多様な力は、個と個を結びつけながら、この潜在的なもののレベルにおいて、お互いに触発・強化し合っている」というあり方をしている。

 すなわち、我々は、この意味での潜在的なレベルで結びついた個々人のネットワークとしてマルチチュードをとらえる。<協働>とは、マルチチュードが表現する欲望を土台にした根源的な創造の行為である。それは、マルチチュードによる生きた労働である。

 この<協働>と<帝国>の階層序列化機能の関係を考えていきたい。我々の日々の生活においては、相互的で対等なコミュニケーションの試みは不可避的に失敗・挫折・忘却へと帰着し、無意識の外傷を生産する。ここでは外傷は、「我々は決して対等ではなく、あらゆる点で階層序列化されている」と語る<帝国>の指令装置によって生産されるのである。この過程は、人々を分け隔てる壁と不安の生産過程でもある。

 生活のあらゆる場面において階層序列化される中で、個々人は分断され、<協働>があらかじめ阻止される。この点に関して、次の記述が参照できる。

 「権力が内在的になり、主権が統治性へと変容したとき、支配の機能や管理の体制は差異を共通の平面へとならすような連続体の上で展開していかねばならない。しかし私たちがみてきたように、差異は逆に、この過程においてますます強調されてもいるのである。すなわち、<帝国>の統合が、住民の多様な層の分断と区分化の新しいメカニズムを生み出している、といった仕方で。それゆえ<帝国>の行政管理の問題は、この統合の過程を管理運営するということ、したがって分断され区分化された社会的諸力を馴致、動員、そして管理することなのである」(邦訳p.428. 原書p.339.)

  個々人の<協働>は、潜在的なもののレベル(無意識)へと働きかけ、日々の生活において埋もれていた「生活問題」とその解を発見=創造していく。この<協働>をあらかじめ阻止するために、<帝国>の階層序列化機能は、我々の生活のあらゆる場面を、データベースにおいて想定済みのケースに置き換える。それによって、個々人の生活問題とその解があらかじめ盗み取られる。データベースによる生活問題とその解の先取りによって、自己と他者の関係の植民地化=収奪という過程が進行する。個々人の生活の工夫/技が触発し合う潜在的なもののレベルが、データベースによって置き換えられているのである。

 以上から、<帝国>の指令装置を、「人々の言語と情動をデータベースの指令に応じてコントロール統御することによって、我々のコミュニケーションをあらかじめ収奪・植民地化する装置」として定義できる。コミュニケーションの収奪・植民地化により、この私の自己と他者が取り結ぶあらゆる関係が、あらかじめ統御される。また、我々の試みる相互的で対等なコミュニケーションの失敗・挫折は、無意識の忘却の中であらかじめ決定されている。ネグリ=ハートによれば、

 「コミュニケーションとは、資本主義的生産の形態である。その形態においてはあらゆるオルタナティヴな通路を封殺しながら、資本が完全かつグローバルに社会をその体制に従属させることに成功したのである。もしオルタナティヴが提起されうるとしたら、それは実質的に包摂された社会の内部から生じ、その心臓部であらゆる矛盾をはっきりとあぶり出すものでなければならないだろう。」(邦訳p.436. 原書p.347.)

事例分析


 そこで、この実質的に包摂された社会の心臓部における矛盾を、現実の事例においてはっきりとあぶり出してみよう。

 事例は、現在最も緊急な課題の1つである、「生活保護の適正な実施」による受給申請拒否問題(2003年2月19日付朝日新聞)である。以下に記事を引用する。
 「妻(60)の入院費が払えず、生活保護を申請した男性(60)。昨年9月、保護を認められると同時に、書類に「12月をもって生活保護を辞退します」と書くよう職員に言われたという。「3ヶ月後も妻の病気が治っていないかもしれない。書きたくない」と答えると、「保護を受けられるか、わからないよ」「まだ悪かったら、そのときに追加すればいい」と迫られた。男性は、リウマチの持病があって十分働けず、知人から10万円ほど借金があった。
「書けば返せる」と思い、仕方なく書いた。妻は11月に退院。交渉して1月まで延ばしてもらって、打ち切られた。今はリウマチで痛い手をかばいながら土木現場で働く。妻と自分の医療費が月に1万5千円ほど。「もちろん、保護を受けて助かりました。けれど、今の土木現場はあと1ヶ月で終わり。その後はどうなるか……」 言葉に障害がある1人暮らしの女性(63)は今月初め、福祉事務所の面接室でファイルに挟まれた見本を見せられた。「この通りに『辞退します』と書いてくれ」と紙とボールペンを渡され、生活保護の辞退を迫られたという。まだ、仕事も見つかっていない。「2、3日考えさせて」と言って紙を持って帰った。自分が悪いことをしているような気持ちになった。」

 文中の職員は、自分の頭で問題発見して解決方法を考えることなく、ただ「この通りに書いてくれ」という形であらかじめ決まった「答」通りに相談者を管理しているだけである。また、相談者の「2、3日考えさせて」という呼びかけに一切応える姿勢がない。とりわけ、相談者の「自分が悪いことをしているような気持ちになった」という言葉に注目したい。我々の言語と情動そのものが、「この通りに書いてくれ」というデータベースの指令に応じてあらかじめ統御されているのである。こうして、「2、3日考えさせて」という相互的で対等なコミュニケーションの試みは、当然のように失敗・挫折している。それは、無意識において絶えず反復される外傷となっていくのである。(注3) 日々の生活世界において、このメカニズムはすでにありふれたものになっている。

  「コミュニーケション的な生産と<帝国>の正統化の構築とは手に手をとって行進しており、もはや切り離しえない。<帝国>的機械は、自己の妥当性を立証する、オートポイエーシス的なもの――つまりは、システム的なものである。それは、いかなる矛盾をも除去するか無力なものにしてしまう、社会的織物を構成するのだ。言いかえるなら、それは強制的に差異を中和してしまうよりも先に、自己生成的かつ自己統制的な、取るに足らない均衡ゲームのなかに差異を吸収してしまうようにみえる状況を創り出すのである。 (中略) つまり、それは完璧にポストモダンなやり方でアイデンティティと歴史を解体しながら、普遍的な市民権のプロジェクトを推進すると称し、そしてこの目標に向けてコミュニケーション的な関係のあらゆる要素に対する介入の効力を強化しているのだ。」(邦訳p.54. 原書p.34.)

 次に、「情報の共有化」が、データベースネットワークへと展開していく過程を見てみよう。事例は、「顧客主導型経営とは」というタイトルのインタビュー記事(『月刊福祉』August 2002 p.79-80.)における太田順久氏 (ホテルインターコンチネンタル東京ベイ支配人) の発言である。やや長くなるが、以下に引用する。

  「各現場に権限付与をしていきながらの環境下では、スタッフ間でのコミュニケーションが大切ですね。そして、自身の判断で行ったことを個人の心の中にしまっておくのではなく、「このゲストのこういう要求にはこのような対応をした」と必ず記録し、異なるシフトのスタッフへ知らせる「情報の共有化」が大変重要なのです(中略)例えば、ゲストごとのファイルがあって、このお客様は、この間泊まったときにはこういうリクエストがありましたという情報を記録して、スタッフ同士共有するわけです。(中略) 過去には外部機関を使って、サービスの覆面調査システムを導入しました。調査機関の職員が一般客として、実際に部屋の予約や食事をしながらサービスの評価をするのです。例えば、料理の中にわざと髪の毛を入れておいて、文句を言って、スタッフがどういう対応をするかということまで評価している。苦情処理の対応能力があるかも見るわけです。わざと難しそうなことを言って、それに対してどれくらいで返事が返ってくるかという部分も見ています。調査後1ヶ月くらいに、スタッフの対応、1問1答の会話もすべて事細かに記録された、分厚いレポートが来るのです。当該ホテルはこの部分は何点だけれど、この部分では何点という採点が細かく記されている。その結果、トータル何点でAランクといった、ホテル全体の評価が下されます。(中略) また、宿泊、婚礼、レストランとすべてのサービスのお客様に書いていただく、コメント用紙があります。それ以外にアンケート用紙もあります。これらをお客様に書いてもらって、全部データとしてパソコンに打ち込んで集計し、1ヶ月おきぐらいに集計し、その結果を点数化して、ネットで見られるようにしています。このお客様の目での評価を私どもはゲスト・サティスファクション・トラッキング・システム (GSTS) と言っています」

 ここでGSTSと呼ばれている「情報の共有化」は、今やありふれたものだろう。ここでは「自身の判断で行ったことを個人の心の中にしまっておく」ことが徹底して排除される。すなわち、<告白>の装置のメカニズムである。これにより、「自身の判断で行ったこと」のすべては、「スタッフ間でのコミュニケーション」を通じて共有される。ネグリ=ハートのいう非物質的労働は、こうしてコミュニケーションの収奪過程へと取り込まれる。このような資本による取り込みこそが、「実質的包摂」の過程なのである。ここでは、情報の共有化が、「その結果を点数化して、ネットで見られるようにしています」とあるように、インターネットデータベースへと展開していく。
真に効果的な生権力が構成されるのは、個々人の遺伝子情報データベースが、インターネット上で「販売される」場合であろう。まさにこの方向において、「ヒトゲノム解析」で一躍有名になったセレラ・ジェノミクス社が、現在「スニップSNP(1塩基変異多型)」情報のデータベースビジネスを推進している。SNPとは、個人によって異なるDNA塩基配列の多様性(ゲノム多型)の一種であり、特定の場所の塩基1個のみが個人によって異なる状態の
ことである。およそ1000塩基に1個の割合でヒトゲノム全域にわたって分布していると考えられている。これらすべてのSNP(あるいはスニップスSNPSの組み合わせ)に対応した「機能の解明」が我々人間の幻想に他ならないからこそ、「遺伝的特徴」に応じて全世界の個人を階層序列化するという戦略が現実に展開していくことになる。例えば、着床前遺伝子診断の結果を受けて受精卵を選別・改善するかどうかに関する個々人の選択は、データベース
レベルでの「可能な選択肢の一覧」という幻想の舞台の上で踊り続けることに過ぎないだろう。(注4)

 次に、データベースのテクノロジー的基盤を示す事例(『夕刊フジ』2003.2.25.)を見てみよう。
 「日立製作所が開発した0.4ミリ角の極小ICチップ「ミューチップ」が増産体制に入っている。同社は0.3ミリ角の世界最小チップ開発にも成功、ユビキタス(ラテン語で「どこにでも存在する」の意味)社会と呼ばれる新たなネットワーク時代で“大きな”存在となりそうなのだ。砂粒や米粒より小さく、紙にも埋め込めるミューチップ。タグ(荷札)や伝票、物品そのものにチップを埋め込み、専用の装置から電波を飛ばしてデータを読み取って管理や追跡を行う。バーコードと違って、商品ごとに情報を入力できるのが特徴で、製造工程で個別のデータをROM(再生専用メモリ)に書き込むため、偽造防止効果もあり、金融、交通、物流、オフィス、スポーツ、エンターテインメントなど多分野での活用が予想されている (中略) アジア某国で大型トラックの運転免許証への導入も決定、各国の中央銀行や造幣局を含めて問い合わせ件数はこれまでに内外から3400件を突破しているという (中略) 同社ではチップ販売をきっかけに、システム全体のビジネスに発展させるのが狙いだ」

 データベースの階層序列化が無際限であるためには、それが無数の差異を包み込むに十分な、無数の次元を持つ必要がある。極小ICチップはその基盤になる。このような階層序列化のメカニズムがすでにありふれたものになっている社会こそが、「ユビキタス社会」なのである。現在、遺伝的特徴に応じて個人をデータベース化するプロセスは、「DNAマイクロアレイ (DNAチップ) 」と呼ばれる微小な基板を使用している。<帝国>の統御は、直接に感覚不可能な微小空間を基本としているのである。実践プログラムは、この統御の過程に介入して、個々人の<協働>を構成する。そこにおいて、個々人の多様な力が潜在的なレベルで掛け合わされる。我々は、この意味での潜在的なレベルを「無意識」と呼ぶ。以下は、この無意識において個々人の力が強化し合う過程を記述している。

 「私たちは労働の潜在的な力を自己価値化の力として定義できる。この自己価値化の力は、自分自身を乗り越え、他者へと溢れ出し、この備給をとおして膨張する共通の属性を構成する。労働、知性、情熱、そして情熱の共同の活動が構成的権力を組み立てるのだ」(邦訳p.449. 原書p.358.)

2.内在的な場の構成


 新たな<協働>の過程は、潜在的なものとしての無意識の組替えをもたらす。それは、他者からの呼びかけへと応答する相互的な過程である。この核心には、ラカンのいう他者の欲望が位置している。我々の欲望は、この他者の欲望によって生産され、この他者の欲望として働く力なのである。(注5) それは、生きた労働とマルチチュードを構成する共通の土台である。また、マルチチュードによる<協働>が、<帝国>の土台を構成してもいる。すなわち、新たな<協働>の過程は、<帝国>とマルチチュードをともに構成している。そして、まさにその理由により、この過程は、<帝国>をその土台から乗り超える力を持つのである。

「顔=文字」機能としての超越論的図式機能


 ここで我々は以下の論点を提起する。<帝国>の装置に介入するためには、他者の欲望が位置するコンテクストと意味するものとしての他者の欲望を媒介する超越論的図式の機能が必要である。以後我々は、この超越論的図式の機能について、「顔」をキーワードにして論じることしたい。(注6)  

 我々は、「顔」を持つことによって、「自分の身体」を持つことになる。つまり、「自分の身体」は、我々が「顔を持つ」過程で生産される。この過程において、意味するものとしての「自分の身体」が生産される。このとき、「自分の身体」がそこに溶け込んでいる環境は、「風景」と呼ばれる。この「風景」は、「他者の身体」をもそこに溶け込ませている。その「他者の身体」は、我々の欲望がそこへと向かう他者の「顔」を潜在させている。
そのとき、「風景」には、私と他者との関係が潜在している。言い換えれば、私の「顔」が向かう他者の「顔」が潜在しているのである。すなわち、「風景」とは、お互いの欲望を介して、私の「顔」と他者の「顔」が潜在する場である。

 こうして、動物の「頭部」は、「風景」のなかで人間の「顔」へと移行する。このとき「自分の身体」は、意味するものとしての他者の欲望へと向かっている。そしてこの「顔」への移行こそが、意味するものとしての自分の身体を持った者、すなわち「この私」への移行なのである。

 「風景」のなかで、お互いの他者の「顔」へと向かう我々の欲望は、この他者の欲望によって生産され、またこの他者の欲望として働く。このように、「顔」は、「風景」という他者の欲望が位置するコンテクストと意味するものとしての他者の欲望をともに構成するのである。

 <帝国>の統御は、まさにこの「顔」を統御することによって「風景」を構成している。すなわち、<帝国>の統御は、我々の「顔」が潜在する「風景」そのものを無際限に階層序列化しているのである。(注7) ネグリ=ハートは以下のように述べている。

 「世界市場は国民国家が押しつけてきたような二項対立的な分断から解放される。そしてこの新しい自由な空間においては、無数の差異が現れるのである。これらの差異は (中略) 高度に差異化され移動性をもった構造によって成り立つグローバルな権力のネットワークのなかで厳しく統制されているのである。アルジャン・アバデュライは、これらの構造の新しい質を、風景(landscapes)、あるいはむしろ、海景のアナロジーで捉えている。彼は現代世界に、資金景、技術景、民族景などをみている(中略)世界市場は差異の現実政治を確立するのである」(邦訳p.199-200. 原書p.151.)

  この「顔」について、さらに考察してみたい。「顔」と「表意文字の線」との関係について、斎藤環氏は次のように述べている。

 「「同一化」のセミネール(1961-62)においてラカンは、書字の生成についてふれている。ラカンはそれをフロイトのいう「一なる印」(中略)に結びつけた。「一なる印」すなわち表意文字の線は、抑圧され、ないし消去された形態的なものの残渣であり、そこに保存されるのは「対象の統一性」なのである。主体は固有名において名指されることとひきかえに、この抹消線において消去される。ここで述べられていることは、ほぼ完全に「顔」の諸特性として理解することが可能だ(中略)すなわち「顔」は「固有名」として、一なる印」として、「表意文字」として、「特権的シニフィアン」として、さらにはまた「対象a」としての特性を所有している。(中略)「顔」が「対象a」でもあるということ、それは「顔」がもたらす固有性のコンテクストが存在しなければ、いかなる欲望も(したがって「意味」すらも)不可能であるということを意味している」(斎藤環『文脈病』青土社  2001.p.324-325.)
 「顔」は、表意文字の線として、この私にとっての欲望と意味を可能にする。言い換えれば、「顔」は、欲望と意味を可能にするコンテクストをもたらす。我々は、この表意文字の線としての「顔」を、「顔=文字」と呼ぶことができる。斎藤氏によれば、この「顔=文字」は、この私にとって意味するものとしての心身と神経系を同時に統御している。すなわち、「顔=文字」は、心身の主体としての私と、神経系としての私の両者を統御している。

 この点に関して、斎藤氏は次のように「主体の二重化」を試みている。
「ここで私は主体の二重化を試みようと思う。すなわち(中略)「器質的主体(Organic Subject=以下OS)」と、「精神分析的主体(Psychoanalytic Subject=以下PS)」への二重化である (中略) PSに関しては心的装置とほぼ重なると理解されるのに対して、OSは「身体」ではないという点が重要である。ここではラカンにならい、「身体」はPSそのもの、あるいはPSの表象物を指すことになる (中略) ここで「心」と「身体」の双方を支配するのが、シニフィアンの論理なのである。これに対しOSは「神経系としての主体」として理解する
ことができる (中略) ここには、いかなるシニフィアンの作用も存在しない」
(同上p.330-331.)

 「心」も「身体」も、「この私」にとっての意味するものとして、その意味を「顔=文字」に負っている。(注8) さらに、この心身は、「顔=文字」によって、「神経系としての主体」へと媒介される。すなわち、「顔=文字」は、この心身と神経系を媒介する。「顔=文字」が記憶痕跡を生産するのは、まさにこのためである。この記憶痕跡こそが、「文字」としての「顔」である。こうして、「顔=文字」は、他者の欲望が位置するコンテクストと意味するものとしての他者の欲望をともに構成する。このようにして、他者との間で欲望を持つものとして、この私の自己と他者は構成されるのだ。斎藤氏によれば、「意味作用とはすなわち、OSとPSが「文字」を媒介としつつ、コンテクストとシニフィアンを交換する過程において析出する。もちろん「意味」とは想像的な領域に生ずるものであり、それ自体が記憶されることはない。いうまでもなく、記憶痕跡を残すのは「文字」にほかならないのだ (中略) 顔の記憶については、それが文字としての痕跡を残す点が強調されなければならない。(中略) コンテクストとしての顔の記憶は、それが「固有性」にかかわるという意味で、ほとんど文字に等しい。つまりPSにおいて、顔の同一性はシニフィアンとして反復されるが、顔に固有の同一性は、OSの作動によって文字として記憶される」(同上p.338-339.)

 我々は、この「顔=文字」の機能を、超越論的図式の機能として捉えることができる。超越論的図式は、記憶痕跡としての文字(コンテクストとしての顔の記憶)と、この私にとっての意味するもの(シニフィアンとして反復される顔)をともに構成している。(注9)「組み合わせ文字(Monogramm)」(A142/B181) としての図式は、まさにこうした「顔=文字」として機能するのである。(注10) この「図式性」は、カントによって「人間の心の奥深くに隠された技芸」(A141/B180f) とも呼ばれる。新たな<協働>の過程とは、無意識の技芸が、この私の自己と他者の間で触発し合い、強化し合う過程である。この私の自己と他者は、潜在的なレベルで、顔=文字を介して結び付けられるが、同時にまた、予測し難い形で、新たに結び直されもするのである。(注11) このように、新たな<協働>の過程は、無意識の組替えをもたらす。それは、他者からの呼びかけ(他者の欲望)へと応答し合う過程である。この超越論的図式の機能によって、<帝国>とマルチチュードはともに構成される。まさにその理由によって、<帝国>を乗り超える実践は、この超越論的図式の機能そのものを脱構築し、新たに創造していく過程になる。

3.新たな<協働>の構成プログラムに向けて


 本章では、グローバル資本主義下の<協働>の構成に向けた実践事例を紹介して論じる。その導入として、ネグリ=ハートのいう「非物質的労働」(ケア労働)に関する記述を以下に引用する。

 「ケア労働はたしかに身体的、肉体的な領域に完全に属するものだが、にもかかわらずそれが生産する情動は非物質的なものである。情動にかかわる労働が生み出すものは社会的ネットワークであり、コミュニティーの諸形態であり、生権力なのである (中略) これらの非物質的労働の形態のそれぞれにおいて、協働が労働それ自体に完全に内属している」(邦訳p.378-379. 原書p.293-294.)

 すなわち、「社会的ネットワーク」、「コミュニティーの諸形態」、「生権力」を生み出す「情動にかかわる労働」(ケア労働)とは、これまで論じてきた<協働>が、「労働それ自体に完全に内属している」ものである。そこで、こうしたケア労働に内属する、ネットワーク・コミュニティー構成機能を備えた<協働>の実践モデルとして、以下の二つの事例を紹介することにしたい。これら<協働>の実践については、引きこもりの若者の就労支援としての有効性といった個別的な論点に関して、すでにいくつかの議論がある。それらの議論はともかく、我々は、こういった実践の試みがさまざまな形で展開することが、これまで論じてきたグローバル資本主義下の<協働>の構成となり得ると考えている。

事例



 以下に事例を紹介する。
事例1.NPO『ニュースタート事務局』(千葉県)による「雑居福祉村」構想(2002年10月11日付朝日新聞による)
事例2.『青少年就労支援「育て上げ」ネット』(2002.6.13現在NPO10団体のネットワーク。事務局東京)による「コミュニティー・アンクル・プロジェクト」(2002年6月13日付朝日新聞による)

 筆者は、2003年3月に、上記事例を素材にした2日間の集中講義を行った。そこでまず、講義の最終レポートにおいて学生(全員21歳前後)が上記事例についてまとめたものを以下にそのまま引用する。

事例1について
 Kさん(女性)「従来の日本の福祉のあり方は、高齢者、子ども、障害者など、縦割りの活動であった。この計画は、高齢者のグループホームと同じフロアに子育て世帯向けの部屋や若者の共同生活部屋があり、広いらせん階段があるという構造の住居を作るというものである。お年寄りが介護を受ける一方で、子育てを助ける、引きこもりの若者が職につく練習として介護や育児を行うというのである。診療所や居住者が働く店、地域の困りごと相談コーナーも設けたいという。」

 Oさん(男性)「いろいろな家族が一緒に住むことでサービスの受け手だけでなく、担い手にもなれる(中略)前述したような場所に一緒に住み、個人の自由なふるまいを互いに認め、必要な時に支え合うシステムが今日必要になってきている。」

 Sさん(男性)「大家族のもつメリット(子どもの面倒を祖父母が見ているから、父母は共働きでも安心していられた)という相互扶助(中略)この多世代交流型の住居は、もう一度、相互扶助を思い出させてくれ、その交流によって、高齢者や障害者が地域の人間として地域社会に参加できるようになり、ノーマライゼーションの理念の実現といえる。若者や子どもは、高齢者から今までの人生で得た知恵や技術を学び、高齢者は、若者や子どもから今の流行や遊び、歌を教えてもらい、昔をふりかえるばかりでなく、今を楽しく生きるのである。知らないもの同士が共に生活をして、周囲の住民と共に、全ての世代が、ふれあいをもつことが、未来の福祉のかたちであると思う。」

事例2について
 Mさん(男性)「引きこもりの若者の就労をサポートする(中略)ケア面においては、雇う側と習う側の希望や不満はコーディネーターが調整し,町内の世話好きのおじさん (アンクル) が若者が一人前に育つように手助けをするというシステムを設置しており、アンクルは働く場を提供し、職業指導をしており、若者は初めは月3万~7万の授業料を払って仕事を習い、ある程度できるようになると無償で働き最後はその職で給料を得て自立につなげる方法をとっているのである。また、引きこもりの人は付き合いは苦手だが、まじめで責任感が強いため、その個性を生かせる職も多いということと、授業料を払って習うので育てる側の負担感が少なく、習う側も自分の希望や適性で選びやすくなっている。」

 Kさん(女性)「地域の経営者らに呼びかけて、1対1で職業指導をする「職親制度」に民間団体が取り組んでいる。一般に引きこもりの人は親子関係(特に父親との関係)が上手くいっていない場合が多く、「職親制度」はいわば親子関係を人工的につくり、就業を手伝っていくものといえる。」

 Rさん(女性)「このプロジェクトで画期的な点は4点ある。それは、1.指導者と若者の間で社会的行為が1対1でやりとりされるため、信頼関係を築きやすいこと、2.引きこもりの人は、組織の中において適応しにくいため(引用者補足:適応しにくいという特性を生かし)、自分のペースで仕事ができること、3.地域住民の協力をもとに引きこもりの就労を支援しているため、地域の活性化になること、4.指導者である高齢者の能力が生かされているため、高齢者にとっても社会参加となる、といった4点である。このプログラムは、引きこもりの若者だけでなく、指導者の高齢者や地域社会にとっても有益なことであると考える。」

 Kさん(男性)「活動内容は、月に3万~7万円の授業料を払って、農業、園芸や内装、OA機器、電気工事、そば屋などの指導を自分にあったペースで教えてもらえる。これらの指導をする職親は、引きこもりをしていた人と比べるとずっと年上であり、コミュニケーションのとり方を教えるにはすばらしく上手というのも一つの利点であり、引きこもりをしていた人の長所をうまくひきだすことができるのである。」

 以下は、上記二つの事例に共通する学生のコメントである。

 Kさん(女性)「家族機能が縮小すると、社会と依存しながら生活していくことになる。地域での相互扶助、コミュニケーションは欠かせないものになっていくのは確実である。そのような「場」の提供、そして地域で暮らしていくための「共通の気持ち」を育てること、この両者を同時進行で進めていくことが必要だといえる。」

呼びかけと応答の時空の創造



 これらの試みを、以後、去勢・呼びかけと応答というテーマ系において論じてみたい。

 こうしたネットワーク・コミュニティー構成機能を備えた<協働>は、以下のような特徴を持っている。

1.個々人の無意識が、この私の自己と他者の間で触発し合い、強化し合う過程
2.個々人の生活の工夫/技が触発し合う潜在的なもののレベルの構成
これら2点についてはすでに論じたが、紹介した事例には、さらに次の特徴がある。
3.人工的で代替的な他者関係の構成による<去勢>機能
とりわけ「コミュニティー・アンクル・プロジェクト」では、ラカンのいう<現実界>、あるいは予測不可能な<他者>との出会いを通じた去勢の受容が<協働>の課題となる。

 先のまとめにおいて、「一般に引きこもりの人は親子関係(特に父親との関係)が上手くいっていない場合が多く、「職親制度」はいわば親子関係を人工的につくり、就業を手伝っていくものといえる」とあった。ここでは人工的で代替的な「父子関係」の構成が、職親にとっても、引きこもっていた者にとっても、予測不可能な出会いにおいて触発し合い、強化し合う他者関係の構成となる。この他者関係においては、自らが成育した家族関係という場では不可能であった<去勢>が実現されていくことになる。すなわち、他者との出会いにおいて、自らが「万能である」(あらゆる可能性を実現し得る存在である)という幻想が決定的に断念される。言い換えれば、それ以外のあらゆる可能性を断念して自ら選び取った一つの可能性の実現を目指して自己形成していく場を、自らの生活の工夫/技を獲得しながら創造していくのである。この過程に参加する者は、自ら選び取ったものとしての、自らの生活の工夫/技の獲得という困難な作業は、ただ他者とのやり取りの中でのみ可能になることを学んでいくことになる。我々は、こうした創造の過程を、これまで論じてきた<協働>の構成と呼ぶ。それは、「顔」という固有性のコンテクストにおいて、1対1の関係の中で他者の欲望に応えていくさまざまな場を組み合わせながら、ネットワーク化していくことである。事例の「雑居福祉村」構想は、このような<協働>の構成としての、呼びかけと応答の時空の創造となる可能性を秘めている。我々の生存における無数の差異を包み込み、それら差異をあらゆる次元で階層序列化する<帝国>の機能が無力化していくのは、まさにこうした時空の創造過程においてである。こういった特徴を持つ<協働>の構成作業において、人は自分が思う通りには自分自身や他者を支配したり、コントロールできないということを学ぶことになる。多様で相互的な他者関係としての<協働>の現代的な意義は、そこにおいて自己と他者の支配やコントロールへの欲望を断念すること=去勢されることを学び、他者に依存している自身のあり方を認識し受容することにある。こうした<去勢>機能を持った、新しい職業教育の実践プログラムの構成が必要であろう。この<協働>の構成は、例えば以下のような緊急の問
題を掘り起こし、その解を与えるものでなければならない。最後に、このことを我々が共有すべき実践的な課題として提起することにしたい。

 高齢者医療費自己負担額の1割定率制度への変更問題(2003年2月20日付朝日新聞)。

 「福岡県立花町の江嵜真平さん(75)は昨年秋、自宅で7年間続けてきた酸素療法をやめた。慢性肺気腫を患い、肺の機能は健常者の半分以下。酸素濃縮機からチューブで鼻に酸素を送り、呼吸を助けないと、朝晩の着替えですら息が切れてしまう。それでも中断を、と主治医に意思を伝えた。妻の玲子さん(71)の隣でこたつの座いすに身を預け、顔をしかめて息を継ぎながら、真平さんは言葉を絞り出す。「2人でろくなもん食べらんで餓死するよか、窒息死した方がよか」昨年91月までは、酸素療法や持病の薬代を合算した医療費の自己負担分として、毎月2回、医師が訪問医療する時に850円ずつ、計1700円払っていた。ところが、同じ治療を続けた場合、10月からの負担を計算すると月1万1310円に。月額8万円強の在宅酸素の医療費が、1割負担となって重くのしかかってきた。自己負担額のうち月8千円を超える分は後で町から戻ってくるが、それでも5倍近い出費になる。夫婦2人暮しの収入は年金が月に12万円と少し。真平さんは60代の半ばまでイチゴを作って生計を立ててきたが、もう田畑に立てない。米も現金で買わねばならず、家計のことを考えると、月2回の訪問医療と薬代だけに絞って3200円が限度と割り切った。主治医の宮崎礼寿さんは「血液が低酸素状態になると心臓に負担がかかる」と心配し、自己負担分が全額公費で賄われる障害者認定を勧めたが、検査値がぎりぎり基準に満たず認定されなかった。」

<決意>の原則


 こうした他者の経験を、その他者の「顔」という固有なコンテクストにおいて自らも経験するとき、我々はこの予期し得ない出会いにおいて、<決意>と呼ばれるものを迫られることになる。最後に、この<決意>の原則を提起する。

1. 他者の過去の生育歴にのみこだわるのではなく、むしろその特定の他者との関係において、自分が未来にどう生きていくか、例えば2年後に自分がその他者とどのようなあり方で生きているのかをビジュアライズして、そこ(=ビジュアライズされた時空)へと自己と他者の関係のビジョンを投射する。

2. このビジョンの投射という行為は、その特定の他者と自己との関係を、この私自身の未来への<決意>とともに選び取ることである。

 <帝国>の統御機能が世界を包み込むかに見える現在、<協働>の構成作業は、予期し得ない他者との出会いにおける<決意>の経験を、それ自身の核心に包み込むことで現実化するのである。

【注】

(注1) この<協働>の定義は、後に引用するネグリ=ハートの「<帝国>」からの記述について述べられる。
(注2) 「<教育>の場を造型する実践プログラムへの序論――線を引くこと」(『グローバル化とアイデンティティ・クライシス』(明石書店 2002. 宮永國子編著)を参照。なお、<線を引くこと>のイメージとして、「他者との間で目に見えない糸電話を引くこと」を挙げたい。
(注3)「人々の言語と情動をデータベースの指令に応じて統御することによって、我々のコミュニケーションをあらかじめ収奪・植民地化する装置」に関して、『<告白>の行方』(拙著 近代文藝社/日本図書刊行会1997.)を参照。
(注4) 着床前受精卵や胎児細胞の遺伝子診断は、ハンチントン舞踏病などの根治不可能な遺伝性疾患にとどまらず、「一般に遺伝性の障害を持つことが予測される子ども」の出生を確実に予防することを事実上の狙いとしている。また、現在「生活習慣病に罹りやすい体質」や「攻撃性」などの概念に関わる遺伝子に言及する「科学的言説」が目立ってきている。個人の「自由な選択=自己決定」にもとづいて生殖細胞系列(卵、精子、受精卵および初期胚)を選別=廃棄あるいは「改良」するという予防を目的とした予測医療が社会的に力を持ってしまう可能性がある。つまり、社会的圧力としての「新優生主義」が人々の言語と情動を巻き込みながら社会政策の実践を大きく方向づけ、個々人に特異的なレベルでの遺伝子解析に基づいて認定された「リスクグループ」の選別と排除につながっていく可能性である。このような観点から、我々は、「個人、カップルの選択=自己決定による遺伝病の診断、治療、予防」というWHO主導でグローバル化しつつある理念を批判的に吟
味することを迫られている。 
(注5) ここで、我々の欲望が生産される基本的なモデル(転移のモデル)を確認したい。
 まず、現在にいたるまでの過程で、最初期の養育者(通常は母親)が自分に向けている感情が、自分が自分自身に向けている感情となる。これにより、基本的な自己に対する感情が形成される。次に、この感情がその都度出会う他者へと向けられる。例えば、自分自身のこういうところが好き・嫌いだと思っているその好き・嫌いな感情を他者に転移して、その他者が好き・嫌いになる。従って、自分にとって自分自身が十分受容されていない場合、他者の受容が難しくなる(その逆もいえる)し、場合によっては、他者に対する攻撃性が発動してしまう。また、ある人が自分自身をどう感じているかを、その人の他者に対する感情から推し量ることができる。言い換えれば、その人がその都度出会う他者に対する感情から、その人に対して注がれてきた、あるいは注がれ続けている他者の欲望のあり方を推し量ることができる。「感情」とは、他者との関係においてつねにすでに言語的に構造化されている欲望である。
 以上の過程は、次のように言い換えることができる。我々は、父または母と呼ばれる最初期の養育者から否定的な、あるいはその逆の感情(欲望)をゼロ歳時から絶えず注ぎ込まれている。例えば、「おまえは本当にいやなやつだな」といった言葉を父または母に言われ、またそのように振る舞われていたとしよう。その場合、父または母による感情を内化してしまい、さらにそういった父または母に対する、反感を内化してしまったときに、私はその都度出会う相手に対してそうした感情を転移してしまうのである。すなわち、父または母から私に向かっての感情は、実は私に対してではなく、無意識(ES)に向かって注ぎ込まれているので、その都度出会う他者に対する私の感情は、避け難い形でその無意識を経由して他者に向けられている。
(注6) 以下の議論において、我々は、ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリの『ミル・プラトー』7章「零年―顔性」(邦訳『千のプラトー』 河出書房新社 1994. 原書 Mille Plateaux,Gilles Deleuze, Felix Guattari Les Editions de Minuit.1980.)および斎藤環氏の『文脈病』の議論を参照している。
(注7) 『<告白>の行方』を参照。
(注8) いわゆる「マインドコントロール」と呼ばれるものは、この「顔=文字」による我々の心身の統御(mind-body control)として、心と身体の両レベルにおいて一挙になされる。
(注9) 記憶痕跡としての文字(コンテクストとしての顔の記憶)と、この私にとっての意味するもの(シニフィアンとして反復される顔)との違いについて、安部公房の『燃えつきた地図』の主人公の男が物語のラストで陥った状態が示唆的である。この主人公は、名前を初めとする自らの記憶をすべて喪失するが、唯一見覚えのある喫茶店の店員の若い女性の「顔」をコンテクストとしての顔の記憶とすることで、自らの失われた過去を取り戻そうと試みる。しかし、その「顔=文字」は、この私にとって意味するシニフィアンとしてはもはや機能しない。主人公は、コンテクストとしての顔の記憶はあっても、それが自らの過去を意味づける顔とはなりえないことを確認する。主人公は、物語のラストで、この若い女性の顔を出発点とした過去の探索をいっさい断念して、自ら選んだ道を新たに歩み始めることになる。逆に言えば、「自ら選んだ道を新たに歩み始めること」にとって、シニフィアンとしての顔は不可欠ではない。
(注10) Kant,Immanuel. Kritik der reinen Vernunft.1781(第1版),1787(第2版).からの引用は、以下「1781(第1版)の頁数/1787(第2版)の頁数」の形で表記する。
(注11) より根源的には、超越論的図式は、「超越論的時間規定」として、それによって自己形成において不可欠な自己言及―カントの用語では自己触発―の条件としての「最小限の時間=時点」が形成される機能である。この点に関して、津田一郎は、「カオス的精神分裂病観―自己と他者のダイナミックスを中心にして」(『分裂病論の現在』花村誠一・加藤敏編 弘文堂1996.所収)において、次のように述べている。
 「システムの内側からの記述では、主語的自己(見ている「私」)が述語的自己(行為者としての「私」)に言及した時点というのは無意味ではなく、それどころかシステムにとって自己言及を成立させるために必要不可欠な“ある時点”である。さらに述語的自己が主語的自己に言及する時点も同様に意味を持つ“ある時点”である。このことはいわゆる“瞬間”ではなく、“無限小”の時間の経過を要求する。これが幅のある時間である。幅のある時間の発生は、その“時点”を指し示す何ものかがシステム内部に発生したことを意味する。この何ものかが“意識する主体”というものであろう。」(前掲書p.13-14.括弧内は筆者による補足。)
 

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