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母のエッセイ 『戦争、そして今――あの日々を、一人の女性が生きぬいた』 永澤春榮著・永澤 護編著(私家版=Kindle版 増補版)

一本の道


 今でも私の記憶の中にはっきりと残っている一本の白い「道」。それは一面焼け野原の中を、南から北へ真っ直ぐに延びていた。そこは前夜までの人の営みも一切感じられない恐ろしいほどの無人の道だった。ただ焼けただれたトタンが何枚も風に飛ばされてばたばたと舞いあがっていた。敗戦の年三月、私は、東京女子医専に通う学生だった。父母弟妹たちの疎開した後の東京中野の留守宅を護りながら一人勉学に励んでいた。
 三月九日、学年末試験が明日という日。荒川区尾久の学友の家に一泊して徹夜覚悟の勉強に励んでいた。突如として米軍来襲の警報が鳴り響いた。東京大空襲の始まりだった。夜空には真っ赤な閃光がはしる。けたたましく、そして不気味なあのサイレン、一度聞いたら忘れられない音だ。アメリカは日本の主要都市のほとんどに焼夷弾を投下し、日本を壊滅に陥れた。
学友の家は大きな病院を経営していた。幸い陸軍の将校だった学友の兄上が在宅だった。
「池の水を防空頭巾にかぶれるだけかぶれ」 
大きな正門はすでに真っ赤な炎で這い出る隙もない。「裏門から出る!」 兄上の指示で裏門を潜りぬけ曲りくねった道を広場に出た。兄上の的確な指示がなかったら、あの燃え盛る炎の中、無事に逃げおおせたかどうか分からない。
「風の向きが変わったぞ」 
 私たちと広場の反対側に避難していた大勢の人たちが「わあっ」と叫びながら押し寄せてきた。もう駄目だと思ったときまたも風の向きが変わった。火事場と言うのは風がくるくると向きを変えるものだと知った。
白々と空しい朝が来た。学友の家もただの広い焼け野原。昨夜一緒に勉強した部屋はどの辺りだろう。鶏小屋に焼け爛れた鳥たちが死んでいた。一面灰色の瓦礫の広場と化した昨日までの町々。ここに昨夜まで生きていた人々は、どこへ行ったのだろう。

二〇〇九年 執筆

Version2 2009/10/23執筆

 今でも私の脳裏に幻のように浮かぶ一本の白い道。それは見渡す限り真っ黒な焼け野原の中を、真っ直ぐに前方へと伸びていた。前夜までは人々が忙しげに行き交っていただろう賑やかな東京下町の道は、あの激しい米軍の空爆でその様相を一変させた。      

  翌朝、道の上には人の姿はなかった。民家の側壁を覆っていた大きなトタン板が、焼け爛れ、何枚も風に吹き飛ばされていた。パタンパタンと大きな音を立てて、舞いあがり転がり、あの白い一本道の彼方に飛んで行った。

 敗戦の年三月、私はある専門学校の学生だった。兄は何処とも知らぬ戦地へ赤紙一枚で狩り出され、父母弟妹たちは那須の山中へ疎開していた。私は東京中野の自宅で一人勉学に励んでいた。

 昭和二十年三月十日。学年末試験に備えるため、私は前夜から東京荒川の学友の家に泊っていた。

  突然の空襲警報。夜空に真っ赤な閃光が走った。けたたましく不気味なサイレンが鳴る。一度聞いたら忘れられない音。死者約十万人、焼失戸数二十七万戸という未曾有の大惨事となった東京大空襲の始まりだった。学友は大きな病院の一人娘だった。兄上が陸軍の軍医で、幸いその夜は在宅だった。

 「庭の池の水を被れるだけ被れ」と兄上の指示。大きな正門の外は既に紅蓮の炎。虫の這い出る隙もない。裏門を抜けてひたすら一本道を走った。漸く広場に出た。だが広場に出ても一安心とはいかなかった。

 「風の向きが変わったぞ」

 広場の反対側に避難していた大勢の人たちが「わあっ」と叫びながら、此方へ押し寄せて来た。後ろも火の海。だが神仏の加護があったのか、其の時またも風向きが変わった。火事場では風がくるくると向きを変えるものと知った。傍らにあった防空壕に入って米機が去り夜の明けるのを待った。

 白々と空しい朝が来た。学友の家もただの広い焼け野原となっていた。昨夜一緒に勉強した部屋はどの辺りだろう。鶏小屋に焼け爛れた鶏たちが何羽も折り重なって死んでいた。一面黒い瓦礫の山と化した町々。余りに無残で見るに耐えない光景だった。そこでは昨夜まで人々が日々の暮らしを営んでいたはずである。一体、どの位多くの人々が炎に追われ逃げ惑ったことだろう。一本の道だけが眩しいくらい白く瓦礫の中を貫いていた。

 「東京が燃えているようだ」。その晩、那須の山奥では人々が口々に叫んでいたという。東京方面の空が真っ赤だったそうだ。東京大空襲の残酷さ。学友の兄上の適切な指示がなかったら、私はあの時果たして生き延びていただろうか。先日、東京の地図を見てはっと胸を衝かれた。学友の病院が大きく載っていた。一面の焼け野原だった病院は戦後見事に復興し、多くの人々が九死に一生を得たあの広場は今遊園地として子供たちの平和な遊び場となっているようだ。

 過ぎ去った長い歳月が一度に甦って来た。

 共に学び、共に炎の中を生き延びた学友は今も元気だろうか。焦土の光景と共に私の記憶の中に甦る一本の白い道。今、賑やかな下町の生活道路として復活し、前にも増して賑わっていることだろう。今一度訪れてみたいとの思いが、頻りに胸に浮かんでくる。

母と歩んだ日々


 敗戦後、母とたびたび食料の買出しに行った。そのころ、配給制度などあってないようなもので、飢えた人々は皆リュックサックを背負って農家を訪ね、なけなしの衣料などと引き換えにさつま芋、野菜その他の食料を手に入れた。米は統制品で、帰りの駅には経済警察官らしい人が見張っていた。捕まるのが怖くてホームの上を走って逃げたこともある。
 私の嫁入り用にと母が少しずつ準備してくれていた和服も、この時、農家の手に渡ってしまった。あの着物は、どこの何方が身にまとったのだろうか。知るよしもない。生きるために必死だったから、着物どころではなかった。惜しいとは少しも思わなかった。
 都会では数多くの人が焼け出され、空腹に喘いでいた。戦中・戦後のあの時代、農家の人々も様々なご苦労があったと思う。でも都会に暮らす人達の困難は並大抵ではなかった。
 買出しの行き先は、いつもは戦時中疎開していた南那須の農村だった。ある日の朝、母は突然房総の海に行くと言い出した。
「どうして海になんか行くの。知り合いの人も一人もいない所なのに。食べ物が手に入るとは思えないけれど……」
 思わず問いかけたが、母は黙っていた。そこは今でこそ賑やかな海水浴場になっているが、当時はうら寂しい漁村だった。海岸に二人で立った時、あたりには人ひとりいなくて、眼前にはただ晩秋の暗い海が一面に広がっているだけだった。

 その頃、我が家は戦争の影響で苦しい日々を過ごしていた。父は以前から血圧が高かったが、戦争中の、しかも医者も不在で薬もないという山の中の疎開先で、良い手当ての方法などなかった。終戦の年の秋半ば帰京して間もなく脳出血で急死した。まだ五十六歳という若さだった。
 音楽学校のピアノ科に入学したばかりの妹は、もともと丈夫なほうではなかったが、たぶん戦争中の食料不足や、勤労動員の過労などで健康を損なったのだろう。父の葬式後まもなく結核と診断され、療養所に入所した。やむなく私は当時通っていた専門学校を中退した。そこは五年制の学校で、ようやく一年すこし通っただけだった。あと四年近くも父の無い私が、学業を続けられるという状況ではなかった。まして病気の妹や年少の弟がいたのだから。
 池袋の焼け跡に、いち早く開校していたタイピスト養成学校に、中野の自宅から毎日通った。人より三十分早く登校し懸命に練習した。修了後、学校から推薦され、英文タイピストとして米軍基地に生きる糧を得た。初出勤の朝、母が仏壇の父の位牌にじっと手を合わせていたことを思い出す。
 ここで四、五年働いた。考えてみれば、あの基地での頃が、年齢的に見て私の青春時代だったといえるかもしれない。けれど、なんと暗く陰鬱な日々だったことだろう。家のこと、妹のことなどが、いつも私の気持を暗く塞いでいて心が晴れることがなかった。
 けれど、そんな私にも楽しかった思い出がまったくなかったわけではない。基地での同僚の女性と打ち解けて交際することが出来た。二歳年上の人だったが、今でも顔もはっきりと覚えている。眼鏡をかけたとても聡明そうな人だった。昼休み、いっしょにイタリア民謡の『サンタ・ルチア』や、グノーの『アヴェ・マリア』などの美しい歌曲を歌ったりした。私はその頃このような歌がとても好きだった。
 一時期、日本人従業員のために、寄宿舎が建てられたことがあった。簡易プレハブのようなものだったが、私は入居の許可を得て、この女性と一室で共同生活をした。いっしょに炊事をしたり、本を読みあったり、夜遅くまで未来の夢を語り合ったり。短い期間だったが、懐かしく思い出す。私の青春時代唯一の心温もる日々だった。
 当時、日本人従業員全体の支配人にSさんという日本人男性がいた。まだ四十歳代のやる気のある人だった。この人の発案だと思うが、基地の一隅に屋根だけある小屋が建てられた。小屋の隅には巨大な釜が、二、三個備え付けられ、毎日昼前になると、その中でなにかがぐらぐらと煮込まれる。中にはチューインガム、ケーキ、チョコレート、牛肉、野菜など、ありとあらゆる食べ物のかけらが将にぶち込まれていた。この正体はなにか。米軍兵士達の大量の残飯である。
 今、聞いても信じられないだろう。でもお弁当も満足に持ってこられなかったあの頃、このあつあつの雑炊は日本人従業員達の飢えをすこしでも和らげる貴重な栄養源となった。こんな酷い食料不足の時代が、五、六十年前の日本に存在していたなどと聞いたら、それこそ今の若い人など「ウッソー」と笑うかもしれない。
 日本人のメンツも捨てて米軍当局と交渉したSさんは、努力の甲斐あって見事残飯払い下げに成功し、私たちを救ってくれた。こういう飢えた日本人たちが、その後不死鳥のように甦り、戦後日本の目覚しい復興を成し遂げたのだと思うと、同じ時代を生きた人間の一人として胸が熱くなる。
 戦前、父が東京都内に持っていた何軒かの家作は、空襲で跡形もなく焼け落ち、我が家には当時住んでいた東京中野の家だけが残っていた。この家が残っただけでも運が良かったと言えるかもしれないが。
 母は一家の生活をどうするか、ずいぶん思い悩んだことと思う。だがその頃、米軍の英文タイピストは比較的給料が良く、私も少しは母の重荷を背負えたのではないだろうか。其の時はそんな自覚はまったくなかったけれど。給料日にはいつも袋ごと母に渡していた。その中からお小遣いをいくら貰っていたのか、今はまったく思い出せない。もっとも当時の私はお小遣いなどほとんど必要なかった。職場と家庭を毎日往復していただけだから。
お休みの日など母と買出しに行く時、小学校五年生だった弟はいつも留守番だった。朝は始発の電車に乗り、夜も遅かった。その間、弟はたった一人。きっと寂しかったに違いない。末っ子で可愛がられて育った弟だけに不憫でならなかった。この弟はその後、人生に挫折して四十歳代半ば自死して果てた。その魂は今どこをさ迷っているのだろう。哀れでならない。
子供の頃、近くの原っぱで、弟や幼友達といつも一緒に遊んでいた。黄昏時、家に帰る道すがら二人で眺めた夕焼け雲の、あの見事な茜色の美しさ。今でも目に焼きついている。弟の死が母の没後だったことが、せめてもの慰めである。
 あの頃、街なかに毛虱が発生し、電車の中などで若い米兵が何か大きな声で叫びながら、乗客の日本人の頭に、殺虫剤のDDTの白い粉末を振り掛けていた。私も仕事の帰り振り掛けられた一人である。米兵にしても日本人のために良かれと思ってしたことと思うが、でも有無を言わさぬ強引な遣り方だった。みな髪の毛が真っ白になって、浦島太郎なみの俄か老人に変身したのだが、まったく笑うに笑えぬ光景。敗戦国という屈辱が日本人を卑屈にさせていたのか、抵抗する人はいなかった。
 妹の髪にも虱が湧いていることに気付いた時、どんなにショックを受けたかわからない。妹が可哀想で涙が出そうになった。病気のうえに虱まで湧くなんて……。母と相談してそれからはいつも梳き櫛を持って行き、髪を梳いて取ってあげたが、今でも思い出す。療養所の大部屋の、あの窓際のベッドで、私が髪を梳いている間じっと目をつむっていた妹の姿。忘れることなどとても出来ない。
 病む妹をなんとか元気付けようと、心で泣き顔で笑うという複雑な心境だった。帰り道、暗い夜道を、涙を拭き拭き歩いたことも、今まで誰にも言っていないが、私の記憶の中から消えない辛い思い出である。
だが、今になって考えれば、妹こそ心で泣き、顔で微笑んでいたのかも知れない。それとも健気で辛抱強い妹は、今あるがままの自分を素直に受け止め、静かな気持ちでベッドに臥していたのだろうか。きっとその両方だったのだろう。
 その後、妹は療養に努め、ようやく退院することができた。一年ほど自宅で静養したのち、なんとか音楽学校に復学した。妹に代って復学の手続きに行った時のこと。校門を潜って事務室の方へ歩いていった時、傍らの教室から美しいピアノの演奏が聞こえてきた。静かな曲だった。誰か学生が弾いていたのだろうか。
 私はその演奏を耳にして、あの苦しい戦争が終わったこと、真の意味での平和が到来した事を実感し、身体の中を大きな喜びというか、さらに深い感動が貫いたことを覚えている。と同時に、なにか張り詰めていた気持ちが急に緩んだのかもしれないが、訳もなく涙が出てきて困った。
結局、私自身は、戦後の新しい民主主義教育を受ける機会はなかった。でも学校に行かなくても、その気になれば勉強することはできると思う。民主主義とはどういう思想か、新しい政治はどのようにあれば良いのかなど、それまでまったくの軍国少女だった私だが、基地やその後社会で働く中で色々なことを見聞きしてだんだん理解していった。
 また母が明治の女だったにも拘らず、買出しの行き帰りなど、当時としては進歩的な考えを時折話してくれて、とても良い勉強になった。いったい母はどこであのように新しい考えを身につけたのだろうか。新聞や本をふだん良く読んでいたからかも知れない。
 初めて婦人参政権が認められ、女性が総選挙に臨んだ時、母は「これからの日本にはきっと女の時代が来る」と言った。今まさに女の時代が花開いていることを思うと、母の先を見る眼の確かさに驚く。
様々なことを体験し、悩んだり苦しんだりした、また時には喜んだりもした戦後の一時期だった。それらの思い出が今、しきりに私の胸にこみ上げてくる。
 戦前には、毎年夏休みになると、家族皆で房総や鎌倉の海に避暑に行っていた。一ヵ月ほどの滞在で、漁師さんの一部屋を借りての気儘な暮らしだった。海水着を着たままいきなり眼の前の海に直行。ザブンと飛び込むその快適さと言ったらなかった。お土産をたくさん持って週末ごとに訪れた父。父と浅瀬で水と戯れて過ごしたひととき。それは子供たちにとってはこの上ない楽しい時間だった。ビーチパラソルの下でこんな夫と子供達を眺めながら、母も女として至福の時を味わっていたに違いない。
父が亡くなった時、母はまだ四十四、五歳だった。こんなに若く父と死別したとは。今から考えると早すぎる夫との別れだった。それだけに、まだ若かった母は、父と過ごしたあの幸せだった日々を、ほとんど珠玉のように大切な思い出として、胸に抱き続けていたのだろう。

 母と二人で房総の海に行ったあの時、母はどうしてあんなにも長い間、海の彼方を見詰めていたのだろうか。今でもそのことを考えずにはいられない。
 海の向こうに、母は何か見たのだろうか。私の話しかけにも一言も答えず、じっと立ち尽くしていた母の背中の表情に、言いようのない寂しさを感じないわけにはいかなかった。
 母は父との幸せだった思い出を抱いて、私と房総の海に立ったに違いない。憑かれたように、ひたすら海に向かい、海を見詰めていた母。あの時、母の脳裏に去来していたのは、父への思いであるとともに、現実の生活の労苦から、一時的にでも逃れたいとの願望もあったかもしれない。若しかしたら海からの誘惑と闘っていたのだろうか。
 母は家族のために強く生きなければならなかった。悩みも苦しみも、さらにはあの昔の父との楽しかった宝物のような思い出さえも、すべて海に捨て去るつもりで、あの海辺に立ったのだろう。その後の苦しい生活を強く生きぬくために。
 男でも苦しい戦後の混乱の中、大黒柱の父を失い、病人と子供とを抱え、心身ともに疲れきっていたことだろう。でも母は海辺に佇んで、すべてを流し去って、その後、強く生きる糧を得たのだと思う。あの海で母は再生を果たしたのではないかと、私は今思っている。
今でも、あの時の波の音が聞こえてくる。
「もう帰ろうね」 私を振り返って静かに言った母の眼差しを、はっきりと覚えている。
 波間に揺れる海藻をすこしばかり拾って袋に入れ、二人で家路についた。車窓から見る町にはもうすっかり夜の帳が下りていて、あちこちに瞬く灯火が心なしかかすんで見えた。ひとり留守番をする弟が気がかりで、帰りを急いだ。
 あの日、海から帰った後、母はなにか人が変わったように私には思えた。思い込みかもしれないが、確かに母は強くなった。それとともに家の中の雰囲気まで明るくなった。
栃木県の麻問屋の娘だった母は、当時としては珍しく高等女学校を出ていた。歌が好きで家事の傍らよく口ずさんでいた。母には音楽の才能があったのだろうか。三味線も弾きこなした。私もいくつかの長唄の曲を教えてもらったことがある。
 どちらかと言えば、お嬢さん育ちだった母だったが、その後、生活の苦労を私に漏らすことは無くなった。弱音は吐かなくなった。生活のためには何でも臆せず行動した。意識して自分を変身させたのだと思う。私はこんな母を尊敬する。

 戦後を懸命に生きた母も、最期は認知症を患って、今から二十八年前、八月六日のあの広島原爆記念日に亡くなった。
 母が臨終を迎えた年の暑い夏の日の午後のことだった。夫と二人で母を見舞った時、母は私の顔をまじまじと見つめてひとこと言った。
「あんた、はるえさんなの」
 息が止まりそうだった。母は私のことが解るようになったのだろうか。それまで母はまわりの人が誰か解らなくなっていて、私の顔を見ても「あんた、だれ」と不審そうに呟くだけだったのに。
「そうよ。私、はるえよ」
 すると母は目に涙をいっぱいため、急に激しく泣き出した。まわりの人たちが、いっせいに母を見つめた。それでも母はおいおいと号泣し続けた。
「はるえさん。はるえさんなのね」
 私も母を抱きながら泣いた。母が可哀想でならなかった。それまで、どうしても私のことが解らなかった母。奇跡的に記憶が戻ったのだろうか。これから回復するのだろうか。わずかだが期待が膨らんだ。
だがその後、母はまた薄明の中をさまよい出した。一週間後、静かに息を引き取ったが、あれは母の最期の命の瞬きだったのだろうか。
 母と戦後、一生懸命に生きた日々が、今は懐かしく思い出される。母の一生はやはりあまり幸せではなかった。夫と早く死に別れ、戦後の生活の苦労を重ね、最期は認知症を患って亡くなった。哀れで不憫でならない。
 あの房総の海で、じっと遥か彼方を見つめ続けていた母。
「あんた、はるえさんなの」と泣きじゃくった母。
 母の思い出は、今も激しく私の心を揺さぶる。永別の日、子供たちの嗚咽の声が低く室内を流れる中、母の魂は静かに昇天した。病室の外は咽ぶような草いきれ。蝉時雨がしきりに耳に響く暑い真夏の午後のことだった。
二〇〇四年四月五日~同八月三十日 執筆

蝉時雨


「カナカナカナ、カナカナカナ」

 我が家の二階、北向きの六畳間が、私の部屋である。窓外の林で、また蜩(ひぐらし)がいっせいに鳴き出した。

 立秋を過ぎた今も、日差しはまだ強い。晩夏から初秋にかけて鳴くという蜩だが、この暑さの中、ひたすら鳴いているのは、たぶん秋の間近な到来を、その身体で感じているのかも知れない。

 蝉たちは土の中に数年を過ごし、地上では十日にも満たぬ命という。今までは無意識に聞いていたが、実は蝉たちにとって其の鳴声は最期の命の迸りだったのだ。彼らはやがて息絶えて林の中になきがらを横たえる。そしてまた土に戻っていく。

 蝉たちは精一杯生きて、鳴いて、そして生を終える。人間である私は果たして残りの人生を、自身納得できるように生き、死ねるであろうか。

 林の中の降りしきる蝉時雨に耳を傾けているうちに、ふと五十数年前の疎開先での一風景を思い出した。

 その時、私は那須山中を、診療所のある隣村への道を急いでいた。慣れぬ農作業で痛めた指の治療をするためである。

 紺碧の空には一片の雲もなく、その中天に真夏の太陽がぎらぎらと輝いていた。通る山道の両側は蒸れるような草いきれ。人一人通らぬ山中で耳に入るのはただ降るような蝉時雨だけだった。

 まだ若い娘だった私が、たとえ小さな山とはいえ、一人で草を掻き分けて歩くのはちょっと怖かったが、でも途中、見上げた空の色はあまりにも美しかった。どこまでも青く深く、私は吸いこまれるような思いに、心が満たされた。

 細い山道を汗まみれで歩く私の耳に響いてくる蝉たちの大合唱は、なにか不思議な感覚で、読経のようにも、賛美歌のようにも聞こえた。

 その日、昭和二十年八月十五日。山一つ越えて、ようやく診療所に辿り着いたときは正午少し前だった。東京から疎開していた若い女医さんが、実家である大きな農家の一室で、村の人々を診療していた。

 受診に来ていた人々がラジオの前に集まっていた。玉音放送があるという。それまで天皇のお声は畏れ多いということで、国民は耳にしたことはなかった。今回は直接国民に話しかけるとのこと。何ごとだろう。聞き取りにくいラジオに私もじっと聞き入った。

「日本、ポツダム宣言を受諾せり」。

「日本は負けたらしいぞ」

 人々が叫んだ。ポツダム宣言受諾とは、日本の敗戦の事実を告げるものと知った。

 初めて聞いた天皇の声。長い辛い十五年戦争を耐えてきたのは何のためだったのか。多くの若者は一体だれのために死んだのか。私の心の中に大きな空洞がポッカリあいた。聞いている人、みな呆然とした。誰も信じられないという様子だった。

 小学校五年の時から、戦争は常に私の身近にあった。戦争はあるのが当たり前で、終わるということなど想像も出来なかった。だが戦争はこのとき本当に終わったのである。其の時、怒りも悲しみも、喜びもすべての感情は停止した。

 私は一人診療所をあとにした。帰り道、行きと同じ山道を歩いていると、ふと目頭が潤んだ。急に激しい感情が胸の中に渦まいてきた。これほど国民に大きな犠牲を強いておきながら、はい、負けましたとはなんと酷いことだろう。涙が止まらなくなった。

 蝉時雨が、一人歩を進める私の耳の中で微かに響いていた。ふと見上げると、あの真夏の太陽が、紺碧の空に浮かんでいるのが目に入った。蒸れるような草いきれもみな往きと同じだった。戦争に負けても自然はいつもと変わらず、私のまわりに悠然と存在している。「国破れて山河あり」の言葉が胸に浮かび、今度は本当に声を出して泣いた。自宅まで山道をどうして帰ったのだろうか。今まるで記憶にない。あれから五十数年も経ったが、あの山道の風景は今でも私の胸中に浮かんでくる。

 ペンを持つ手をふと休めると、また窓外の蜩の声がしきりに耳に入る。五十数年前のあの山道での蝉時雨がオーバーラップして聞こえてくる。

「カナカナカナ、カナカナカナ」

 休みなく鳴き続ける林の中の蝉たちの声が、私にはなにか戦争による多くの死者たちへの鎮魂歌のように思えてならない。悲しく、切ない鎮魂歌である。

二〇〇二年八月一五日 執筆

挽 歌

 
 私には三人兄がいた。長兄の名は章夫。弟妹たちはみな「あきおにいちゃん」と呼んで慕っていた。優しい兄だった。中学生時代の写真が残っている。聡明で真面目な少年といった顔かたち。父母には長男としてすっかり信頼されていた。章夫兄も大勢の兄弟の総領としての自覚をはっきりと持っていたようで、弟妹たちにとっても何かと頼りになる存在だった。

 どちらかと言うと運動よりも読書好きで、父母に買ってもらった本を熱心に読んでいた姿が、思い出される。だが、章夫兄は外遊びもけっこう好きだった。ひとつには、大勢いた弟妹たちを遊びに連れて行くという思いもあったのかもしれない。多分家事で多忙な母にみんなを遊ばせてと時には頼まれたりもしたのだろう。そんな母の気持ちもいやな顔もしないで聞き入れる優しい兄だった。

 我が家は、私がまだ赤ちゃんの頃、東京赤坂から郊外の中野へ越して来たという。父の話によると、当時の中野は今の駅近辺の賑やかさとは較べものにならない田舎だったようだ。駅から徒歩十五分位の我が家まではるかに見渡せたという。なぜ賑やかな都会からこんな田舎に越してきたのだろう。当時中野に知り合いがいたという話も聞いていない。多分子供たちの健康を考えてのことだったのではないかと思っている。

 豊かな自然の中で伸び伸びと育った私たち兄妹。小川でザリガニを捕り、原っぱでは日暮れまで我を忘れて遊んだ。ぶらんこも滑り台もないただの野っ原だったが、それで十分に楽しんだ。夏には庭の木に登って蝉取りに熱中したり、また友達と床屋さんごっこをして耳を鋏で切られ、泣きながら母の許へ駆け込んだのも今となっては懐かしい思い出の一つである。

 ただただ楽しく遊びほうけていたあの頃。いまだ戦争の影響もなく平和なよき時代だった。男三人の次に、初めて生まれた女の子だった私は、いつも兄たちの後について、まるで男の子さながらの遊びに熱中していた。なかでも好きだったのはちゃんばらごっこ。おもちゃの刀を振り回しして、「えいっ、やあ」と兄たちと渡り合っていた。父がどこかへ行く時、「はるえ、お土産はなにがいい」と聞くと間髪をいれず「刀!」と言ったと言う。全く呆れたお転婆娘だったようだ。お神輿の後にどこまでも夢中になって付いていって迷子になり、普段は優しい章夫兄にひどく叱られたこともある。こんなのどかな暮しが続き、私は父母、兄たちの愛情に包まれて本当に幸せな子供時代を送っていた。だが、その後、幸せは無限に続くものではないのだと、私は子供心にも強く思い知ったのである。

 その頃、我が家には思いがけず大きな不幸が襲いかかってきた。章夫兄の体に恐ろしい病魔が忍び寄っていたのだ。

 私が小学校低学年、確か二、三年のころだったと思う。当時、中学生だった章夫兄が重い病に罹った。母に「章夫兄ちゃんの病気の名前はなんというの」と聞いたことがある。母は悲しそうな表情で「脳膜炎よ」と答えた。正式の名前は「脳脊髄膜炎」といったようだ。感染性と非感染性とあったようだがそのどちらだったのだろう。

 母と私と妹の三人でその入院先の病院に、見舞いに行ったことがある。どのような道筋で行ったのか幼かった私は全然覚えていない。ただ電車に乗って行ったことだけは、はっきりと記憶がある。たしか牛込の「S病院」という名前だった。今も東京には牛込という町名があるのだろうか。

 そこは和風の建物で、病室は今では考えられないが畳敷きの部屋だった。普段は付き添い婦さんが付いていたのだろうが、その時は一人で横たわっていた。母は部屋に入るやいなや、兄の枕もとに坐り、その手を握り締めて、何か一心に話しかけていた。きっと兄を元気付けていたのだろう。私は妹と病室の外の廊下で二人を見つめていた覚えがある。

 母は心配と不憫さで胸中一杯だったに違いない。帰途しきりに涙を拭っていた。普段から電車が好きだった私は電車に乗れるというだけで喜んでしまい、その時どれほど母が悲しかったか、ほとんど理解できなかった。私は本当に何も解らない子供だった。

 どれくらいの期間入院していたのだろうか。その後、章夫兄は自宅の座敷で療養するようになった。なぜ退院したのか私には解らない。父母は子供の私には何も話さなかったからだ。もしかしたら父母は兄の病が回復不能と医者から宣告されていたのだろうか。それで家に連れ帰ったのかもしれない。それとも、非感染性といわれて退院したのだろうか。

 その頃、我が家の客間だった一階八畳敷きの和室に黒い鉄製のベッドをおいて、その上に章夫兄は身体を横たえていた。母はそれこそ寝食も忘れ懸命に看病していた。他にも大勢の子供のある母にとってはどれほど大変なことだったろう。でも、かけがえのない大事な総領息子を何とかして治してやりたいと必死だったに違いない。

 学校から帰ると家の前にはしばしば人力車が止まっていた。それは医者の往診の車だった。戦前のその頃、医者は往診に人力車を使うことが多かった。病状はかなり進んでいたのかもしれない。かかりつけの医者はほとんど毎日のように兄を診に来ていた。医学の格段に進歩している今なら、脳脊髄膜炎などという恐ろしい病ももしかしたら克服できたかもしれない。でも当時父と母はそのような希望より絶望のほうの気分に苦しんだのではないだろうか。

 ある日のこと、章夫兄がベッドの上から「お母さん、お母さん」と力なく母を呼んでいた。

「どうしたの、どこか苦しいの」

「明かりつけて、暗くてなにも見えないの」

 病は兄の視力を奪ったのだった。母は兄を抱きかかえ、涙をこらえて言った。

「大丈夫よ。あきお、今すぐ電気つけるからね」

 どんなに悲しかったことだろう。「脳脊髄膜炎」。医学書などを調べて後で知ったところによると、本当に恐ろしい病気。比較的若く発病し、その進行も若さゆえに早いという。事実、病状は日ごとに進行し、間もなく兄は父の必死の願いも、母の懸命の看病も空しく、天国へ旅立って行った……。

 臨終の場は今でも覚えている。ベッドの傍らにかかりつけの医者が腰掛けていた。父と母がその両脇に坐り、母は「あきおちゃん、あきおちゃん」と悲痛な声で呼びかけていた。そして泣き崩れた。私はあの時泣いたのか、泣かなかったのか覚えていない。でも父母の悲しみは子供心に感じていたような気がする。

「明かりつけて」と母に訴えた章夫兄。おそらくその後、二度と明るい日差しを見ることもなかっただろう。父母にとって頼りがいのある大事な兄だったのに。なぜあんなに早く世を去らねばならなかったのだろうか。

 葬儀の日、木枯らしの吹く寒い日だったが、家には大勢の弔問客が訪れた。その時の私の担任の先生で、以前兄の担任でもあった稲葉先生が、眼鏡の奥で眼を潤ませていた。この光景は今でもはっきりと覚えている。

「よいお子さんでしたのに」

 人々の言葉に父母はただ黙ってうなずいた。

 その晩のこと。残った弟妹達が茶の間で火鉢を囲みながらお餅を焼いていた。多分夕食代りだったのだろう。ふと父と母の姿が見えないことに気がついた私は、急に不安になって二人を探した。玄関脇の小さな部屋で、父と母は明かりもつけず、言葉もなくただ互いに肩を抱きあって泣いていた。章夫兄の死がどれほど父母にとって悲しみの深いものであったか、子供の私にもその時、ようやく幾分なりとも理解できたのだった。


 その翌年から父母は毎年子供たちを連れて避暑に行っていた。房総、鎌倉の材木座、逗子など夏休みの一ヵ月ちかく、漁師さんの一部屋を借りての自炊生活だった。朝早く浜の地引網で捕れたばかりの新鮮な魚を母はふんだんに食べさせてくれた。当時は海辺の暮らしが健康に良いというのが人々の通説だったからだろう。その後、戦争が激しくなり、避暑どころではなくなるまで、この行事は続いた。

 この避暑にはさまざまな思い出がある。ある年、鎌倉の材木座に避暑していたとき、台風が襲来した。台風の去った翌日、母と兄弟たちと近くの稲村ガ崎に行ってみた。海岸沿いの道の上から眺めたのだが、沖合から激しい波が次々と押し寄せていた。ドドーンと足元に逆巻く白波は吸い込まれるような恐ろしさ。思わず目を覆ったほどだった。逗子の海岸では徳富蘆花の有名な小説『不如帰』の記念碑が立っていて母が感慨深げに眺めていたのも思い出す。母はきっとこの小説を読んでいたのだろう。

 毎週土曜日には東京から父が来て、本や菓子など、また魚だけでは子供の発育に良くないというのだろう、肉も沢山買って来てくれた。土曜日の夕食は家族揃ってとても賑やかなひと時だった。子供たちにとっては本当に楽しかった日々。泳げない父は浅瀬で浮き袋を身につけ、ビチャビチャと子供たちと楽しそうに戯れていた。眼鏡の中でにこにこ笑っている父の顔をはっきりと覚えている。砂浜にビーチパラソルを広げて、その下で母が、父や子供たちの遊ぶ姿をしきりに眺めていた。あの大きなビーチパラソル。今でもデザインも柄も覚えている。周りにフリルのついたピンクと白の縦縞模様だった。

 その頃、我が家は平凡なサラリーマン生活。暮らしが楽だったわけではないだろう。だが父母は残る子供たちを健康に育てたい一心で、ひたすら海へ行っていたのだと思う。二度とわが子を失う悲しみは味わいたくはなかったのだろう。

 兄を失った父母にとってこの避暑には悲痛な思いが込められていたのだと、今ならよく分かる。残る子供たちを二度と失うことがないようにとの強い思いがあったのだろう。浅瀬で楽しそうに子供たちと戯れる父の表情の裏に、また浜辺でじっとビーチパラソルの下、子供たちを見つめる母の面持ちの中に、隠しきれない章夫兄への深い哀惜の思いが込められていたのだと今頃になって気づくとは、なんと思いやりの乏しくまた父母への愛情も足りなかった私だったことだろう。あのときの父母の表情は今でもはっきりと思い出せるのに。


 その後、何年かして弟が生まれた。夜中、病院から喜色満面で帰ってきた父。「男の子だったよ」と大喜びだった。たぶん章夫兄の生まれ変わりと思ったのだろう。その弟もすでにいない。

二〇〇九年四月九日 執筆


 父は、母と結婚後、男ばかり三人立て続けに生まれ、四人目にようやく女の子を授かったのだが、そのときの喜びようといったらなかったと、母は後々言っていた。その女の子が私だった。だから、私は父から貰った愛情の思い出は、本当に数え切れないほどあって、思い出すと胸が熱くなるほどだ。遠い昔のことなのだが、今でも父の優しい表情や声を昨日のことのように思い出す。

 亡き母が生前話してくれたところによると、私が産声をあげたのは東京の赤坂だそうだ。その後まもなく一家は郊外の中野に引っ越したというから、私には赤坂の記憶はまったくない。その頃、我が家は赤坂の「一ツ木通り」という通りに面していて、父は昼間会社勤め、母はそこで小さな洋品店を営んでいたという。

 中野の家の前の通りは、大人になってから行ってみると、驚くほど狭い道で、まるで路地といった感じだった。その道が表の電車通りまでまっすぐに続いていた。当時、車の行き来などほとんどなくて、その道は子供たちの格好の遊び場だった。子供たちにとって、そこは必要にして十分な広さだったのだ。

 女の子は、縄とびやおはじき、かくれんぼ、石蹴りなど、男の子はベーごま、めんこ、またはボール投げなども少し離れた所でしていたが、それこそ日の暮れるまで飽きもしないで、よく遊んだものだった。

 夕方、友達と道路で遊んでいると、電車通りの方から、父が濃いグレーのスプリングコートを着て中折れ帽をかぶり、こちらへ向かって歩いてくることが、よくあった。私はその姿を見つけると、いつも「お父さん!」と叫び、父へ向かって走り寄った。父は必ず私を抱き上げて、大きな声で「ただいま!」と、ごわごわの顔を寄せて頬擦りをしてくれた。父は溢れるほどの優しさで私を包み込んでくれた。

 そんな父だったが、世間的にはあまり世渡りの上手な人ではなく、立身出世などとはまったく無縁な人だったようだ。けれどその知識の豊富なこと、まわりから「生き字引」などと言われていた。子供たちが何を聞いても、即座に優しく丁寧に教えてくれた。私は子供心に「お父さんってなんて偉い人なんだろう」といつも思っていたものだ。

 また、父は実に人が良くて、時折、知り合いが借金の依頼に訪れて来たが、そんな時、決して断ることができず、いつも気前よく貸していた。そのくせ返金の取立ては絶対にできない人だった。母は「うちだって余計なお金なんかあるわけじゃないのに。お父さんは本当に人がいいんだから」と、よく、こぼしていた。今でもうっすらと記憶の中に浮かぶ一つの光景がある。それは父が客間で、小学生くらいの男の子を連れた中年の女の人と向かい合っている姿である。その人は泣いているようだった。夫が病気なのか、別れたのか、子供の私にもちろん理解なんかできっこないのだが、とても気の毒だという印象だった。父はそんな人を見過ごしにできない人だったのだ。人が良いだけではなく、優しい心の持ち主だった。だからいつも母に文句言われながらもお金を貸していたのだろう。

 父は平凡なサラリーマンで一生を終わったのだが、それでも東京の街中に何軒かの家作を持っていた。多分、母の才覚で手に入れたのではないかと、今では思っている。ただ父に従っていたのでは、子供たちの教育もできないとでも、母は思ったのかもしれない。ただしこれらの家は、空襲で中野の自宅以外は一軒残らず焼けてしまった。あの家が、もし戦後残っていたら、私もそれまで通っていた医学校も続けられて、その後の人生も少しは違っていたかもしれない。これは未練だが…。なるようにしかならないのが人生である。

 父は無類の子供思いだった。今でも懐かしく思い出す。

 子供の頃、私の家では毎年、房総や鎌倉、逗子などの海へ避暑に行っていた。父のようなサラリーマンでも、そんなことができるのどかな世の中だったのだろう。夏休みの間、一ヵ月ほど、海辺の小さな部屋を借りての気儘な暮らしだった。父は土曜日の午後訪れ、月曜の朝、東京へ帰るのが常だったが、いつもお土産の玩具や本、肉類などをいっぱい持ってきて、母や子供たちを喜ばせてくれた。

 父は勤めがあり、また家にはコロという犬がいたので、そんな「土帰月去」の生活をしていたのだろう。こんな家族思いの父だったが、ただ一つ欠点があった。それはお酒がとても好きだったということだ。夜遅く、まだ帰宅しない父を心配して、母はいつも私を連れて表へ探しにいった。酔ってどこかの溝にでも落ちているのではないかと、暗い夜道を探し回ったものである。父が酔顔で帰宅すると、母は怒りのあまり、すでにお米を磨いで水を張ってあった釜の中へ、一升瓶の醤油をぶちまけたこともあった。帰るまではあんなに心配していたのに、父の顔を見入ると途端に怒りを爆発させる母の気持ちが、このごろはよくわかる。

 戦争の足音は日一日と高まり、国内の政情も不安定さを増していたが、あの頃我が家はまだ幸せだった。お握りを持って一日海で遊び過ごした日々。父は泳げないので、いつも私や妹と浅瀬で浮き袋を付けてビチャビチャ遊んでいた。あのときの父の楽しそうな顔、今でも決して忘れることはできない。

 こんな平和な時も何時までも続かなかった。それ以後、日本は一目散に戦争への道を突き進んだのである。辛い日々だった。食料は不足し、空襲は相次ぎ、国民、特に都市の住民は本当に戦争の辛苦を嘗め尽くした。那須の山里へ疎開したときの、父母の苦労は並大抵のものではなかった。東京大空襲があったときは、私は下町の友達の家で翌日の試験勉強をしている最中だったが、まるで悪魔の叫びのように響き渡った空襲警報は、本当に身の毛のよだつような恐ろしさだった。幸い、その友達のお兄さんが陸軍の将校だったので、的確に避難誘導をしてくださり、紅蓮の炎の中、命だけは助かった。庭の片隅にあった小屋に、鶏の焼け爛れた姿が無残に転がっていた。一面の焼け野原に立ち尽くし、なにも考えられなかったのだが、それでも一人で、池袋の下宿先まで線路の上を歩いて帰った。那須の山の中で、東京方面の真っ赤な空を眺めながら、父母たちは私のことが心配でいても立ってもいられなかったそうだ。

 翌日、ようやく切符を手に入れ上京してきた父は、私の無事な姿をみて泣きながら抱きかかえてくれた。

 食料不足とその後も続く激しい空襲、日本はもはやアメリカに立ち向かう力もなくなった。八月十五日ポツダム宣言受諾でついに長く辛かった戦争は悪夢のように終わった。皆悲しみと虚脱感でいっぱいだった。

 戦後、ようやく平和になったと思ったのも束の間、父はその年の秋、脳溢血で倒れ、わずか三日の後亡くなってしまったのである。その頃、私は父とともに、中野の家の様子を見る為に上京していたのだが、父がいきなり倒れたとき、私は一人でどうすることもできなかった。お医者さんは疎開してしまい、薬屋さんもどこにもおらず、私はとにかく母に電報を打ったが、汽車の切符がその頃なかなか買えず、母が来たのは父が亡くなるわずか前だった。それでも長年連れ添った父の最期を、せめて短い時間でも看取ることができたのは、母にとっては幸せといえるだろう。

 母が後で言っていた。「お父さんがね、春栄にはよく看てもらったよ。春栄を頼むよと言っていたわ」と。私は父がそんなことを最期に言ったということを聞いて、もう涙が止まらなかった。私こそお父さんには小さいときから、どれほど愛してもらったことか。でも私は父に何一つ親孝行もしなかった。これから平和になって、父や母と楽しく暮らしたいと思ったのも叶わなかった。戦争中も、この戦争はきっと負けるよと言っていた父だったが、平和な世を垣間見ただけで父は逝ってしまったのだ。

 中野の家には今、甥一家が住んでいる。ただし、アパート付きのしゃれた住宅に変わり、あの古い昔の家は私の記憶の中にだけ面影を留めている。甥を訪問するということも、ほとんどなくなった。

 父が亡くなってから、母と戦後の暮らしを必死に支えてきた。結核を発病した妹と、まだ小学生だった弟をかかえ、母と励ましあいながら生きた日々に今、悔いはない。父や母に愛された記憶だけがその後、私の生きる力であった。困ったときには、いつも父に助けてもらった。その時はもうこの世にいない父だったが、いつも父が仏檀で唱えていた「南無阿弥陀仏」を私も唱える。すると父が助けてくれるような気持がして心が落ち着いた。

 私は本当に父っ子である。あり余る父の愛情で、何とか生きてきた。いつか父の許へ行った時にはまた思い切り甘えて、あの懐かしい笑顔に今度は私の頬を摺り寄せて、「お待たせ」と言いたいと思っている。

二〇〇三年三月三十日 執筆


父と戦争


 私は一九二六年(大正一五年)、東京の赤坂一ツ木通りで生まれた。今は亡き父母から聞いたことである。ここは東京の有数な繁華街だが、私はその土地についての幼時の記憶はまったくない。というのは私がまだ赤ん坊の時、父母は一家で東京郊外の中野に引越していたからだ。当時の我が家は中野駅から徒歩で十分くらいの所だったらしいが、まだ住宅も少なく駅のホームから我が家が遥かに見渡せたという。

 子供の頃の想い出で今もはっきりと残っているものといえば、近くを流れていた小川の緩やかな眺めと、友達と日の暮れるまで遊んだ原っぱの柔らかい草の手触りなどだ。兄にザリカニを取ってもらったり、赤や白の蓮華草を摘んで首飾りをつくったりした日々。本当に平和で幸せな子供時代だった。だがその後、戦争の暗い影が少しずつ忍びよってきて、やがて日本中を覆い尽すようになった。我が家も例外ではなかった。 

 戦争末期、東京は連日の米軍の空爆でほとんど壊滅状態。今でもあの頃の激動の日々が思いだされる。住宅の強制疎開も行われ、親しかった友達の家も軍の命令で跡形もなく壊された。個人の財産権などというものは、まったくの無視だったようだ。すべて戦争へと協力させられた。その分、道路を拡張して焼夷弾による延焼を防ぐ狙いだったのだろう。別れの時、友が泣いていたのが昨日のことのように思い出される。あの後、どこへ越していったのだろう。戦後一度も会うことなく、消息の一片すらもない。

 昭和十九年には学童疎開も行われ、子供たちはみな地方の安全な町や村に、先生や学友と集団疎開して行った。我が家でも小学五年生の弟がいたが、父母は末っ子のこの子を手放す気持ちになれず那須の山奥に急遽一家で疎開することになった。

 そこに有力な伝手があったわけではない。一本の細い糸のようにわずかな伝手を頼っての疎開である。那須といってもあの風光明媚な那須地方ではなく南那須の鄙びた一寒村だった。疎開当日の上野駅での雑踏の光景を私は今でも覚えている。すべて軍事物資最優先の時代、個人の荷物を輸送する手段などなく、人々はみな背負える限りの荷物を背負い、両手は言うまでもなく、小さな子供たちも背中になにか背おわされていた。中には大きな箪笥まで背負い込み、ホームの上を引きずるようにして歩いている男の人もいた。一刻もはやく戦禍から逃れるため、なんとか汽車に乗り込もうと、みな必死だった。こうしているうちにも、いつ米軍の空襲があるかもしれない緊張した状況だった。

 やっとの思いで車中の人となった私たち家族は、本当にほっとして一時に体中の力が抜け出る思いだった。すし詰めの車内は身動き一つできず、途中弟が「僕、おしっこがしたい」と言い出したが、どうにもならなかった。「もうちょっとだから我慢してね」 私は母と妹と言い聞かせ続けていたが、泣きだしそうな顔でこらえている弟が不憫で、そばで見ているのも辛かった。

  汽車には三時間ほど乗っただろうか。ようやく東北本線の一小駅に着いた。さらに山の中を歩くこと一時間近く。那須山中の鄙びた農村に疲れ切った足で辿り着いたとき、既に日は暮れかかっていた。

 低い山裾に十軒ばかりの農家が散在し、谷あいの谷津田には青い稲穂が風に揺れていた。戦火に追われて逃げまどっていた東京での暮らしでは想像も出来ない平和な農村の光景だった。だが私たちを迎えた現実はきびしかった。

 ここは当てにできるような有力な伝手があって来たわけではなかった。父母がちょっとした知人の話に飛びつき藁にもすがる思いで汽車に乗ったのである。だが、当てにしていた知人はなぜかそこにはおらず、家族は頼みの手づるを失って途方にくれた。見知らぬ土地での不安感はとても大きかった。

 低い山あいは日没も早く、向かいの山には既に薄暗い夜の帳が下り始めていた。ほかに行く当てもなく、やむを得ず私たちはその山の中腹、垂れ込めた夕闇の中にひっそりと佇んでいた観音堂にしばしの安らぎの時を求めた。幸い周囲に外縁が巡らせてあり、そこにみなで腰をおろした時、一日の疲れがどっと吹き出る思いだった。

 あの時、父母はどんなに心配したことだろうと今にして思う。ことに父は家族をまもる責任感でここまできたのだから。

 不安な一夜が明けたあと、父母は山を降り、懸命になって村の人と話し合い、なんとか雨露を凌ぐところをと努力したのだった。

 二、三日観音堂に野宿したが、村ではその間、大騒ぎになっていたらしい。あとからきいたところによると「東京からの疎開もんが観音堂にいついたらしいぞ」と口々に言い合っていたとのこと。中にはわざわざ見物に来る子供たちもいた。私はまるで浮浪者にでもなったような惨めな気持ちだった。

 だが村の人々は、一家で野宿させていただいた観音様のように、ありがたい慈悲の心で私たち家族に接してくれた。一軒の農家の物置小屋が私たちに与えられた。床は竹敷きの上に茣蓙と莚が敷いてあり周囲の壁はむき出しの土塀で、所々に開いた穴には茣蓙がかけてあった。

 寒い那須の冬は到底越せそうに無いつくりだったが、幸い冬はまだ先だった。本当にありがたかった。父母はどんなに安堵の胸を撫でおろしたことだろう。ともかく家族で雨露をしのぐ所が見つかったのだから。私も観音様のお加護を思わないわけにいかなかった。家主の人は三十代半ばの農村婦人で、夫は戦争に召集され、いまだ消息不明とのことだった。幼い女の子を抱えていた。

 いつ戦争が終わるかも皆目分からず、戦地に送られていた兄の様子も一切分からず、しかも敗戦の気配は日一日と濃くなっていった。

「とにかくここで戦争が終わるまでみんなで力を合わせて頑張ろうな」という父の言葉にみな黙って頷いた。東京に残してきた我が家もいつ灰燼に帰するかもわからなかった。此処で頑張る以外に道はなかった。

 あの時、父がその後、わずか一年ほどで急ぎこの世を去るなどとだれも想像も出来なかった。日頃、血圧が高めであったようだが、医者もいず、薬もない戦時中の、ましてや山の中での暮らしで、どのようにして対処できただろう。戦争は疑いもなく父の死期を早めた。

 父は頼りにしていた息子の戦地からの帰還も待たず、それどころか役所からの一片の紙切れ「サイパン島にて戦死」の公報に完全に打ちのめされた。父はこの公報を常に肌身離さず持ち歩き、誰彼かまわず、バス停で偶然となりに並び合わせた赤の他人にさえそれを見せては「私の息子がサイパン島で戦死しましてね」と話かけては涙ぐんだ。最愛の息子の死を誰彼となく話かけずにはいられない父であった。バス停で父と一緒に並びながら、痩せたその後姿を悲しい思いで眺めたことは、あれから六十年も経った今でもはっきりと思い出す。

 父は戦争によって、心と身体に再起不能な打撃を受け、敗戦の年の十月、五十六歳の生涯を閉じた。軍部による無謀な戦争遂行を憂いて、「この戦争はきっと負けるよ」と口に出しては母にたしなめられていた。戦時中、日本には特高という恐ろしい存在があったからである。戦争批判はタブーだった。

二〇一〇年五月二三日 執筆


再会  

     

 最近、私はある一つの再会を果たした。と言っても人との再会ではなく、五十年以上も前に私の手元を離れた一冊の古い書籍との再会である。

 一カ月ほど前、我が家の電話のベルが鳴った。たぶん年配の方と思われる一人の女性からだった。その人、Kさんは五十年もの間、私の消息を探し続けてきて、つい最近偶然の機会に昔の女学校の同窓会名簿に私の旧姓を見つけ、驚いて急ぎ電話を掛けてきたとのことだった。

 Kさんの声を聞きながら、私の脳裏に遥か昔のある農村での風景がうっすらと甦ってきた。細い記憶の糸を懸命に手繰りよせている中に、次第に鮮明になってきた過去の一時期。それはあの終戦前、二、三カ月の激動と混乱の時だった。

 米軍の空襲は激しさを極めていた。三月十日の東京大空襲の後、首都は壊滅状態に陥り、当時私が通っていた専門学校は、東京での授業を断念して、地方のある農村に学校疎開した。

 そこは一面焼け野原の東京とは違い、見たところはまだ平和な農村だった。授業の合間、草原に坐ってぼおっと空の雲などを眺めていた時など、戦争はどこか遠い所での出来事と、ふと感じた程だった。焼夷弾の降りしきるなか、炎に追われて逃げ惑った東京との落差は大きかった。実際はここでも軍隊に取られる人も多く、戦争はひとごとではなかったのであるが。

 農家の蚕室を改造した板敷きの部屋に寝起きして、私たちは熱心に勉強した。時には少ない本を貸し借りしたり、お互いの家族のことや、また未来のことを語りあったりもした。米軍の本土上陸も噂され、日本の状況はほとんど絶望的であった。果たして自分たちに約束される明るい前途があるのかどうかも不明であったが、しかしそんな時だからこそ、私たちは未来について語らずにはいられなかった。

 そして、ついに敗戦。家族の不幸、財産の焼失など、我が家の受けた戦争被害は大きく、私はやむなく学校を去った。友達とも別れ、以後今日まで会うことはなかった。今回の私への電話の主は、そのときの同室の友であった。その友、Kさんは当時私から一冊の本を借り、今でも大事に保管しているとのことであった。

 この本、倉田百三著『愛と認識との出発』が今私の手元にある。宅配便で送られてきた本は、紙はセピア色に変色し表紙は綴じ糸が千切れていたが、紛れもなくあの本であった。私は懐かしさと、ありがたさで胸が一杯になった。

 五十年という長い歳月がいっぺんに私の手元に手繰り寄せられたという思いである。昔の思い出が次々と甦ってきた。一時はもう思い出したくないとさえ感じていたあの敗戦後の苦しかった時期が、いまはなぜか懐かしく思われる。

 人間は一人で生きているのではないとつくづく思う。長い年月、私との繋がりの細い糸をしっかりと握り続けて来られたKさんに心からお礼を言いたい。五十年の時空を経て、私がこの本との再会を果たせたのは、紛れもなくKさんの善意と誠実さの賜物である。日本のこの乱れた社会に、このような人が今なお存在しているということが、私には本当に嬉しく思われる。

 いつか今度は実際にKさんとの再会を果たしたい。そしてあの苦しかった時期を乗り越えて、現在の平安があることを共に喜びたい。

二〇〇〇年三月五日 執筆


熱中症    


 まだ六、七歳の頃の思い出である。昔の記憶がどれもこれも日一日と薄らいでいる今日この頃だが、あの日目にした可哀想な一匹の馬の姿は今でも忘れられない。

 自宅前の町道を真っ直ぐ行くと、三、四分で電車通りに行き当たる。右へ曲がると三十メートルほど先に、通りに沿って天神様のお社があった。付近はお店が立ち並んでいて、けっこう賑っていた。お社の境内はさして広くはないのだが、大きな樹木が何本もこんもりと茂り、夏でもひんやりとして子供達の格好の遊び場になっていた。

 ある暑い夏の昼下がりのことである。友達と社殿の前の狛犬にまたがって遊んでいたお転婆娘の私は、ふと表の通りのただならぬ叫び声に気付いた。狛犬から飛び降りるや否や、鳥居をくぐり抜け、通りに出た

 大勢人だかりがしていた。

「水だ、水だ」と男の人の叫び声。バケツに水を汲んで今にも転びそうに走る女の人。見ると電車通りの端に一匹の馬が倒れていた。

 大きなお腹を激しく波打たせ、口から泡を噴いて、ハァ、ハァと喘いでいる。見るからに苦しそうな姿。こんなに苦しむ動物を見るのは初めてだった。

 子供のこととて、この馬がどうしてこのようになっているのかは解らなかった。でもなにか大変な事態だとは理解できた。あまりに可哀想な姿に私は泣き出してしまった。

「大丈夫、大丈夫」。泣くんじゃない」よその小父さんが私の頭を撫でてくれた。

 馬の身体に何杯もの水が掛けられた。だが馬は最期まで起き上がれなかった。

 戦前の当時、表通りにはよく荷馬車が通っていた。重い荷物を荷台に載せ、馬方にお尻を叩かれながら馬は辛抱強く足を運んでいた。

 その日、今年の夏を思わせるような、厳しい真夏の太陽が中天に輝いていた。あの馬は重い荷物と照りつける日差しに体力の限界に達してしまったのだろう。今思えば重症の熱中症に倒れたに違いない。馬は口がきけない。苦しみを訴えるすべもなく、路上に倒れたと思うと本当に哀れである。

 あとで母に尋ねた。近所の人の話では、あれから獣医師も来たが、手当ての甲斐もなくそのまま路上で息を引き取ったという。

 もう少し馬方の人が気をつけてあげたらよかったと思う。早めに水を飲ませるとか、時々木陰で休ませるとか。

 馬方自身も耐えられない暑さに、一刻も早く荷物を運びたいと焦っていたのだろう。馬方だけを責めることは出来ない。でもじりじりと太陽が照りつける電車通りの道端で、苦しみながら死んだあの馬の姿。今でも私の記憶の中に残る悲しい状景のひとつである。

二〇〇五年八月一九日 執筆


学校疎開


 
戦争末期、私の通っていた東京女子医専は東京から山梨へ学校疎開をしていた。米軍による空爆の烈しさに東京では落ち着いて勉強も出来なかったからだ。

 一方、私の父母弟妹たちは東京を離れ、南那須の一寒村へ疎開していた。その頃、学童疎開というものがあって、子供たちは親元を離れて地方の安全な村や町へ先生と一緒に移り住んでいた。だが、私の父母は末っ子で小学生の弟を一人手放すのを不憫だと思ったのだろう。一家で東京を離れて疎開した。


 私の山梨での生活は様々なことがあり今でも忘れがたい。養蚕農家の蚕室を借りて皆熱心に勉強した。戦争中のことゆえ食料も充分とは言えなかった。私はことに胃腸の具合が悪くなって中々恢復せず、良い薬もなく本当に困ったことを覚えている。

 戦況は日一日と悪化した。学友たちは、迎えに来た父上兄上たちと次々に宿舎を去って行ったが、私には誰も迎えに来なかった。

 米軍の本土攻撃も間近と噂されていた。いつ米軍の本土上陸もあるかも知れない。もしそうなれば、山梨と那須とは東京という大都市によって分断され、二度と父母弟妹に会えなくなる。生きているうちに父母たちに会いたかった。私は一人で親の元へ行こうと決心した。

 ある朝、私は一人で宿舎を出た。先生にも友達にも、誰にも告げず一人で行動した。朝靄の中、ひたすら駅への道を歩いた。今行かなければ、もう家族には会えない。そんな切羽詰った心境だった。戦後、友人に聞いた所によると、あの時、宿舎では大騒ぎとなり、私がどこかで自殺したのではないかと噂していたとのことだった。結局、私がそれ以後学舎に戻ることは叶わなかった。

 

 私は生きて一目父母に会いたいと必死で歩いていたのだ。目指す思いはただ一つ。空襲などで殺されず、生きて家族に会いたい一念だった。

 何とか汽車に乗ったが、途中米軍の烈しい攻撃に遭い、列車が止まってしまった。どこかの小さな駅のベンチで野宿した記憶がある。まだ二十歳前の若い娘だったが、それにしても今思うと無謀な行動だったと思う。

 汽車を乗り継いでようやく南那須の一駅に着いた。駅からさらに一時間近く歩き、父母の所に辿り着いた。

 

 父母弟妹に生きて会えた。


二〇一三年八月一三日 執筆

子育ての頃   


 夜、寝苦しくて、なかなか眠れなかった。枕もとの時計を見ると、深夜の二時過ぎ。眠れぬままに、ベッド脇に置いてあった小型ラジオを取り上げ、小さな音で聞き出した。

 演歌が何曲か続けて聞こえてきた。私はふだん演歌はあまり聞かない。けれど夜更けにひとりじっと耳を傾けていると、なぜかじんと心に沁みて来た。 

 聞いているうちに、そのテーマには「雨」が多いということにふと気付いた。雨に気持ちを託して、しっとりとした情感を漂わせている。日本は雨の多い国。雨は涙につながる。どこかウェットな日本人の感性には、雨の演歌はぴったりと合うのかもしれない。

「アカシアの雨が止む時」のメロディーが耳に入ってきた。ハスキーな歌声が、女の悲しみと切なさをよく表現していて、胸を打つ。 

 雨の歌を聞いているうちに、遠い過去のある光景が甦ってきた。

 昔、夫が東京本社から、九州筑豊の炭鉱事務所に転勤した。移り住んだ所は黒いボタ山が並び立つ産炭地。この特有の風土に馴染むのは大変だった。東京生まれの東京育ちで、まだ若かった私にとって、見知らぬ土地での三人の子育てには本当に苦労した。

 ある夏、連日耐えがたい猛暑が続いた。一滴の雨も降らない。空には真夏の太陽がまるで煮えたぎっているかのよう。人々も田圃の稲穂も、もうぐったりしていた。会社の給水設備は水源の川の水が枯れて断水となった。入浴はおろか炊事や子供たちの衣服の洗濯も儘ならず、もう我慢も限界だった。

 そんな状態が続いたある日の午後のこと。突然、空がぴかっと光ったと思ったら、ザザァーッと激しい雨が降ってきた。それこそ叩きつけるかのよう。空は昼とも思えぬ暗さへと一変した。

「あっ、雨、雨が降ってきた」

 私は思わず外に飛び出し、軒下に佇んで激しい雨足に見入った。辺りは一面の水浸し。道路の上を、雨水が川のように流れていた。   

 どのぐらい続いただろうか。やがて雨はぴたりと止まり、見る見るうちに、辺りはまた元の明るさを取り戻した。気温がいっぺんに下がった。何という自然の力の不思議さだろうか。

 家に入って、窓を全部開け放った。清々しい涼風が室内をさぁーっと吹き抜け、窓辺の風鈴が長い眠りから、いま目覚めたかのように、チリン、チリンと鳴り出した。あの猛暑はいったいどこに行ったのだろう。狐につままれたような気持ちだった。

 炭鉱町に降ったあの激しい雨。乾き切った大地を潤し、人や他の生き物たちの命を蘇らせてくれたあの恵みの雨。今もふと思い出す。

 その頃、娘達はまだ小学生。筑豊生まれの一人息子はとても元気な子で、社宅の裏のボタ山に子犬と一緒に登ったり降りたり。危なくて眼が離せなかった。家族で英彦山(ひこさん)・雲仙・阿蘇・島原などへも行った。そんな子供達も今はそれぞれ家庭を持ち元気で過ごしている。

 筑豊から博多へと移り住み、子育てに夢中だった十数年を過ごした九州。喜びも悲しみもこもごもだったあの懐かしい土地での思い出の数々。夜ラジオで聞く雨の演歌はそれらの光景を、しみじみと私に甦らせてくれた。

 耳を傾けているうちに、次第に心が静まり、寝苦しさも消えた。私はラジオのスイッチを切り、いつしか深い眠りに落ちていった。

二〇〇四年九月二八日 執筆

黒いシルエット


 平成十四年一月、北海道釧路市の太平洋炭鉱が八十二年の歴史に幕を閉じて閉山した。中小はまだ残っていたが、大手の中では日本で唯一最後まで残った炭鉱だった。真っ黒な炭塵を顔にこびり付けた炭鉱マン達が、地下の採炭現場から次々に昇ってくる様子をテレビで目にしたとき、私の胸には思わず熱いものが込み上げてきた。その人たちにとって最後の昇鉱だったのだろう、きっと万感胸に迫る思いがあったに違いない。九州や北海道の産炭地で長い年月を過ごしてきた私にとっても、とてもそのまま見過ごしには出来ない光景だった。

 昭和三十年初め、夫が東京本社から九州筑豊の炭鉱事務所に転勤した。関門国道トンネル開通の少し前だった。連絡船に乗り、初めて海峡を越えてかの地に足を踏み入れた時、私はまだ若く両脇には幼い二人の娘を抱えていた。東京生まれで東京育ちだった私がこの炭鉱地帯で果たしてやっていけるのか、不安感が胸をよぎった。この特有の風土に馴染めるのだろうか。自信はまったくなかった。

 だが、それから十何年も、黒いボタ山の並び立つこの炭鉱町に住み続けることになった。二人の娘たちも、其の地で生まれた息子も筑豊弁を上手に使いこなす炭鉱っ子になっていった。けれど、ここは私にとってはまさに異郷の地だった。いつまで経っても風土にも人情にも言葉にもなれることができない。社宅のそばには鉄道の線路が長く伸びており、その上に鷹羽橋という大きな鉄橋が架かっていた。夕方、暮れなずむ空に浮かぶその黒い鉄骨を眺めるたびに、私は切ないほどの望郷の思いを募らせた。この線路の先には東京があるとの思いだった。

 北九州の響灘に注ぐ遠賀川というかなり大きい川がある。かつて石炭を運ぶ川舟が行き来した川である。その支流である彦山川の近くに、私達一家が移り住んだT市があった。当時それらの川筋には大小の炭鉱がひしめいていたが、私の夫はその中の大手の一つへ職員として赴任した。

 多くの炭鉱マン達が地底で働いていた。俗に川筋気質と言われる気性は激しいが一本気で純粋な男たちだった。町にはピラミッド型のボタ山が重なり合い、炭鉱のシンボルである高い煙突が威勢良く煙を吐きだしていた。ここはかの有名な炭坑節「月が出た、出た、月が出た」の発祥の地ともいわれていた。

 その頃はまだ炭鉱の景気も悪くはなかった。企業城下町であるその土地では、社宅も、医療も、福祉や娯楽も皆会社に依存していた。息子も会社の病院で生まれ、娘たちも病気や怪我で何回そこで世話になったか知れない。風呂用の石炭は皆会社から配給され、町には会社の体育館から映画館までそろっていた。安い費用で会社任せの暮らしができた。こんなところだから若い私もなんとかやっていけたのだろう。

 だがその反面、人間関係ではかなり気をつかった。社宅街では夫の会社での位置関係が、そのまま妻たちの立場にそこはかとなく影響した。それは無いようで有るという微妙なものだったが……。

 十数年に及ぶ九州筑豊での暮らしは、まるでモザイク模様のように入り混じって、今私の脳裏に浮かび上がる。様々なことがあった。炭鉱の事故も何回もあった。 水没事故、炭塵爆発など貴重な人命も多く失い、それらの事件が発生するたびに、暗い地底に命を失った人々、かけがえのない家族をなくした人々の悲しみを思った。炭鉱の入り口で泣き崩れる女たちの嘆きの声が今でも耳に残っている。私の産炭地生活は様々な事件や事故の話で、心を痛められながらの日々だった。

 家族の歴史の中でも忘れられないことが多い。喜怒哀楽さまざまな思いに揺られながらの日々だった。夫が入院したこと、子供たちの度々の病気や怪我、十五年も飼っていた犬の死、近所付き合いが苦手で家族以外の人とあまり会話がなかった日々、母や弟妹と遠く離れた異郷の地で、頼りになる人も無く泣きたい思いで頑張ってきた。

 長男が生まれたことは、かの地での最大の喜びだった。この子は私の宝物。私は愛情の限りを注いで育てた。娘たちも年の離れた弟をまるで母親のように慈しんでくれた。私が留守の時は二人でミルクを飲ませたり、オムツを替えたり、どんなに助かったことだろう。息子は姉たちが学校に行っている時は、いつも子犬と 一緒に社宅の裏のボタ山に登ったり降りたり。元気そのものだった。

 その後、会社の全盛時代はすっかり影を失った。石炭から石油への急激なエネルギー革命は、産炭地に嵐のように襲いかかり、どの炭鉱も見る影もなく寂れてしまった。いつだったか、テレビであの懐かしい筑豊の炭鉱地帯を映していたが、町再生の切り札としてボタ山を崩して造成した工業団地も、企業誘致が思うように進まないという。思い出深いあのボタ山、息子が子犬と遊んだあの石炭ボタを積み重ねた山が、今は誘致企業も少ない造成地となってむなしく雑草を茂らせているというのは、筑豊に様々な思いを残している人間としてとても悲しいことだ。今はどうなっているのだろうか。石炭産業華やかなりし頃の繁栄は無理としても、せめて穏やかで静かな豊かさがあってほしいと思う。

 その後、私たち家族は、博多での三年余の転勤生活を経て北海道の炭鉱町に赴任した。半年は雪に覆われる氷点下の町は、すべての妥協を許さない、まさに凛冽と言う言葉が相応しい土地だった。南の国九州とは風土がまるで異なっていた。だが家族全員風邪ひとつ引かないで三年余を過ごせたのはせめての幸せだった。

 テレビによると、私たちが過ごしていたころ、大勢の人々で賑わっていたあの筑豊の炭住街は、今わずかの残った人々がひっそりと暮らしているとか…。エネルギー変革の波に襲われて閉山が相次ぎ、多くの若い炭鉱マン達が去った後、どこにも行き場のない老人たちが、ひと気の少ない炭住街を静かに行き交う風景は見ていてもとても辛い。この人達は石炭産業の全盛時代に体を張って炭鉱を支えてきた人々なのだから…。

 石炭はかって黒ダイヤとよばれていた。あの筑豊の町には、その名も「黒ダイヤ」と名づけられた美味しい和菓子があった。駅頭の土産物店にはいつもそのお菓子が綺麗な箱に入れられて売られていたが、石炭の形に似せた握りこぶし大の黒々とした羊羹だった。あっさりとした甘みで、私も東京の親や親戚に盆暮れによく送った覚えがある。炭鉱が潰れてしまった今でも、あの羊羹は残っているだろうか。

 真っ赤な夕焼け空の中に、三角形の黒いシルエットがくっきりと浮かびあがっていたあのボタ山のある風景。今後また筑豊を訪れることは多分ないだろう。でもあの町のたたずまいは、これからもいつまでも私の懐かしい記憶の中に、残るに違いない。     

二〇〇四年一二月一五日 執筆


寒さの中を生きる


 一九六九年、夫の転勤で、九州から北海道に移り住み、極寒の産炭地K町で私たち一家の生活が始まった。

 赴任の日は三月の終り頃だった。北海道空知郡のS駅で下車し、ここからK町まで約二十分、迎えの車の中から眺めた光景は忘れられない。冬の間降り積もった根雪が山肌も家々の屋根も道路も一面覆い尽くしていた。雪というより灰色の堆積物という感じだった。

 私たちが住んだ社宅の脇には、くすんだ色の沼がありどこか不気味だった。夜は薄暗い一本の電灯が上からひっそりとその沼を照らしていた。

 朝、起きると必ず台所の庇の下に吊るされてある寒暖計を見る。それはほとんど零下二十度を指していた。

 庭はとても広く、さくらんぼ、くるみ、ライラックなどの樹木が自生していて、春先には庭のあちこちに野苺、蕗の薹、ぜんまい、鈴蘭、水仙などが顔を出し、時には小さなリスが樹間を走ることもあった。庭には池があり、冬の間、氷の下に隠れていた鯉が雪解けと共に割れ目から首を覗かせて、小学三年生の息子やその友達たちを喜ばせた。寒い冬の間、池の底でじっと生きていたのだろう。

 北海道の冬の生活はたしかに厳しかった。一年の半分は雪に埋もれる。吹雪の時など一歩外に出れば吐く息も凍って苦しいくらい。廊下に干した洗濯物はこちこちに凍ってまるでするめ同然。窓の外には今まで見たこともないような巨大な氷柱がぶら下がっていた。だが家族全員冬には風邪一つ引かなかった。

 楽しいこともあった。台所には赤々と大きな石炭ストーブが燃えており、隣の居間には暖かいスチームが通っていて、ここが家族団欒の場だった。息子は裏のミニスキー場で一日中友達とスキーを楽しんだ。長女は千葉の大学に入学しており、親元には不在だったが、次女は転校した北海道立の高校で演劇部に席を置きここで良い師と友を得た。まだ若かった私は、手編みの帽子と手袋、マフラー、厚手のジャンパー、ゴム長靴といういでたちで、冬場、どこへでも出かけた。また夏には会社の婦人会の人々と十勝地方などへ旅をしたり、盆踊りでは揃いの浴衣を着て皆と輪になって踊った。寒さも慣れればさほど苦痛ではなかった。

 二年後、次女が大学進学のため上京する時、息子と二人で駅まで見送りに行った。山の斜面にへばり付くように建てられている雪にうずもれた炭鉱住宅は、それだけでこの風土に染み付いた寂しさを充分感じさせた。後に息子が私に「あの時一面灰色の山の端に妙に赤っぽい夕日が沈みかけていた」と言ったが、この言葉は、私の記憶の底にも長く残った。

 その後、夫に転勤話が出た。長女と次女はすでに大学生として千葉市内に下宿していた。夫が東京に単身赴任した後、家には小学五年生の息子と私二人きり。冬の夜など外はしんしんとして物音一つしない。音はすべて深い雪の中に吸い込まれてまったくの静寂無音の世界となる。夜、息子が隣室で眠った後は、私は寝るまでテレビを付け放しにしていた。

 夫が迎えに来て帰京の日の朝、会社の人たちに送られて駅を離れた時、万感の思いに胸が塞がれた。毎朝来る雪掻き馬車の車輪のきしむ音も、道端に転がった馬糞さえも懐かしかった。

二〇〇七年八月二五日 執筆


母と子の歌

   

 明治生まれの母は、生前歌を歌うことが好きで、家事の傍らよく口ずさんでいた。私も時折一緒に歌ったが、長い年月を経てきた今は、その歌詞やメロディーはほとんど覚えていない。けれど、その中で今でもはっきりと覚えている歌が一つある。

どうしてこの歌だけ記憶に残っているのか不思議だが、多分、歌詞とメロディーの哀切さが、私の心に深く沁み入ったのではないかと思う。それとも母が何回も、何回も歌っていたのだろうか。

 それは明治の日露戦争の時、旅順攻撃で父を失った幼い男の子が、母親に問いかける歌だった。陸軍のカーキ色の軍服を着て、町の中を行進する兵隊たちの姿に、その子は同じ軍服姿で、軍隊に召集されて行ったきり帰ってこない父の面影を、思い重ねていたのかも知れない。

 父に背負われたり、抱かれて頬擦りされたりした時の温もりを、子供心に切なく思い出したのだろうか。

 その歌の歌詞は今では多少不確かだが、おおよそ次のようなものだった。

「母ちゃんご覧よ、向こうから、父ちゃんによく似た小父さんが、たくさん、たくさん歩いてる。若しや、坊やの父ちゃんが、帰って来たのじゃあるまいか。よってば、よってば、よう、母ちゃん」

「また、母ちゃんを泣かせるの。父ちゃんはね、ようお聞き。今度の旅順の戦いに、名誉の戦死を遂げられて、今じゃ、あのような仏壇に、位牌とおなりになったのよ」

「だって座敷のお位牌は、何にも物を言わないで、坊やを抱いてもくれないの。本当坊やの父ちゃんを、連れて帰ってちょうだいな……」

続きがまだあったようだが、残念ながらはっきり覚えていない。

  この歌。とても悲しい歌だと思う。暗い仏間で抱き合って涙する若い母と幼児の姿が眼に浮かぶ。戦いで夫や父を失った母子の寂しさ、切なさが滲み出ていて、私は今でも口ずさむと、目頭が熱くなる。

 誰が作った歌かは知らない。多分、名も知らぬ女たちの中から、自然に生まれ出て、歌い継がれて来たのではないだろうか。「反戦」などと言うむずかしいスローガンがうたわれているわけではない。けれど戦争で、愛する肉親を奪われた悲しみは伝わってくる。幼な児は戦争もなにも解らない。ただ父の姿を求めて泣く。子供から父を奪ったのは、この戦争という名の暴挙に違いない。

 庶民の女たちは、ひたすら歌の中に悲しみの思いを込めて歌うほかなかったのだろうか。言論の自由も無かった時代なる故に……。

「あぁ、弟よ君を泣く 君死にたもう事なかれ 末に生まれし君なれば 親の情けはまさりしも 親は刃を握らせて 人を殺せと教えしや 人を殺して死ねよとて 二十四までを育てしや……」

 与謝野晶子が、この旅順の戦いの時に発表した詩歌である。戦争に出向く息子を見送る父母たちの胸中には言い尽くせぬ思いがあった。生きて帰ってと、どれほど願ったか知れない。だがそれを言葉にすることはできなかった。まなこの中にキラリと光るものを、ひたすら押し隠して息子を送った。与謝野晶子のこの詩歌はそんな親たちの思いをはっきりと表現している。これが親の気持ちである。

 第一回旅順総攻撃があったのは一九〇四年。おおよそ百年経った。だが、その百年間は決して平和だけの時代ではなかった。日露戦争のあと、日中戦争、太平洋戦争と続いた。野や山に夥しい男たちの血が流れ、多くの女たちの悲しみの声が地にあふれた。

 旅順攻撃の際には、日本軍に四万人の死者が出たという。その数の多さに私は本当に驚いた。母親を泣かせたこの子も、こうした死者の残した子なのだろう。

 今、窓外の林で秋の虫たちがしきりに鳴いている。可憐な声だ。ふと夏の蝉時雨を思い出した。太平洋戦争の終結を知ったのもやはり熱い八月の昼、蝉時雨の中だった。

二〇〇四年一一月五日 執筆


海風に吹かれて


 先日、新聞の投稿欄に埼玉県在住の若い一女性の書いた文章を見た。生後四ヵ月の赤ちゃんを育てているというその人は、日ごろ子供をおんぶして散歩しているという。子供も喜ぶし、自分にも良い運動になり一石二鳥と言っていた。この文は私に、はるか昔のある光景を懐かしく思い出させてくれた。

 おんぶと言えば、近頃町で赤ちゃんを背負っている若い母親をあまり見かけない。子供の数が減っている上に、車の普及やベビーカーの使用などでおんぶなどという格好の悪いことは今の人はあまりしないのだろう。

 私は子育ての頃はいつもおんぶだった。買い物中はもちろん、洗濯中も掃除中も、私の背中にはいつも子供がいた。心配性の私はいっときも子供から目が離せなかったのだ。おんぶしていれば安心だった。子供もまた私の背中がどこよりも居心地が良い所だったようだ。「あなたの背中にはいつも子供さんのいないことがありませんね」と同じ社宅の人に言われたことがある。

 四十年近く前、私の一家は九州博多に住んでいた。夫が勤める会社の社宅だったその家は、博多湾から近く、海に出れば能(の)古島(このしま)がすぐ眼の前に浮かんでいた。作家の檀一雄が晩年二年ほど住んだという島である。

 その頃は三人の子育ての最中だった。春先になり陽気が暖かくなると、ほとんど毎晩、夕食後に末の息子を手でおんぶして散歩に出かけた。まだ三歳くらいと幼かった息子は、この散歩が何より好きだった。背中の息子を後手で支え、二人とりとめのないおしゃべりをしながら、海とは反対側の電車通りまでゆっくりと歩く。八分くらいの道のりだった。

 今は地下鉄になっていると思うが、その頃は昔懐かしい路面電車が走っていた。乗り物の絵本を見るのが大好きだった息子。何冊か汽車や、電車や、飛行機、また赤い消防車などの絵本を買って与えたものだ。

 息子と二人、歩道に佇んで右や左からつぎつぎと走ってくる電車を飽くことなく眺める。三十分もして、「もう帰ろうね」といっても「もっと、もっと」とせがむ。心ゆくまで電車を見ると、ようやく帰途についた。

 途中、住宅街への曲がり角に一軒の駄菓子屋があった。ここで息子は必ず身を乗り出して「ぎゅうにゅう、ぎゅうにゅう」と店の中を指差した。店番のおばあさんが、「この子は本当に牛乳の好きな子だね」と笑いながら瓶入りを一本渡す。その頃、牛乳は瓶に入っていた。

 息子は受け取るやいなや、それこそ一気飲みでゴクッ、ゴクッとあっという間に飲み干した。そして心底満足といった様子。「なんて飲みっぷりがいいんだろうね。この子はきっと大きくなるよ」おばあさんも小さなお得意さんに上機嫌である。「バイ、バイ、お休み坊や」の声に送られて家路につく。海からの涼しい夜風に優しく頬を撫でられながら。

 往きは元気におしゃべりしていた息子は、家に帰り着く頃には、私の背中にぴったりと顔を寄せてすっかり寝入っている。電車も沢山見たし、好きな牛乳もいっぱい飲んだし、母の背に揺られ、少し塩気を含んではいるが優しい海風に触れて十分に心満たされたのだろう。肩越しに見る幼い寝顔は本当に無心そのものだった。

 家では当時十歳と十二歳くらいだった二人の娘たちが布団を敷いて待っていてくれた。そこへ息子をそっとおろす。それきり朝までぐっすりと寝込んでしまう。この夕食後の散歩は、息子にとって眠りにつく前の心地よくまた大切なひと時になっていた。私と息子との貴重な心と身体の触れ合いの時でもあった。

 年の離れた弟を、二人の姉たちはとても可愛がった。息子がまだ赤ちゃんのころ、私が時折少し離れた街、おもに小倉だったが、そこへ買い物に行ったときなど、二人でミルクを飲ませたり、おむつを換えたり、お昼寝させたり、みな手際よくやってくれた。私は安心して用を済ますことが出来た。母親代わりも板についた二人だった。今でも息子が姉たちに一目置いているのは、年が離れているだけでなく、どこか心の深い奥底に、幼時のこの感触が残っているからだろう。

 色々あった博多時代のこと、今もあの美しい海や街の風景とともに懐かしく思い出す。あの駄菓子屋はもうないことだろう。路面電車も姿を消してしまっただろう。だが息子や二人の娘たちとの思い出は消えることはなく、今も私の心の中にありありと残っている。

二〇〇六年九月二十一日 執筆 


「紫」への思い  

                         

 玄関を出入りするたびに、ドアの脇に置いてあるプランターを眺める。二十日ほど前、桔梗の根茎を十五株植えた。いつ芽が出るか、毎日屈みこんでは眺めていたが、なかなか出て来ない。十日程経った頃、ようやくほんの三、四ミリの可憐な新芽が土の中から顔をのぞかせた。

  小さくて、か弱げな姿。大きく育つだろうか。でも植物の生命力はたいしたもの、心配をよそに今では十五株がみな暖かい春の陽ざしをいっぱいに浴びて、すくすくと成長している。六、七月には美しい紫や白の花を咲かせてくれることだろう。

 私は色では「紫」が好きだ。静かで落ち着いた雰囲気、しかも気品がある。昔から貴人の服装に多く用いられたようだ。

 先日、奈良県飛鳥村の高松塚古墳の様子をテレビで見た。中の壁画の傷みが激しく、その保存方法が問題になっている。石室の壁には四人の女性像が描かれているが、その一番奥の女性の服の色が長年分からなかったそうだ。最近科学の力で紫色と判明したという。

 本によれば、古代から紫色は紫草という植物の根から採るとのこと。現代の科学染料とは違う美しい自然そのものの色だ。草地に自生しているそうだが、今はかなり少なく採集には苦労するらしい。根が紫色でそれを乾燥し煮出して布地を染める。

 先日やはりテレビで見たのだが、著名な染色家がこの色の再現に努力していた。かなりの年配の人で、その上病持ちとのこと。しかし病身に鞭打ち二人の息子さんの協力を得て、その採集から染め出しまでこの古代紫の再現に命を賭けている様子だった。時々身体を横にして休みながらの作業だった。なんとしてもあの色を出したいという芸術家の執念のようなものを感じて感動した。

 ようやく抽出された紫色の液の中に、真っ白な布を浸す。何回も煮出し美しい古代色に染め上げられた布が、釜の中から姿を現す。染め上がった布は淡く気品のある紫色。この布であの古墳の壁画に描かれた中国風の古代女性の上着が作られた。老染色家はさぞ満足したことだろう。

 天智、天武両天皇に愛された宮廷歌人、額田女王は“紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)”とうたわれた才色兼備の女性だった。才媛、額田女王の身に纏う衣装こそ紫が相応しいと私には思える。その美しい姿が、今でも目に浮かぶようだ。

 我が家の庭には、今、「都忘れ」がひっそりと咲いている。何年か前に植えたものだが、毎年顔を出す。四、五十センチほどに伸びた茎の先に咲く可憐な花。これも美しい紫色である。

「都忘れ」とはどこか寂しげな名前だが、この花の命名にはなにか由来があるのだろうか。この命名の謂れを語る説話を最近本で知った。

「承久の乱に敗れて佐渡に遠流になった順徳帝が、草ぼうぼうの庭に一茎の野菊が紫色に咲いているのを見つけ、『紫といえば京都を代表する美しい色だったが、私はすべてを諦めている。花よ、いつまでも私のそばに咲いておくれ。都のことを忘れられるかも知れない。お前の名を今日から都忘れと呼ぶことにしよう』と傷心の慰めにした」という話である。

 戦に敗れ佐渡の配所に流された帝が、一茎の都忘れに心を癒される。哀れの思いをそそられずにはいない話である。都忘れの名前は、やはりここから来たのだろうか。順徳帝は配流された佐渡で二十年余りを過ごされ、ついに其の地で崩御されたという。かの都忘れは、毎年春ともなれば可憐な紫色の花を咲かせて、帝の寂寥を少しでも癒すことが出来ただろうか。

 桔梗も都忘れも古くからの日本の花。赤や黄、ピンクなど洋花の明るさ、華やかさは無いが、静かで楚楚としたたたずまい、その控えめな美しさに私は惹かれる。

 私は紫の色が大層好きだが、自分の衣服にこの色のものはほとんどない。紫という気品のある色の衣服を着こなす自信はまったくないからだ。唯一の例外は数年前に編んだ鉤針編みの毛糸のベストである。これは今でも大切に着用している。

 「紫」に思いを馳せているうちにふとある光景が私の脳裏に浮かんで来た。昔、まだ若かった頃、母が紫色の銘仙の着物を作ってくれた。            

 母は私の結婚を大層心配してくれた。終戦直後父が脳出血で急死し、間もなく妹が結核で入院した時、弟はまだ小学校五年生だった。学業を中途で止め、米軍で英文タイピストとして働いていた私の将来に対して、母は責任を感じていたのかも知れない。とにかく幸せな結婚をさせたいと懸命だった。そのお見合いの時着たのが、あの、母が作ってくれた紫色の矢絣模様の着物である。見合い写真が残っている。カラーではないが矢絣模様ははっきりと映っている。両手を膝の上に重ね、着慣れない格好の和服姿でかしこまっている若い日の私。懐かしい思い出の一齣だ。

 近頃、身内、友人などの訃報を聞くことが多くなった。この歳になれば致し方のないことだ。時に話題に上るのが、死出の衣装のことである。私は昔ながらの白装束は着たくない。今、手元に一枚の黒のロングスカートがある。この上に紫色のブラウスを着よう。なんと美しい死出の衣装ではないか。紫好きの私にぴったりだ。

 夫との最初の出会いとなった記念すべきあのお見合いの日、母が着せてくれた紫の矢絣の着物に替えて、今度は私の人生最期となる日、このブラウスとスカート姿で母の許に行きたい。

 再会の時、母はなんと言うだろうか。
「はるえさん。あなた、紫がけっこう似合うじゃない」

 笑顔で言ってくれるだろうか。私の幸せな結婚を願って努力してくれた母。父亡き後、苦労をし続けて亡くなった母。そんな母に私は生前一度も面と向かって「ありがとう」と言った覚えがない。今度、母と再会した時、母にどんな言葉をかけたらよいだろうか。もう時間は残り少ない。

二〇〇六年八月一九日 執筆


残照 

                 

 私の部屋は二階六畳間で、西北に向いている。日当たりはあまり良くない。前は幅六メートルの道路を隔てて一面の杉林、大きな立木が生い茂っていて、昼でも暗い感じだ。夜、雨戸を閉める時、前を眺めると、それこそ一点のあかりも見えず真の暗闇である。この林の奥行はどの位か、立木の切れた先はどうなっているのか。足を踏み入れる気にもなれないので確かめたことはない。

 ここに越してきた当時、私は夜この暗い闇を眺めるのが不気味で嫌だった。でも今は違う。もし前がネオンの街だったらどうだろう。その明るさよりも何も見えない漆黒の闇のほうが私には好ましい。気分が落ち着く。秋、暗い樹間にひそやかに鳴く虫の声などを聞けば、その気持ちはいっそう深まる。

 今年は梅雨明けが遅く、八月に入ってようやく夏らしくなった。これから夏本番になるのだろう。蝉時雨も近頃頻りに耳に響く。

 半月ほど前のことである。その日夕方、何気なく前の林を見た。いつもは暗い木立の奥がその時、息を呑むような茜色に輝いていた。これは幻影ではないか。一瞬思った。何本もの杉木立がまるで黒い影絵のように、光の屏風の前に浮き上がっている。実際に確かめたわけではないが、林の向こうは多分畑にでもなっていて、夕日がその平地を貫き一直線にこの林を照らしていたのだろう。

 残照が、しばらく空一面に静かに照り映えていたが、やがて林は再び夜の闇に包まれ、何本もの黒い立木の影もその中に姿を消した。

 その夜、私は三十数年前に亡くなった母のことを思わずにはいられなかった。あの美しい残照に母の最期の姿が、重なり合って見えたからである。その時、母は七十二歳。認知症の症状が進み、実の娘である私のことも見分けが付かなくなっていた。

 「あんた、だれ」。 不審そうに呟いた母。次第に意識が混濁し、母の命はもう幾ばくもないと思われた。だが、そんなある日、母は突然「あんた、はるえさん」と、はっきりと言った。母は私の手をとって「はるえさん、はるえさんなのね」と泣きじゃくった。暑い夏の日の昼下がり、蝉の声だけが響いていた。 .

 母の意識が戻ったのだ。私をわが娘と再び理解した母。胸が一杯になった。それは母の失われゆく生命に灯った最期のあかりだったに違いない。だが、日没後の残照が次第に消えて行ったように、母の命のあかりもその後、少しずつ衰え、一週間後、終に息絶えた。 

 その後半月余り、時折前の林を見るが、あのような鮮やかな真紅の夕日はまだ見ていない。やはり長く続いた梅雨の曇り空が、太陽の照射を妨げていたのかもしれない。あれはやはり幻影ではなく、束の間の梅雨の晴れ間に現れたいっときの現象だったのだろう。

 あの時、暮れ行く空に美しく、静かに照り映えていた残照。私は眺めながら、この自然の織りなす大きな光景に、深く心を動かされた。とても厳かで神秘的でもあったあの残照。それは今でも私の脳裏にはっきりと刻みこまれていて消え去ることがない。

二〇〇六年九月二五日 執筆


青山霊園に祖父母の墓を訪ねる


 連休直前の五月一日、妹と、妹の娘、私の三人で青山霊園を訪れた。広い墓地内は目の覚めるような美しい新緑で満ち溢れ、中の通路を爽やかな風が吹き抜けて、なんともいえず清々しい気分だった。

 ここには私の実家の父方の祖父母が眠っている。実家の菩提寺は別にあり、先祖の霊は皆そこの墓地に葬られているのだが、この祖父母だけは、ここ青山霊園に祀られている。どうして二人だけ別の場所なのだろうか。私は一抹の疑問を抱いたが、もはや父母も、妹以外の兄弟も居ない今、詳しい事情を知る人もない。

 子供の頃、父と母に連れられ、兄弟たちと一度ここを訪れた覚えがある。七十年も前のことなので、はっきりとした記憶はないのだが、ただ、特有な墓石の形と、まわりに雑草が一面生い茂っていたことと、その草を抜く時、蚊の大群に襲われて難儀したということは不思議にはっきりと覚えている。

 この墓に参ったのは少なくとも私の記憶ではこの時しかない。というのも、その後日本は先の見えない暗い戦争に突入してしまい、父母も菩提寺の寺に参るだけで精いっぱいで、ここ青山霊園にまで参る余裕はなかったのだろう。事実父はその後、十年足らずで母や子供たちを残し、一人死出の旅路へと急いでしまったのだ。また私自身も結婚後、夫の仕事の関係で九州や北海道を二十年近くも経巡(へめぐ)り心ならずも墓参は出来なかった。

 墓石の形と場所の見当だけを頼りに園内を探したが、なかなか見つからなかった。無縁墓として処理されてしまったのだろうか。霊園の事務所の人に聞いてようやくその墓を見つけた。「ありますよ」と告げられたときは心底ほっとした。

 それは広い霊園の一角に立っていた。今、何十年ぶりにまみえた祖父母の墓。感無量とはこんな気持ちだろうか。昔、草ぼうぼうだった墓域は綺麗に掃き清められていた。実は実家を継いだ甥が管理してくれていたのだ。

 その墓は頂が三角形に作られてあり、石造りの板碑だった。やはり思っていた通りの形。子供の時の記憶は確かだった。

 前面に祖父の生前の名前が端正な字体で彫られていた。「○○○○の墓」と。だが、戒名はまったく彫られてない。現世の名前のみである。

 裏面には祖父の生きた足跡が綴られている。明治の頃、和歌を教えていたという祖母の美しい文と筆跡で……。妹がその上に紙をひろげ、クレパスでなぞって拓本を取ろうとしたが、長い年月、雨風に晒されてきた文字は、多くが磨り減っていてはっきりとは読み取れなかった。だが、少しずつ読み進んでいくうちに祖父の生涯がおぼろげながら浮かび上がってきた。それは生前の父母から聞いていたものとあまり違わなかったが。でも詳しいことが判らなかったのは、残念だった。

 祖父は維新まで西国、某大名の江戸詰めの家臣だった。その後、たぶん長崎に留学したのだろう。蘭仏学、数学さらに新しい印刷技術を学んだという。その後、国の軍関係の学校で数学の教官をしていた。印刷事業も始めたようだが、少し世の中の進歩より早すぎたのだろう。うまくいかなかったらしい。やはり「士族の商法」というのだろうか。

 板碑の文面の終わりに祖母の和歌が一首彫られてあった。亡き夫の墓誌に祖母はどのような歌を残したのだろうか。是非読みたかったが、やはりかすれていてはっきりとは読み取れなかった。だが最後に書かれた祖母の名前と「明治二十八年八月建立」の文字ははっきりしていた。

 明治二十八年とはいまから百十年も昔である。祖父は明治の世を真摯に生き、そして多分この年そのあまり長くはない一生を終えたのだろう。祖母はおそらく祖父の遺志によってここ青山にこのような墓を立てたのだと思う。

 祖父の死んだとき私の父はまだ十歳にも満たない子供だったという。だが、祖母はその後、和歌の教師として生き抜き、三人の男の子を育てた。祖母の没年は不明だが、今は祖父と二人、この美しい霊園で永遠の眠りについている。

 地下鉄「乃木坂」で妹たちと別れてから、私はまた先の疑問に取り付かれた。「祖父はどうして実家の菩提寺の墓に入らず、戒名も貰わず、ここ青山霊園に祖母と二人だけで鎮まっているのだろうか」という思いである。私だけの勝手な考え方かもしれないが、祖父は既成の宗教になにか飽き足らないものを感じていたのだろうか。新しい学問を学び、進歩的な考え方の持ち主であったらしい祖父は、お坊さんから戒名を戴き、お経を上げてもらい、先祖代々の墓に納まるという葬られ方は、なにか違和感を覚えて受けいれられなかったのかも知れない。それともほかに別の理由があったのだろうか。

 祖父は孤高の人であったように思える。青山霊園の一隅に、百年を経て今も超然として立つその墓を見ると、死して後も生前の生き方を貫いた人という思いがする。そして和歌の先生をして生活を支えながら、三人の息子を育て上げた祖母に頭が下がる。

二〇〇六年五月十二日 執筆


数字と向き合った日々  


 夫の転勤で二十年近く九州や北海道と炭鉱町を巡り、漸く東京本社に戻った時、私は五十歳に間もなく手が届く年齢になっていた。

 社宅から社宅へと何回もの引越し、子供たちの受験、夫の単身赴任など、本当にあっという間に過ぎた日々だった。東京を出る時、まだ幼稚園年少組と、二歳をちょっと過ぎたばかりだった娘たちは、すでに大学生となり千葉市内に下宿していた。九州で生まれた末っ子の一人息子も、もう中学生だった。 

 帰京後、家族がそろって住み始めた社宅はマンションの三階で、それまでの田舎町では見たこともなかった文化的な施設が整っていた。最初、瞬間湯沸かし器の操作がわからず慌てたり、近くの大きなスーパーに始めて買い物に行った時には、品物の豊富さに驚いたりした。毎日の生活が格段に便利になって来て、どうやら、快適な都会生活が送れそうな予感もして来た。

 だが、そんな街での暮らしにもだんだん慣れて来た頃、私の胸の中には、小さな空洞がぽっかり開いてきた。家族がみな会社や学校に出た後、私はいつも一人。もともと人付き合いは苦手だったが、あまりに社会との接点の無い生活、コンクリートの壁に囲まれた生活に、私はなにか空しさを感じずにはいられなかった。今のように公民館などでいろいろの講座などがある時代でもなかった。胸の中に次第に大きくなっていく空洞を埋めることが出来なかった。今から思えばたいした悩みでも無かったと言えるが、当時は真剣に悩んでいた。

 おおげさに言えば、ただ自分が生きる意味を掴みたかったということだったろう。このまま一生を終わるのだろうかという漠然とした不安感にも襲われた。

 幸い子供たちは大きくなり私の手を離れていた。田舎の社宅街での人間関係の煩わしさからも解放されていた。私は一度働きに出てみようと決心した。

 結婚後は全くの専業主婦で、しかも五十歳近い自分がいきなり職を見つけることは、至難の業と覚悟して仕事を探し始めた。私は九州時代、子育ての傍ら一年間通信教育で勉強し、複式簿記二級の資格を取っていた。しかし、夫の転勤による慣れない土地での生活が続き、なかなかそれを生かすことはできなかった。

 帰京してはじめて、就職活動を始めた時、こんなに早く職が見つかるとは思っていなかったが、暫くしてある中小企業の経理係として職を得ることが出来た。雇用情勢が良い時代だったのも幸いだった。

 私は熱心に仕事に励んだ。だんだん面白くなってきて、毎日出勤するのが楽しくなってきた。朝、急いで家事を片付け電車に飛び乗った。娘時代以来久しぶりの通勤生活。混んだ車内も新鮮な刺激と受け取れた。

 複式簿記の仕事は私に向いていた。学校時代から数学が好きな学科だったからか、事務机に向かって計算機片手に数字を扱うことがなんら苦にはならなかった。帳簿付けなど面倒と嫌う人が多いと思うが、私はそれが楽しかった。少し変わった人間だったのだろう。

 どうしてこんなに複式簿記が好きだったのだろうか。今、思うと、それは複式簿記の「均衡の美」に強く惹かれていたからだと思う。この均衡の美とは、帳簿とか表の、左と右の金額がぴたっと一致して美しい平均を保つことをいう。何百万と、どんなに大きな数字でもどこかでたった一円でもミスがあれば、其の均衡はすぐさま失われる。会計帳簿の左と右、つまり借方と貸方の数値の正確な一致が絶対の条件である。もし合わないときは、どこかに間違いがある証拠と私は懸命に原因を探した。帳簿の隅から隅まで調べる。面倒な仕事だったが、嫌だとは少しも思わなかった。不一致の原因が分かって、左右ぴたりと一致し、帳簿や表が美しい均衡を再び取り戻した時は、満足感でいっぱいだった。そのために、記帳、計算、転記などに常に細心の注意が必要だと毎日肝に銘じて仕事をした。経理の仕事には一円のミスも許されないと、かつて上司に言われたこともある。

 この仕事は天性私に向いていると思った。そういえば、女学校時代、数学、特に幾何が好きだったことも、これと合い通じているように思う。簿記で均衡の美を追求することも、幾何で正確な「証明」を考えることも、私にとっては同じことだった。何れもきちんとした結果を出すことが必要だったからである。またそれが出たときの喜びも同じだった。

 今でも学校で幾何という科目があるのか、私は知らない。でも戦時中、私はH先生という背の高い男性教師にそれを教わった。勤労動員の合間の短い時間だったが、まるでパズルでも解くように、幾何のさまざまな問題の証明を考えるのはとても楽しかった。戦後何年か経ってクラス会が開かれ、先生の元気な姿に再会できた時は嬉しかった。先生が兵隊に取られたという噂があったからである。今でもそのときの写真が残っている。若かりし時の私自身の面影も一緒に。

 夫の仕事の関係で埼玉に引っ越すまで、この職場で足掛け五年近く働いた。その間、さまざまな人生勉強も経験した。お金を得ることの大変さ、男性社員が家族のためにどれほど苦労して働いているか、上司や同僚との人間関係の難しさなどなど。でも仲の良い友人と出会えた。それらの人々は今、どうしているだろうか。

 長いようで、短くもあったこれらの日々。充実してはいたが、さまざまな苦労もあった。そんな時職場の自席の前に坐るとまた元気が出た。そういえばあの席は上司の謹厳課長のまん前だった。

 あれから二十数年の月日が過ぎ去った。好きな数字と向き合った日々の思い出は、多くがすでに遠い霧の中に、うっすらとその姿を残すのみになった。今では一場の夢といった思いもする今日この頃である。          

二〇〇六年二月一八日 執筆


ある出会い  

        

  国道沿いの道を一人で歩いていた。九月初めのある昼下がり、まだ残暑がきびしかった。

 ふと前方に、見慣れぬ男性が歩道の端に立ち止まって、じっと向かい側を眺めているのに気がついた。歩道の脇は一面の林、樹木がうっそうと茂っている。雑草が道の中ほどまで伸びていて、道幅を狭めていた。道幅は元の半分以下になっていた。

 私は、立ち止まっている男性のすぐ脇を通り抜けようとした。その先の図書館分室に用があったからである。肩すれすれになったので、「失礼します」と一言、声をかけた。その時男性は顔をこちらに向けて、私をじっと見詰めた。野球帽を目深に被り、人相は定かではない。たしか黒いシャツに黒っぽいズボン姿だったような記憶がある。年のころ二十代中頃の若い男だった。

 男性が眺めていたのは、国道の向かい側に最近建ったばかりの、大きくて立派な建物だった。最初ホテルでも建つのかと思ったが、完成後の看板によれば、それは介護老人保健施設の専用リハビリケアセンターだった。青年はいきなり私に話しかけてきた。

「あんな所で働けたらいいのにな」

 黙って通り過ぎれば良かったのだが、私はつい相手になった。

「あぁ、こういう所で働きたいんだったら、ヘルパーさんの資格を取ったらいいんじゃないの。今はあちこちにヘルパー養成講座があるから、一生懸命勉強して資格を取れば、働けると思うけど」

「うん、だけど俺、年寄りの世話はあんまり好きじゃない」

 これでは話が噛み合わない。仕方がないと私は再び歩を速めた。するとその青年が更に追いかけるように言った。切羽詰った感じだった。

「俺、今日たった今、クビを切られたんだ。A町からここまで歩いて来たんだ」

 私は驚いた。A町といえばJRのB駅の近く、ここまで来るにはモノレールを四駅乗り、さらにバスで十五分以上。とても私のような年輩者に歩ける距離ではない。さぞ疲れたことだろう。でもさすが若い男と感心した。

「俺、今朝からメシ食ってないんだ。田舎へ帰りたいけど汽車賃が無い。七千円かかるんだ。おばさん、金、持ってないか。持っていたら俺にくれないか。五百円でも、千円でもいい。腹ペコなんだ」

 この言葉を聞いて、瞬間私の脳裏にひらめいたのは、(これは危ない)という気持ちだった。初対面の人にいきなり「金、くれ」とは。ちょっと普通ではない。この男とは一刻も早く離れなければ。この辺りの国道は、車は通るが歩道に人影は少ない。その時も近くには人一人いなかった。うっかり気は許せないと内心思った。

 ついこの間も、団地の回覧板に、最近この近くではひったくりが多いので、とくに高齢者は注意するようにとあった。この青年を前にして、私は心の中で身構えた。だが、私は一方では「人間の本性は善である。根っからの悪人はいない」と言う古人の説を信じている。私はこの青年をいきなり悪い人と決め付けたくはなかった。千円、せめて五百円でもこの男性に渡そうと思った。そのお金で一時的にでも空腹をみたせればそれでよいのではないか。そうすれば、ほんのささやかなことでも、私の気持ちには平安がもたらされる。

 私はその青年に五百円渡そうと思った。だが、瞬間、あることにハッと気付いた。あいにくと言おうか、その時財布の中にはいつもより少し余分にお金が入っていた。その後買い物の予定があったからである。小銭入れは持っていなかった。

 財布をあけた時、この青年の眼には、いやでもこのお金が眼に入る。その日リストラされて切羽詰っていたこの人は、それを見て瞬間何を考えるだろうか。人間とは弱いもの。若しかしたら、ふと悪い心の誘惑に駆られないとも限らない。悪くすれば、私はコンクリートの歩道に倒され、財布を奪われるということにもなりかねない。恐ろしい場面が頭に浮かんでぞっとした。  

「悪いけど私ね。今図書館に返本に行くところなの。それでね、お金持ってないの」

 私はとっさに嘘をついた。あの青年をだました。わが身を守ろうとする本能が瞬間働いたのかも知れない。

「そうか、本を返しに行くのか。ふーん」

 青年は、本で膨らんでいる手提げ袋をちらと眺めた。本当に本を返しに行くと、納得したのだろうか。

「この先少し行くと交番があるから、そこで訳を話したら、お巡りさんがパン代くらい貸してくれるかも知れないわ」

「交番はちょっと苦手なんだ。別に悪いことしてるわけじゃ無いけどね」

 程なく図書館分室の所まで来た。国道の反対側である。青年が再び話しかけてきた。

「あのね。この近くにお寺は無いかね。お坊さんなら貸してくれるかもしれない」

 この言葉を聞いたとき、私ははっきりとこの人は悪い人ではない、本当にリストラされて困っているのだと思った。もし悪い人ならば、お寺に行ってお坊さんにすがろうなどという発想は浮かばないのではないだろうか。

「あぁ、その四つ角に、どこかのお寺の名前と道案内が出ているから、行ってみたら」

信号が青になったので、「じゃぁ、ここで」と別れた。わざとらしいとは思ったが、ひとこと言った。

「頑張ってね。またきっと良いことがあるから」。 

 青年は四つ角の方へ足早に歩いて行った。後ろ姿を見送りながら思った。どうか、お坊さんが仏の慈悲の心で、この青年に「一椀の粥」でも与えてくれないだろうかと。職を失って失意のあの青年に、少しでも人の心の温もりを感じさせてあげたかった。

 二、三日まえ、娘が遊びに来た時、この話をした。

「お母さん、オレオレ詐欺なんかもあるし、年寄りは狙われやすいんだから、よっぽど気をつけてね。だれも歩かない道など、絶対に通っては駄目よ」と真剣に注意された。

 確かに娘の言うとおりの怖い世の中。注意は十分にしなければと思う。やはり、あの時、お金を渡さなかったのは正しかったのかもしれない。けれどあの青年を信じて渡したほうがよかったとも思われる。どちらが良かったのか、私はいまだに分からない。過ぎてしまったことなのに、十日以上経った今でも、時々考え込んでしまう。

 都会で、一人まじめに働いている若者にも、リストラの波は容赦なく襲う。あの、どこか人のよさそうにも見えた青年は、今、何処でどうして暮らしの糧を得ているだろうか。

 たった五、六分話しただけの行きずりの青年だが、また良い職について元気に働いて欲しいと願っている。

二〇〇三年秋 執筆

 

お地蔵様  

          

 十年も前のことだが、埼玉県の朝霞市に住んでいた頃、週一度木彫り教室に行く時、必ず通る川沿いの小道があった。

 その川はそれほど川幅は広くはなかったが、水量は豊富で、周囲の豊かな自然との調和が美しかった。

 私はこの道を通るのが好きで、静かに流れる川面を眺めたり、時々ザザッと泡立つ水音や、木々のざわめきに耳を傾けながら、ゆっくりと歩いた。おかげで、木彫り教室にはたびたび遅刻したが……。

 途中川を渡ると、橋の際に小さなお地蔵様が立っておられるのが目に付いた。未だ建って間がないらしい様子だった。最初のうちは露頭のままで雨風に晒されていたが、いつの間にか、こぢんまりとしたお堂が出来てその中に鎮座されるようになった。

 どうしてこの様なところにお地蔵様がいらっしゃるのだろう。私は歩きながら思いをめぐらした。もしかしたら、その辺りの川に落ちて子供が死んだのか、また、案外車も通るので、ここで交通事故死で亡くなったのか、親がその供養の為に建てたのかもしれない。

 木彫り教室への行き帰りには、いつもその前を通ったが、新しい花や、線香、供物が絶えることがなかった。私もここを通る時は必ず立ち止まって手を合わせた。なにか素通りできない感じだった。そしてその度に思うことは、人は死んだら魂はどうなるのだろうかという事だった。 

 人間は死ねば肉体とともに全て無に帰するのだろうか。それとも死と同時に魂は肉体から抜け出て、どこか宇宙をさまようのだろうか。若しかしたら遥か遠い宇宙などではなく、心を残してきたこの世の生者の近くにいて、その生者を守っているのかも知れない。

 私はこのお地蔵様の前を通るときは、ここで命を落としたかも知れない子供の魂の在りかや、その親の嘆きなどを思いながら、木彫り教室への道を歩くのが常だった。途中、美しい生垣のある広い霊園を過ぎると、その先が教室のある公民館だった。

 教室に入ると、既に何人かの人が一心に彫刻刀を動かしていた。その頃私は大きな額を彫っていた。花と戯れる一人の少女の姿が、まるで生きているように厚い板の中から浮かび上がって来て私に話しかける。この少女を美しく可愛く彫り上げたいとの思いでいっぱいだった。

 人の表情を彫る時、私はいつも誰か実在の人の面影を心に思い浮かべる。そのほうがイメージがはっきりして彫りやすいから。だがこの時、私の分身とも言える板上の少女の顔は実在の人ではなく、あの、私が教室への行きかえりに手を合わせたお地蔵様とそっくりだった。私は知らず知らずのうちに、あのお地蔵様のお顔にすっかり魅せられていたようだった。

 優しくて、穏やかで、ひっそりと笑みを浮かべていたあのお地蔵様は、きっと今でも赤い涎掛けをかけて橋の際に立っておられることだろう。このとき彫った「花と戯れる少女の額」は今も私の部屋の壁の上にかかっていて、時々、川沿いの小道や、霊園の美しい生垣や、教室の仲間たちを懐かしく思い出させてくれる。もちろん、あのお地蔵様の可憐な立ち姿も……。

二〇〇六年八月二〇日 執筆

 

あたし、もう四歳   

                                                             

 柔らかい初夏の日差しがあたり一面に注いでいた。昼さがり、団地の自治会館の前の道を歩いていた時のこと。道路より少し高めの位置にある会館の玄関口へは、片側に躑躅(つつじ)の植え込みのある小道が繋がっている。この道、やや上り坂になっているので、たぶん高齢の来館者への配慮からだろう。植え込みに沿って緩やかな傾斜の金属の手すりがついていた。

 歩きながらふと見ると、小さな女の子がその手すりにぶら下がって、しきりに逆上がりの練習をしている。私は横目でそれとなく眺めていたが、なかなかうまく出来ない。顔を真っ赤にして両足を何回も上げてはいたが、やはり失敗の連続だった。だが、めげずに頑張った甲斐があったのか、五、六回目にやっと成功した。

 女の子は手すりの上に身を乗り出してにっこりと私を見た。

「お嬢ちゃん、逆上がり、とっても上手ね」

私は立ち止って褒め言葉をかけた。

「あたし、もう四歳なの。だから、こんなこと出来るの」

 この子はこう言って、それまでなかなか出来なかったことなど忘れたかのように、なんともいえず嬉しそうな、ちょっと得意そうな表情をした。逆上がりが出来たことがこんなにも嬉しいんだなと私は思った。その時の言葉もなんとも可愛いせりふだった。もしかしたら、日頃母親から「もう四歳なんだから、なんでも一人で出来なきゃね」などと言われていて、その子なりに母親の期待通りのしっかりした四歳の女の子になろうとつとめているのかも知れない。

 周りには人は一人もいなかった。団地住民の殆どが車持ちだからか、この道路には、人はあまり通らないが車は結構走っている。今時の怖い世の中、誘拐とか車の事故とか何が起きるか分からない。

 こんなところに一人でいて大丈夫かなと心配になってきた。自治会館では、週に何回か、囲碁、料理、ダンス、健康体操その他さまざまなサークル活動が行われている。多分この子の母親も中で何かの勉強をしているのだろう。夢中になって子供が外に出て来ているのに、気が付いていないのかも知れない。一人で退屈になって玄関の外に出て来たのだろうか。

 女の子は手すりを降りて道路わきの私の傍に来た。なにか話したいようだった。逆上がりを褒めてあげた私に親近感を抱いたのかもしれない。人に褒められるのは誰だって嬉しいのだから。

 その子はなかなか私の側を離れようとしなかった。暫く言葉を交わした後、ちょっと歩き出そうとした私について来そうな様子だった。私は思わず言った。

「お母さん心配するわ。お母さんのところに戻りなさいね」

「大丈夫、あたしのお母さん、心配しないの」

 もう四歳になっているこの子。自分が居なくなれば母親が心配することは分かっていることだろう。でも、あたしのお母さん、心配しないから大丈夫と、あえて自分の心とは反対の言葉を口に出してまで、私の側を離れようとしなかった。母親が構ってくれなくて余程寂しくなってしまったのだろうか。

「そんなこと無いわ。貴女がいなくなったらきっとお母さん心配するわ。中に入ってお母さんのそばに行きなさいね」               

 私はドアを開けた。今度は素直に中に入った。バイバイと手を振りながら、にっこり笑った。私はほっとして家路に向かいながら、心の中で「また会おうね」と呼びかけた。

 この日、私の心の中には時折爽やかな風が吹き抜けた。あの子のあどけない表情とかわいいせりふを思いだした時に……。

二〇〇七年一一月二日 執筆

 

私の散歩道


 雨降りや用事のある時以外は、殆ど毎日散歩に行く。そのコースは三通りあって、行き先は出かける時の気分次第で決まる。「第一のコース、林」、「第二のコース、田んぼ」、「第三のコース、特養老人ホーム」。この三つである。 

「今日は林? それとも下の田んぼにする?」同行の夫と二言、三言話す。いつも一緒に行くので、あの夫婦は仲が良いなどと見当違いな誤解を受けているかもしれない。

 第一のコースは、杉木立の中を抜ける道である。この林道はいつも薄暗く、私は一人ではちょっと怖くて歩けない。三、四百メートルの距離だと思うが、途中めったに人には会わない。たまに犬連れの人に出会うくらいだ。夏には時折、蛇と出くわし、思わずぎょっとして後ずさりする。

 だが、ひとたびこの林を抜けると、広々とした畑が一面に広がり、気分がとてもすっきりする。思わず深呼吸をしたくなる。春から晩秋へと、様々な野菜がこの畑で育ち収穫される。散歩の道すがら、その育ち具合をじっくり観察するのは楽しい。農作業の苦労も良くわかる。「じゃがいもの花がこんなに咲いてるよ。どの野菜もよく育っているね」などと話しながら歩く。働いている農家の人たちに出会ったときは、ちょっと会釈して通りすぎる。

 去年の秋のこと。赤、白、ピンク、紫など、色とりどりのコスモスが広い畑を一面埋め尽くしていた。まるで絨毯を敷き詰めたように。幾千もの可憐な花たちがさわさわと風に揺れ動き、その見事な美しさ。ため息が出る程だった。だが、このコスモスは畑の肥料にするらしく、ある日突然一本残らず刈りとられてしまった。無残な刈り跡の光景だった。花時にはたっぷり人の目を楽しませ、最期は他の作物を育む肥料となって朽ち果てるこのコスモスの一生。頭が下がる思いだ。

 ピーナツ畑も穫り入れがすみ、積みあげられた豆殻の山が幾つも並んで、いかにも晩秋といった気配が漂う。カラスが頻りと頭上を飛び交い、畑の上に舞い降りる。ピーナツの落ちこぼれでも突付いているのだろうか。どうせ捨てられたもの。食べたいなら欲しいだけ食べなさいといった気持ちで眺める。

 第二のコースは、低い里山の間に開けた谷津田のそばを歩く道だ。夏のよく晴れた日など、たっぷりと水を張られた田んぼがきらきらと輝き、離れて見るとまるで巨大な鏡のように見える。ここも、稲作の一部始終を観察できる。だが今はすべて機械による農作業で、昔の田植えの風景など全く見るよしも無い。二、三年前まではあぜ道の傍らでゲッゲッと蛙の鳴声ものどかに聞こえていたが、近頃はさっぱり耳にしない。物言わぬ生き物が少しずつ減っていく。農薬散布など人間の行為の結果だろうか。

 「第三の特養老人ホーム」というコースは数年前に建った特養施設の前を歩く道である。日曜日など、家族の人がお年寄りに面会に来るらしく車が何台も停まっている。けれど、外から見る限りは人の動く気配は全くしない。並んでいる二階の窓にも人の姿は一切見えない。ただ窓際に花鉢が一つ、二つ見えるだけだ。私はいつも不思議に思いながら前を通る。お年寄りは皆寝たきりなのだろうか。窓から外を眺めるなどと言うことはしないのだろうか。窓際に元気な姿がちょっとでも見えたら嬉しいのだが。

 ホームを過ぎると道は下り坂になり広い稲田に出る。まん中の一本道を進むと、途中小さな川が横切っていて、橋の下には小さな堰がザアザアと騒がしく泡立っている。ここが散歩の折り返し点となる。一休みして引き返す。往復五十分ほどの道のり。一寸疲れる。

 秋、彼岸の頃に真っ赤な曼珠沙華が近くのあぜ道に群生する。曼珠沙華とは梵語で天上の花という意味らしいが、一名彼岸花ともいう。この花は不思議な花だ。決まって彼岸のときに咲き出す。天上にいる死者の魂が、この時、人々の法要や墓参に合わせて、地上に姿を現す仮の姿かもしれない。     

 私の散歩道――。寒さの厳しい今、どこもしんと静まり返っている。春、樹間を鳴き渡る鶯たちも、夏に賑やかな蝉たちも、秋、草叢に鳴く小さな虫たちも、どこに行ったのだろうか、みな姿を消した。今、林も畑も田んぼも静かで寂しい冬枯れの時だ。だが私は飽きもせず今日もこのコースを歩いた。やがて訪れる早春の息吹が、この寒さの中でもひそかに心と体に感じられるから……。 

二〇〇三年一月二十五日 執筆


電車の中で    

             

 今年正月七日、夫と浅草の観音様に初詣に行った。

 往きの車中でのことである。西船橋で総武線から東西線に乗り換えたとき、ドアのすぐ傍に腰掛けていた五十代半ばと思われる女性が、つと立ち上がり「どうぞ」と席を譲ってくれた。一度は遠慮したのだが、「次降りますから」と再び勧めるので、「有難うございます」と丁寧にお礼を言って腰掛けた。

 私は今まで電車の中で席を譲られるという経験はあまり多くは無い。といっても朝夕の混んだ電車にはなるべく乗らないようにしているせいもあるが。けれど譲られたときは、有難く感謝の気持ちで腰掛けさせていただく。

「失礼ね。わたしゃそんなお婆さんじゃないよ」などと内心むくれたりはしないようにしている。人の善意は素直に受けたほうが良いと思っているから。

 そのあと、日本橋で銀座線に乗り換えた。そのときはちょっと驚いた。というのは、ドアの右側に腰掛けていた中年女性がまたも席を譲ってくれたのだ。午前中のわずかな時間のあいだに二度も譲られるなんて……。私はよほどお婆さんに見えたのだろうと少しばかり悲観した。

 その日、私は風邪気味で外出はちょっと無理かなと思ってはいた。でも毎年恒例の観音様詣が、あまり遅くなるのも気がかりなので、思い切って出かけた。顔には三角形の大きなマスクをかけ、長めの丈のコート、手袋、帽子、毛糸編みの襟巻きと、重装備をしていた。防寒対策は万全だった。でもこんな姿が余計に年齢よりも老けて見せたのかも知れない。まあ、これは多少負け惜しみかもしれないが。

 最初東西線で席を譲ってくれた五十代の女性は、そのままスーッとよそへ移動してしまった。次降りると言っておられたから、其のときちょっと会釈でもして感謝の気持ちを表そうと思っていたけれど。

 日本人はちょっとシャイなところがあるようだ。人に席を譲るという良いことをしたのに、まるで格好悪いとでも思ったように、どこか別の席に行ってしまう。そのまま譲った人の前に立っている人は少ない。好意を押し付けているように自身思われて、なにか気がひけるのだろうか。またお年寄りに席を譲ろうと思っても、行動に移る勇気が出ない人もいるらしい。これは若い人に多いようだ。

 ところが銀座線で席を譲ってくれた女性は、通路を隔てた向かい側の空席に腰掛けてにっこりと笑顔で私の顔をみつめている。人に席を譲ったことが自分自身の大きな喜びでもあるかのように。私の隣にはその女性の友達か夫かは不明だがやはり三十代半ばと思われる男性が二人腰掛けていた。この人たちも、優しくて親しみの溢れた微笑を投げかけてくれた。自分たちの仲間うちの女性が、他人に対して善意の行動を取ったことが、とても愉快でならないかのようだった。私は全くの他人からこんなに邪気のない笑顔をむけられたのは始めてだった。開けっぴろげで無邪気で素直な人たち……。心のままに感情表現のできるこの人達が多少羨ましかった。

 実はこの人たち日本人ではない。近頃テレビでよく見かけるアラブ系の人たちと思われる。目鼻立ちの大きくてはっきりとした顔が印象的だった。日本への観光旅行の途中なのだろうか。そうだとすれば、今、中東を覆っている戦争の影響は受けなかったのだろうか。戦争の惨禍から遁れられた人々なのだろうか。

 同じ浅草駅で三人とも下車したが、降りるときも私の顔を見てとても親しげに微笑した。善意の溢れた笑顔だった。私も微笑みながら「有難う」と心を込めてお礼を言った。この日本語が通じたかどうかわからないが、でもこんな場合言葉など必要ないようだ。言葉はなくても双方で交わした笑顔で、お互いの気持ちは十分伝わったに違いない。

「文化や言葉には壁があっても笑顔には国境がない」

とはどこかで聞いた言葉である。それにしても、前の電車で私に席を譲ってくれた五十代の日本人女性と、このアラブ系の人たちと、どうしてこんなにも感情表現の仕方が違うのだろうか。どちらが良いとか悪いとかの問題ではまったく無いが、これは矢張り国民性の違いとしか言えないのかもしれない。

 風土とか、歴史、文化、民族などの相違が影響して、長い間にこのような異なる国民性を作り上げたのだろうか。なかなか分からないことである。若い頃戦争の影響で十分出来なかった世界史の勉強をもっとしなければと今頻りに思っている。

 子供の頃、父が「アラビアンナイト」の童話本を買ってくれたことがあった。挿絵の中の髭を生やしたアラブ人が、子供心になにかとても怖い人たちに思えた。ことにあの「開けゴマ」の科白が不気味で、今でも恐ろしげな記憶として残っている。でも今回電車の中で会った人たちは、三人ともみな優しくて私に笑顔の素晴らしさを教えてくれた。 

 笑顔は人間関係の最良の潤滑油という。笑顔を向けられて怒る人は多分いないと思う。また感情表現を豊かにするということも大切だ。あの三人のアラブの人たちのように、なんの飾りもなく心の中を素直に表現できるように私もなれたらと思う。暮らしの中で何気なく口にする言葉の中でも、日頃、書き綴っている文章の中でも……。

二〇〇五年四月二五日 執筆


道――博多再訪


 昨年十一月、三連休を利用し、夫と息子、次女と私の四人で福岡県博多へ旅をした。三十七年前、夫の転勤で北海道へ旅立つまで四年半ほど一家が住んでいた街、博多。その前やはり福岡県の筑豊地方に住んでいた。それまでの筑豊の炭鉱町から移り住んできた家族にとって、博多はさまざまな思い出に満ちた、今でも忘れがたい街である。

 明るい海と空、近代的で瀟洒な家並み、文化的にも整った環境、多くの歴史遺跡、大濠公園という美しく広い公園もあった。息子が幼稚園時代、そこの池畔の広場で行われた運動会のことなど、今もはっきりと思い出す。それまでの炭鉱町での日常は、私にとって子育てに夢中になっていた時でもあり、町の様子などあまり省みる余裕もなかった。しかも落盤、ガス爆発など悲惨な事件も多く、気分的に何か重苦しいものがあった。そこへ行くと博多での久しぶりの都会暮らしは私たち家族の心をのびのびと開放してくれた。

 今回の旅行の目的の一つは、その博多への三十七年ぶりの再訪である。

 言い出したのは夫。博多に聖福寺という古くて由緒のあるお寺がある。臨済宗の禅寺で、開山は栄西、源頼朝が建久六年創建したという。夫にはその聖福寺を再び訪れたいというかねてからの希望があった。

 仕事のことその他で、博多時代多くの悩みを抱えていたようだった夫は、ある日訪れたこのお寺で座禅を組み、老大師のお話を直接にお聞きして深く感銘を受けたという。それから四十年近く経った今、人生の最晩年になって再び聖福寺を訪ねたいという夫の気持が分かるような気がして、私も一緒に九州に行くことにした。博多時代住み慣れた思い出の町々を、もう一度歩いてみたいという私自身の願いもあった。言ってみれば年を重ねてきた二人の、過去への感傷旅行とでも言えるかもしれない。

 年寄り二人だけの旅を危ぶむ気持ちもあって、今回息子が同行してくれることになった。息子との久しぶりの旅は私にとってなによりの神様からのプレゼント。普段は特別に用事が無い限りあまり息子に電話も掛けないように心掛けている私にとって、今回一緒に旅ができるなんて夢にも思わない嬉しいことだった。

 新幹線に乗り、途中広島県のF駅で下車した。ここには次女の家族が住んでいる。次女は「せっかく九州へ行くのだから、どこか温泉にでも一泊したら。湯布院なんかどうかしら。ご招待するわ」と言ったが、夫の目的はあくまでも聖福寺再訪である。次女の申し出をやむなく断った。それに腰を痛めている夫はあまり遠出は自信がないという。私は温泉一泊のほうがはるかに魅力的だったが、夫の気持ちは大事にしなければと断念した。

 翌日、夫、私、次女と息子の家族四人水いらずで懐かしい博多の街を再訪した。この四人で旅をするのも久しぶりのことだ。今回は参加できなかった長女も一緒なら、なお良かったのだが。現在のような博多駅は、私たちが北海道に発つときはまだなかった。たしか、駅周辺の拡張工事が始まったばかりだった。それが今は地下鉄も走り、構内で迷うほどの大きな駅となっている。当時路面電車が走っていた道はもはや線路の跡もない。美しく植栽された街路樹が並び、瀟洒なビルが林立している。昔の面影はなかなか見出せない。博多ほどの大都市だ。三十七年の歳月を経れば変わるのも当たり前。けれど私の胸の中にある過去の追憶と現実の光景との隔たりはやはり余りに大きい。私はおのぼりさんさながら、道の傍らに言葉もなく立ち尽くした。博多時代の思い出が浮かんでは消え、消えては浮かんで胸の中がざわついた。

 夫が「一日乗車券。福岡市地下鉄 六百円」という券をみなに買ってくれた。この券があれば博多の思い出の場所何処にでも行かれる。九州の大学に通っていた次女の息子も合流し、五人で乗り込んだ。

 駅をでて最初に訪れたのは聖福寺だった。夫が再訪を強く望んでいたお寺。

 夫がどのような気持ちで、昔ここで座禅を組んだのか詳しくは知らない。今広い境内には風格のあるお堂が立ち並び、さすが源頼朝建立の古刹だけあって、歴史の重みが十分に感じられる。私たち四人を残し一人お堂の中に入った夫は、暫く出てこなかったが、漸く姿を現したときは晴れ晴れとした表情だった。                                              

 何回も、買い物にいった繁華街にある大きなデパート、大型書籍店みなそのまま残っていた。感無量という思いがする。

 博多時代私たちは唐人町というところに住んでいた。今回、地下鉄に乗って、三十七年ぶりにこの駅名を見たとき懐かしさに胸がいっぱいになった。街に出てみると、賑やかな商店街が広がっている。どこか見たことがあるといった感じがする。でもはっきりと思い出すものは無い。少し歩いていくと漸く記憶が蘇ってきた。そう、ここは博多時代毎日買い物に歩いた道だ。当時を思い出し一歩一歩海のほうに向かって歩いた。この先に私たちが住んだ社宅が三軒建っていたはず。だが、それらしい家は一軒もない。三十七年も経っているのだ。無いほうが当たり前かもしれない。跡地には洒落れたマンシヨンが一棟。マンション住人用だろう。駐車場が広い面積をしめている。変わってしまったな。ちょっと寂しいような思いが湧いてくる。飼い犬のロックが死んだ家だ。

 次女が「お母さん、学校がある」と叫ぶ。子供が通った小学校が昔のままのところに建っていた。裏門から校庭に入った次女が「校舎の壁の塗り替えはあるけれど、みんな昔のまま」と感慨深くつぶやく。息子が通った幼稚園は見当たらなかった。

 その先は昔海だった。海岸沿いの道を息子と一緒に犬の散歩をしたのも遠い思い出。埋め立てされた海は今は陸地となり、マンションが林立している。海の片鱗もみえない。いつこんなに変わってしまったのだろう。思っても詮無いことだが、やはり何十年ぶりの再訪者としては感慨を覚えずにはいられない。

 そう、長い長い月日が流れたのだ。十年一昔という。四十年近くたってしまったのだ。そのまま残っているものもあるけれど、永久に姿を消したものもある。それが人間の営みというものだろう。

 歩きながら私は思った。建物は姿を消しても、風景は変わっても、唯一つ「道」だけは変わらないと。昔のままの道がそのまま残っている。私がまだ幼かった息子を背負い歩いた道、胃潰瘍になった高校生の次女を思って、今日はなにを食べさせたらよいかと思い悩みながらスーパーまで歩いた道。どれも数々の思い出と、私の当時の切ない心情の詰まった懐かしい道だ。その小さなスーパーが今でもあった。店の名もそのままに。長い年月を経てきたというのに……。懐かしくて胸が一杯になった。

 昔懐かしい唐人町を四人で歩きながら、私の心はひとり追憶に浸っていた。

 道は人々を導く。過去へも未来へも。どんな山奥でも人がいる限り道はある。道がなければ人々は何処へも行かれない。私と夫の今回の博多再訪はたんなる過去への感傷旅行だけではなく、二人の更なる生への第一歩のような気がする。

 帰りの新幹線の車中で。夫と息子はぐっすりと眠っていた。旅の疲れもでたのだろうが、とても心地よさそうな眠り。私もひと眠りしたくなってきた。

二〇〇八年三月二四日 執筆


葬送と再生  

  

<フォーレのレクイエム>

       

 美しい旋律が斎場の中を静かに流れていた。フォーレのレクイエムである。参列者たちが一本ずつ白い菊の花を献花する間、その心に染入るような調べは、途中途切れることなく続いていた。

 フォーレは一八四五年から一九二四年まで生きたフランスの作曲家である。歌曲、室内楽、ピアノ曲などにすぐれ、その叙情的な作風は数多くの人に好まれている。

 その夜、埼玉県新座市の葬祭場で、妹の夫、和夫の通夜の営みがしめやかに行われた。斎場に流れたこのレクイエムは、和夫がまだ元気だった頃、一九九四年、池袋の芸術劇場で、仲間のオーケストラ楽団員とともに奏でたものだった。和夫は自らもその一員として演奏した音楽に送られて、黄泉の国へと旅立って行った。

「僕の葬式は必ずこの曲を流して音楽葬にして欲しい」

 和夫は生前、妻の由紀子にこの様に言っていたという。

「あの人の望み通りの素晴らしい音楽葬をしてあげることが出来た。私は今満足感でいっぱいよ。何も思い残すことはないの」

 葬儀がすっかり終わったあと、彼女はしみじみと言った。六人兄妹のうち、今たった一人だけ残っている私の妹、由紀子。彼女のこの言葉には深い悲しみと共に、無事に夫を送った妻の安堵感も滲み出ていた。

 長い闘病生活だった。約一年半、由紀子はともすれば希望を失いそうになりながらも、最期まで献身的な看護を続けた。途中うつ病の症状を呈した和夫が、「死にたい、死にたい」と何度も言ったとき、彼女はどれほど辛い思いをしたことだろう。

「死にたいと言われると、私も悲しくて死にたくなるの」

 電話でむせび泣く由紀子を慰めるすべは、私にはなかった。

 人は自らの死を意識すると、深い孤独感に襲われるのだろうか。和夫も何度も寂しさを訴えたという。

「寂しいから背中を擦ってと言われ、あの人のベッドに入って一晩中背中を擦ってあげたわ。眠れないとしきりに訴えるので、私も泣きながら子守唄を歌ってあげたこともあるのよ」

 由紀子は涙ぐみながら、ぽつぽつとこんなことを語った。

 昨年十月八日、和夫は入院先の病院で最期の息を引き取った。七十六歳だった。意識はすでになかったが、苦しみもない静かな最期だった。

 翌九日、テレビやラヂオは、朝からしきりに台風来襲の警報を出していた。外出を出来るだけ控えるようにとのことだった。だが行かないわけにはいかなかった。その夜、和夫の通夜が営まれるのである。

 夫と朝早く千葉の自宅を出た。石神井の息子の家までは無事に到着したが、その晩、台風二十二号はまさに関東地方を直撃した。夕方、石神井町から新座の葬祭場へ向かった車は、途中烈しい風と雨に見舞われた。折れかかった大きな木の枝がしばしば車の屋根にぶつかり、身の危険を感じたほどだった。視界もほとんどきかない。あたり真っ暗な中、息子が全神経を集中して運転し、ようやく会場についたのは式が始まる寸前だった。

 車寄せから会場の玄関に入るまでのわずかな時間にさえ、夫も私も息子夫婦もコートがずぶ濡れという有様だった。豪雨の中、ほどなく長女夫婦も到着し、急いで着席した。

 外の烈しい風雨とは異なり、斎場の中は静かだった。見上げる正面壇上は、いちめん白い菊の花で覆われ、中ほどに和夫の遺影が飾られてあった。オーケストラのヴィオラ奏者だった和夫が、演奏会用のタキシードに身を包み、明るく笑っている。遺影の下には生前愛用していたヴィオラと弓が斜めに花の上に置いてあった。見ていると今にも和夫が音楽を奏でそうな雰囲気。那須の牧場で乗馬中の楽しそうな写真もあった。

 飾られた生前の写真を一枚一枚見ていると、あの穏やかな人柄が偲ばれてくる。音楽のほかは妻との旅をなにより楽しんだ人だった。普段大きな声も出さない優しかった夫に、今最期の別れを告げている由紀子の気持ちはどんなだろう。じっと遺族席に坐っているその横顔が、なにか痛々しくて正視出来なかった。

 由紀子は定年まで、小学校の音楽教師をしていた。和夫とは同じ音楽学校の出身である。長年の教師生活のせいか、それとも本来の性格か、とても気丈な女性である。すでに立派に成人した息子や娘がいるのだが、葬儀では、自ら喪主として一切を取り仕切った。涙一滴こぼさず凛とした姿には、こちらがその胸中を察して涙ぐんだくらいだった。

 翌十日、本葬儀が行われた。あの烈しい台風ははるか北の海へと消え去った。お坊さんも、牧師さんもいない。読経の声も、賛美歌の合唱も聞こえない。ただ、あのフォーレのレクイエムだけが流れる荘厳ともいえる雰囲気の中、葬儀は静かに進行した。大学生の孫が「じいちゃん」とよびかけた。一緒に馬に乗った時の楽しかった思い出など、この孫には、語り尽くせないような楽しい日々の積み重ねが、祖父との間にあったようだった。

 最期の出棺の時の光景が目に残っている。多くの参列者が、お棺の周りに集まり、最後の別れを告げた。その時、由紀子は、中に無言で横たわる和夫の額や頬をしきりに撫でながら、堪え切れずに泣いた。あの凛とした姿はもうそこにはなかった。夫との永遠の別れを前にした一人の女の悲しみ極まりない姿だった。

 葬儀が終わった。あのヴィオラも、弓も、沢山の花に覆われた和夫の骸(むくろ)と共に、ひとすじの煙となって、秋の透き通った空の中に消えていった。 

 フォーレのレクイエムが、今、私の耳の中で静かに鳴り響いている。この美しい旋律がこれからも、折りに触れて由紀子の悲しみを包み、やさしく癒してくれることを祈っている。

<第三の人生>

 葬儀から二ヵ月ほど経った。由紀子が私の招きに応じて、我が家を訪れた。迎えに行ったバス停の近くで、向こうからにこにこと手を振る様子に私は心底ほっとした。明るい表情だった。

 今までこれほど多くのことを話しただろうかと思えるほど、夜遅くまで二人で語り合った。二日目、急に思い立って彼女と、夫と私の三人でちょっとしたピクニックに出かけた。残りご飯を急いで握ってお握りを作り、水筒と有り合わせのお菓子と果物をリュックサックに詰めた。行き先は、片道歩いて四、五十分ほどの広くて美しい自然公園である。里山の下の一本道を三人でゆっくり歩いた。もともと歩くのが好きな由紀子は心底楽しそうだった。

 十二月半ばとも思えない温かい日で、風もなく絶好のピクニック日和。公園内の木々は殆ど裸木だったが、池の畔には、まだ鮮やかな紅葉が何本か水に影を落していた。下の池には可愛いい水鳥が水に潜ったり、浮かんだり、泳いだり。動物好きの由紀子を喜ばせていた。広い公園内は季節外れのためか、あたりに人影はまったくなく、三人だけの為のようなこの空間。広くて静かで、心が落ち着いた。芝生にビニールを敷いてお弁当にしたが、残りご飯でつくったお握りがなんと美味しかったことだろう。あまりに美味しく思わず三人で顔を見合わせて笑ってしまった。「おいしいねー」「本当に」、「楽しいねー」「まったく」。

 まるで子供に帰ったような楽しい時間だった。幸せとはなにか、私は心の中でしみじみと思った。

 そのとき初めて園内に人の姿を見た。二人連れの中年の男女が脇を通り過ぎた。私たちににっこりと笑いかけてきた。こちらもにっこりと笑い返した。

「きっと、年寄りが三人、誰もいない公園の芝生で、お握りなどおいしそうに食べている様子が、なにか場違いで季節外れで可笑しかったのでしょうね」

と話し合ったが、本当に楽しいひと時だった。きっと他人が見ても楽しそうに見えたのだろう。由紀子も暗い様子はまったくなく元気そのものだった。思いつきで来たが、ここへ来て良かったと心底思った。自然とはいかに人の心を癒してくれるか、私はこの時心から思った。

 その夜、二人で布団を並べて寝た。由紀子は昼間歩いた疲れも出たのか、湯上がり後、あっと言う間に、すやすやと安らかな寝息を立てて寝入ってしまった。

 自然公園からの帰途、田圃のあぜ道を歩きながら、彼女が語った言葉が忘れられない。

「これから私の第三の人生が始まるの。夫のいない一人だけの人生が……。子育てと教職に励んだ三十年を第一の人生とするなら、退職後、夫と二人、車で各地を旅して回った思い出深い二十年間が私の第二の人生。今私は一人になった。寂しいけれど生きていかなければならない。でも誰からも束縛されない第三の人生のはじまり」

「そうね、でも貴女はまだ健康。あと十年か二十年は元気で生きるでしょう。その長い時間をどのように生きるかが問題ね」 

 ちょっときつい言葉と思ったが私が言った。

「そうなの。私も今その事を毎日真剣に考えているの」

 茶色の切り株だけが並んでいる殺風景な田圃(たんぼ)に、なんという鳥だろうか。一羽の白い鳥がしきりに落穂拾いをしている。由紀子はその姿に目をやりながら、ゆっくりと言った。

「あまり焦ることはないわ。冬の間はゆっくり家にいてあの人の冥福を祈って過ごせばいいんじゃないの。貴女も心の癒しの時が必要よ」

 私は前のきつい言葉を取り消すような気持ちで言った。

 しっかり者で努力家の由紀子のこと。これからも賢く生きていくことだろう。

 三日間の滞在を終えて家に帰るとき、由紀子は明るい顔で「じゃー、またね」と手を振った。我が家でのこの三日間、いくらか彼女の心の慰めになっただろうか。そうあればよいと心から願いながら、「元気でね。また来てね」と、私も思い切り手を振って彼女に応えた。

二〇〇五年六月二九日 執筆

 

夫が恋しい     

        

 夫が最期の息を引き取ったのは、去年八月二十日に夫が二度目の入院をしてからわずか一か月半後の十月五日だった。夜八時十八分、私に手をとられて夫は最期の息を引き取った。あれ以来四ヶ月。夫の最期の日々を悲しく思い出さずにはいられない。

 臨終の時、私は夫の手をしっかりと握り締めていた。

「お父さん、由記子が来てますよ」 夫がかすかに頷いた。由記子が言った。「お母さんも、ここにいるよ」 二人で夫の手を必死で握り続けていた。だがその後小さな呼吸を二つした後、ついに息を引き取った。それが夫の最期だった。次女と長男は余りに急な病変に父の死に間にあわなかった。 

 夫の魂は天に昇った。

 その日、夫は病院の昼食を全部残さず食べた。私はいつものように、夫のベッドのそばに坐り夫の食事につきあっていた。夫が機嫌よく言った。

「味見してみるかい」

 私はその頃の夫の様子をみて、このぶんなら近く退院できるのではと楽観的な思いを抱いていた。退院以後に備えて心臓病によい献立をいろいろ料理の本を読んで研究していた。そのことを夫は知っていたので、病院食の味見などといったのだろう。

 だが、その後事態は急変した。食事を済ませた後、しばらくして夫が急に苦しみだした。

「これが僕の最期かな。だけど、此処で頑張らなくちゃな」

 生前、夫はいつも私のことを心配していた。

「お母さんは認知症にはならないだろうけれど、うつになる恐れがあるんじゃないの」とも気遣っていた。また年を取って一人になるかも知れない私のことを心配しそれで日頃信頼している長女に私のことを頼もうとしたのではないかと思う。

 広島で小学校の教頭をしている次女は父の最期に間に会わなかった。深夜バスで翌朝ようやく辿り着き、御棺の中で眠る父に向かって「お父さん!お父さん!」とまるで狂ったように泣き続けていた。父の既に冷たい額を、頬を撫で、手を握り締めて……。

 その夜から通夜、葬式、四十九日の法事、いろいろの手続きと、忙しい日々が過ぎた。     

 毎朝、夫の仏前にお灯明とお線香、お仏飯を供える。お花も欠かさない。そして般若心経を唱える。夫が生前毎日床の間の観音様に向かって唱えていたお経。夫の読経の声がまだはっきりと耳に残っている。夫の遺影の前でこの般若心経を唱えていると、夫も一緒に唱えてくれているようで悲しくも懐かしい。出来るなら生前の夫と一緒に唱えればよかった。夫にすまなかったと思う。

 十一月半ば私は写経の会に入会した。写経用具はすべて夫の遺品である。

「お父さんの使ったものを使えば、お父さんといっしょに書いているみたいでお母さん気持ちが休まるんじゃないの」娘が言う。

 一字、一字心を込めて写経する。上手に書けなくてもよい。ただ心をこめて無心に書き写す。次第に心が落ち着いてくる。夫の魂の平安だけをひたすら祈る。私自身の心も安らかになってくる。 

 この会に入ってよかったと思っている。前回私の隣に坐っていた人は、四年前に夫を亡くしたそうだ。「夫を亡くした悲しみはそんなに簡単に癒されるものではありませんよ。私だって三年かかりました」この言葉は深く心に沁みた。写経の会に参加するような人は、やはりなにかしら心に悲しみを抱いているのだろうか。静かに筆を動かしているこの人の横顔を私はしばらく見つめずにはいられなかった。

 こんなに夫が恋しいとは思いもしなかった。夫の遺影の前でお経を唱えていると決まって涙が流れ出る。でも今は思っている。泣きたい時は思い切り泣こうと。それ以外にこの悲しみから抜けでる方法はないのだ。泣き尽くせば、いつかは私の心の中の涙の泉もきれいに枯れるときがくるだろう。

 夜、一人でベッドに入るとき、私はどこかで読んだ詩の一節を心に思い浮かべる。

止まない雨は

ないんだよ

   明けない夜は

   ないんだよ

   明日は明るい

   日なんだから

私はこの素朴な言葉に慰められて、夜眠りにつく。

二〇一〇年八月三〇日 執筆

 

夫の看病


 庭の一隅に満天(どうだん)星(つつじ)の樹が植えてある。秋、真紅の紅葉が見事に美しく、夫と二人窓から眺めて思わず感嘆の声をあげたこともあった。十数年前、この家を新築した時植木屋さんで購入して植えつけたもので、この間測ってみたら高さが三メートルもあった。 


 あの時、一緒に眺めた夫は、今、家にはいない。去年十一月二十五日重症の心臓病に肺炎を併発し救急車で緊急入院した。翌朝には容態が急速に悪化し、主治医の先生に言われた。

「今日一日持つかどうか分からないので、お子さんやお孫さんを至急呼び寄 せてください」

 これを聞いた時の私のショックの大きさといったら無かった。「携帯電話使用不可」の二階循環器病棟から長い廊下を走り、一階の使用可能場所までエレベーターで行ったのか階段を下りたのか何一つ記憶がない。長女と次女、長男の三人に知らせた。

「お父さんが……、お父さんが……」

 傍目もかまわず半分泣き声だった。子供たちを待つ間、夫の寝顔を見つめて泣いた。この人ともうお別れなのだという耐え難い思いに胸が締め付けられた。今まで何故もっと優しくしてあげられなかったのだろう。悔いのみが残った。

 その日午後から夜にかけて病院二階の夫の病室には娘二人、息子、それぞれの連れ合い、五人の孫たちが次々と駆けつけた。九州から、広島、神戸から、群馬、東京から、千葉から……。狭い病室は夫を案ずる身内たちで溢れた。


 緊張した雰囲気で皆の見守る中、夫は奇跡的に一命を取り留めた。退院まで二カ月近く、私は殆ど毎日、バスを二台乗り継いで病院に通った。急ぐときはタクシーに乗る。夫のいない家の中はまるで空虚ながらんどうそのもの。昼間はともかく夜の寂しさは身に沁みた。夕方六時ごろ病院を出ると、短い冬の日は既にどっぷりと暮れ果てて、重い足で漸く辿りついた我が家はしんと静まり返っている。暗い玄関の鍵を開けて中に入るときの気持ちはとても言葉には表現できない。中から「お帰り」の声一つ聞こえるわけでもなく、買ってきたお弁当を一人箸でつまむとき、侘しい思いはもう、頂点に達して食欲もまるで湧かない。

 テレビを観る気にもなれず、本を読む気力も出ない。まして、何か文章を書いてみようなどという気持ちにはまるでなれなかった。新聞だけは夜寝る前、少しは目を通したが、これでは知的能力が衰えて、将来短いエッセイ一つ書けなくなるのではと心配になってきた。こんな中でせめてもの慰めは三人の子供たちからの電話だった。本当にどれほど慰められたことだろう。

 その頃、妹からも電話があった。妹は私の元気のない声を聞くといきなりぴしゃりと言った。

「貴女なんかまだいいわよ。病院に行けばちゃんと旦那がいるじゃないの。私なんかどんなに泣いても嘆いても夫が帰ってくるわけじゃないのよ。貴女なんて幸せよ」

 三年半ほど前、夫を亡くした妹は気丈に生きてはいるが、時には悲しくて一人泣くこともあるという。

 確かに私の夫は今病院で生きている。必死に病と闘っている。私は行けば、病人ではあるが夫に会える。近頃夫は、昼食だけは、患者や見舞い客が利用する食堂で食べている。ナースステーションの前にある食堂まで車椅子で運んでもらって他の患者さんと一緒だ。ベッドでの食事に比べれば格段の進歩だ。私は病院の売店で買ったお握りやパンやお弁当などを夫の横に坐って食べる。入院以来まだ笑顔は見せない夫だが、でも私は一緒に食事が出来ることが有難かった。妹のいう幸せとはこういうことだろうか。一度死の淵に立った夫が、今また新しい命を得て私と一緒に食事がとれる。これを幸せといわないで何を幸せといえるだろうか。

「食べることも治療のひとつですよ」

 看護師さんに言われた夫は、病院の食事を残さず食べる。「百パーセントですね」と褒められる。「これも僕の病気との闘いなんだ」という。また「死んでたまるか」と自分に言い聞かせているともいう。夫が一歩一歩、少しずつ回復してきているのも、勿論主治医の先生の適切な治療と、看護師さんたちの熱心な看護のお陰であることは言うまでもないが、夫のこんな生きようとする意思があったからだろう。

 年が明けて一月半ば過ぎのある朝、乗り継ぎのバス停でバスを待ちながら、私は冷たい北風に吹き晒されていた。風が枯葉を彼方へ飛ばしている。コートの襟を立て枯葉の行方を追いながら、私は気持ちが深く沈んだ。長い夫の闘病生活、はたして完治するのだろうか。退院できるのは一体いつごろだろうか。さまざまな思いを胸に詰まらせながら二階循環器病棟へ行った私は、看護師さんから思いもかけない言葉をかけられた。来週半ば退院との事だった。まだ完治したわけではないのだが、入院治療から通院治療に切り替わったのだという。医者の手を離れて大丈夫だろうか。私の心に一抹の不安が湧いた。

 退院後、長い冬を夫の看病で夢中になって過ごした。一日終わるともうくたくた。ベッドに倒れこむ毎日だった。始めは寝巻きを着替えることも洗面所まで行って歯を磨くことも一人では何も出来なかった夫。だが、この頃では一人で出来ることが多くなり、あまり手がかからなくなった。私も少しは落ち着いて本を読んだり、パソコンに向かって文章を綴ることも出来るようになった。夫は介護保険利用で、この四月から病院に付属している通所リハビリにも通いだした。自宅まで送り迎え付きで、週二回月曜日と水曜日に朝から午後四時まで行っている。その日はお昼ご飯も出るし入浴もさせてもらえる。もっとも夫は、入浴は自宅風呂にしているが。私も夫の発病以来、本当に初めて一人の時間を持てるようになった。今も夫のいない留守にパソコンを叩いている。


 夫は発病以来、今まで出来ていたことが何一つ出来なくなり、ずいぶん辛かったようだ。その為か、病気になるまで大きな声も出さず静かな人間だった人が、退院後は、度々、苛立って大きな声を出して私を叱り付けるようになった。子供たちには「お父さんは病気なんだから、お母さん気にしないようにしてね」と何回も言われたが、私はそのたびに気が滅入って辛かった。何もかも嫌になり、時には一人で何処かへ行ってしまいたくなることもあった。

 だがその分、子供たちが私を助けてくれた。長女は夫が入院中も退院してからも、週に二回は必ず車で五十分の距離を通い続けた。自分の家庭の仕事もあるのに、家事の他に介護保険のことも、ケアマネジャーとの交渉もみな私に代わっててきぱきと処理し、どんなに助かったか知れない。その分私は夫の世話に専念できた。息子は電車を乗り継ぎ、二時間以上もかかる東京の自宅から、仕事を遣り繰りして訪れ、主に夫の通院に付き添ってくれた。病院のあちこちの診療科を巡って、夫の車椅子を押しながら長い廊下を動き回った。広島で教師をしている次女は、連日帰宅時間が十時近い激務の中、新幹線のとんぼ帰りで、殆ど毎土、日曜日に訪れ、夫の看護に励んでくれた。広島から深夜バスで病院を訪れたこともある。私の手助けもしてくれた。本当にみなどんなに大変だったことだろう。

 今考えてみると、子供たちの助けが無かったら、私は夫の看護を十分にはできなかっただろう。私自身疲労困憊しながらも、なんとか夫の病床生活を支えることが出来たのは子供たちのお陰だ。 

 

 慌しい日常に明け暮れているうちに、自然はすっかり冬から春へ、春から初夏へと衣替えした。我が家の満天(どうだん)星(つつじ)は、少し前までは無数の白い小さな花を咲かせていたが、今は鮮やかな緑の若葉がそれこそ匂うように美しい。この季節、人も木々も花々も生きとし生けるもの皆、新しい命の芽吹きに満ち溢れている。

 秋には真紅の紅葉に目を見張ることだろう。夫が生命の危機を脱して、いま命ある事の有難さを思う時、涙が出る……。近頃すっかり落ち着いて穏やかな夫と、またどこかに自然探勝の旅に出かけられるようになるのはいつだろうか。その日が待ち焦がれてならない。

二〇〇九年五月十九日 執筆


追記  その後夫は再び病状が悪化し、八月二十日再入院、十月五日午後八時十八分、ついに帰らぬ人となりました。


初盆  


 香取市(旧佐原市)の菩提寺で亡夫の初盆の供養を行った。自宅では夫の祭壇の前に真菰で編んだ精霊棚を設け種々の供物を供えた。胡瓜と茄子に割り箸で四本の足を作り、それぞれ馬と牛に見立てたものを置いたのはお盆に帰ってくる先祖の霊の乗り物とするためである。玄関の外には大きな盆提灯を吊るして出迎えの目印とした。

 盆の初日夕方に迎え火、最後の日に送り火を焚く。玄関前の薄い闇の中で手折った黍殻に火を付けると赤い炎がゆらめく。炎の中に今、天上の世界から戻ったばかりの夫の霊が仄見える。「お父さん、お帰りなさい」思わず呟いて、胸が一杯になった。

 夫の死から一年近く。悲しみは幾分薄らいだが、寂しさは増えるばかりだ。昔父や兄弟達と家の前の路地で同じことをしたのを思い出す。今は亡き人々となった私の懐かしい身内の人々は今宵帰って来てくれただろうか。

二〇一〇年十月二九日 執筆

 

夫を想う(抄録)

海の癒し


 四月半ば、白内障の手術をした。一週間の入院だった。右眼と左眼と両方、水晶体が老化で白く濁ってしまい、人工的なものと取り替えなければならなくなった。そのための入院である。

 病室は四階だった。病棟の前方部は、デイルームと呼ばれる広い談話室となっていて、そこは患者さんや見舞いの人たちが食事をしたり、テレビを見たりして、くつろぐための部屋となっている。

 入院の日の午後、私はこの談話室へ足をはこんだ。この部屋、前面は、大きなガラス窓で覆われていた。ガラス越しにはじめて外を眺めて息を飲む思いをした。海がキラキラと光っていた。右から左まで青くて美しい海が一面に広がっていた。この一年、夫の看病に明け暮れていた私にとって、落ち着いて海を眺める機会などまったくなかったので、いきなり眼前に広がったこの美しい自然の風景に感動した。じっと眺めていると何か涙が出るほどだった。

 こんなに広い海に面している病院に入院できてよかった。手術を前にして、少しばかり不安な思いを抱いていた私は、眼前の海の広さとその明るさにいくらか気持ちが落ち着いてきた。私の心から不安が消えたような気がした。

 飽かず海を眺めていた私の後ろにふと人の気配がした。振り向くとそこに一人の男性が車椅子に乗って私と同じく前方に広がる海を眺めていた。去年十月亡くなった私の夫と同じくらいの年配の男性でやはり眼鏡をかけていた。私はほんの一瞬だが、その人の姿に、今は亡き夫の幻影を見たような気持ちになった。

 しばらく海を眺めていた男性がふと声を出した。

「ああ、生きていてよかった……」

 車椅子を自分で操作できるまで回復してきたこの男性は、もしかしたら、この病院で大きな手術をして、今、こうして、一つきりない命を再び得たことのありがたさを身に沁みて感じているのだろうか。

 生きていてよかったという言葉には深い実感がこもっていた。

 私は思わず胸を衝かれて返事を返した。この言葉が私に対して言った言葉かどうかはっきりとはしなかったが。

「そうですね。生きていさえすれば、またきっと何かいいことがありますよね。」

 「生きていてよかった」 この男性の言葉が、もし夫が病を克服して、私に向かって言った言葉だったらどんなに嬉しかっただろう。でも現実には夫は長い闘病にもかかわらず、再びこの世に命をつなげることができなかった。病を克服できず私を置いて一人で天上の世界へ旅立ってしまった。

 夫の死以来、私の心境は大層悲観的だった。今後、夫のいない一人の人生をどのようにして生きていったらよいだろうと暗く思い悩んでいた。人生になんの希望も持てなかった。

「そうですね。生きていさえすれば、またきっと何かよいことがありますよね」。

 どうしてこのような人生を肯定するような言葉を私は咄嗟に言ったのだろうか。まったく意識もしていなかったのに。あんなに悲観的な私だったのに。私は男性の言った「生きていて良かった」の言葉に深く感動していたからに違いないと思った。その言葉には深い実感がこもっていた。「生きる」ということがどんなに素晴らしいことか、私は強く思った。どんなにに辛くても私は生きていかなければならない。夫の居ない寂しい人生だけれど……。病と最期まで闘い抜いた夫の分も。

私に与えられたこの人生を強く生きていこう。私は心に深く誓った。

   

 あの男性はその後どうしただろうか。病癒えて無事に退院できただろうか。これからも元気に生き抜いてほしい。生きていてよかったとより深く実感するために。私も夫の菩提を弔いながら、写経したり、できたら小さなエッセイを書いたりしながら元気に生きていこうと思う。そして、いつの日か私も本当に生きてきてよかったと心の底から思えるようになりたい。

 退院の日の朝、談話室に行って素晴らしい風景を見た。まるで私への餞(はなむけ)のように白い富士山が海の向こうに輝いていた。

二〇一〇年一〇月二九日 執筆

 

夢の中で


 我が家の床の間に設えた夫の祭壇には、亡き夫の位牌と遺影、高さ五十七センチほどの観音様の立像が祀られている。私はここで御仏飯と御水を供えお線香をともす。そして般若心経を一心に唱えて夫の魂の冥福をいのる。「私をどうか護ってください」と今日一日の無事をお願いする。

 米寿の祝いを目前にして、一昨年秋、心臓病でなくなった夫はその後、せめて夢にでも出てきてほしいという私の願いもむなしく、天国に昇ったきり二度と会いには来てくれなかった。以来私は一人住まいの寂しさにずっと耐えてきた。

 夫の没後、どのくらいの日時が経過していただろうか。たしか寒い冬の夜のことだったと思う。私はふと何かの気配を感じて浅い眠りから意識が戻ったような気がした。ふと見ると夫が祭壇の前に座っていた。座布団に端座していた。隣には私も一緒に座って手を合わせてお経を唱えている。夫が私のほうを向いてなにか話しかけたような気がするが何を言ったのだろうか。

 そのとき、夫は黒い紬の和服を着ていた。通夜のとき、私が着せてあげた着物だ。色白の夫によく似合っていた。若いころは会社から帰るとすぐこの着物に着かえ、机に向かって本を読んでいた。懐かしい夫の後ろ姿である。この和服はその後長い間箪笥の中に大事にしまわれていた。

 通夜の晩、花に囲まれてお棺のなかに、横たわっていた夫の和服姿が忘れられない。でもその空蝉の姿は火葬場から立ち上る一筋の白い煙とともに永遠に消え去ってしまった。骨壺を抱いた私の悲しみは言葉には言い表せないものだった。

 だが、夫は夢の中に出てきてくれた。夢でも良いから一度会いたいと切に望んだ私の願いを天国の夫は聞き入れてくれたのだろう。

 夢の中で、夫と一緒に過ごしたこの時間は私にとって最高に幸せな時間だった。生前いつも夫が唱えていた般若心経を夢の中で一緒に唱えることができたのだから。

 あの夢は生涯私の心の中から消えることがないだろう。悲しいときも喜ばしいときもいつも私を元気づけてくれるだろうあの夢は、私のこのうえない大事な宝物であり続けるに違いない。

二〇一三年一月一〇日 執筆 

詩の朗読ごっこ


 数年前の正月、長女が子供たちを連れて遊びに来た。大学を出て既に社会人になっている一番上の子、大学生、高校生の三人である。午後のひと時、炬燵で温もりながら、「詩の朗読ごっこ」というちょっと変わった遊びを楽しんだ。この遊び、実は夫の発案である。

 我が家に『世界の名詩を読みかえす』という詩集がある。かつて、夫が息子の本箱で見つけ、その後本屋さんで自身購入したもの。ヘッセ、リルケ、ハイネ、ケストナー、ゲーテなどの有名な詩人達の名詩の数々が載っている。さすが世界の名詩、珠玉のような作品ばかり。薄い小さな本だが、挿絵がまたとても美しい。良質なメルヘンを思わせる淡い色彩は見るものの心を詩の世界へといざなう。手に持っただけで心が揺らめくような美しい詩集である。

 「詩の朗読ごっご」とは、各自がこの詩集の中からそのときの自分の気持ちにぴったり合った詩を選び出して録音しながら順々に朗読し、その後すぐ再生して皆で聞きあうという遊びである。別に朗読の仕方の上手、下手を競うわけではない。

 沢山ある詩の中から短時間で一つを選ぶのは難しい。でもいくつか見ているうちに不思議とこれぞというのにめぐり合う。その時の自分の気持ちとピタッと波長があうのがある。

「さ、いいかい、もうみんな決まったかい」 夫の声に孫たちは「まだだよ、まだだよ」と大騒ぎである。

 録音器を炬燵の上において先ず夫から始める。一寸しゃがれ声だがそれなりに風格がある。次は私、娘、孫たちと年齢順に読みはじめる。こんな遊びは始めてなので、幾分緊張するが、心を込めて朗読する。

 その後、すぐに今度は同じ機器で再生する。詩を黙読するのと、声を出して読むのとは随分感じが違う。だが再生して聞くのはさらに異なる。声も実際のとはだいぶ違う。私は自分のかすれ声に驚いた。それに私はあまりに感情を込めすぎた。却ってわざとらしくて耳障りだった。淡々と読んで、しかも人の心を打つように素直に詩の心を表すのは難しい。そこへ行くとさすが若い人たちはとても繊細な感性をもっている。詩の選択も朗読の仕方も、素晴らしい。じっと聴いていると、なにか胸にぐっと迫るものがあった。

 三人の孫のうち、末っ子の男の子が選んだ詩はヘッセの『ひとり』という詩だった。


この地上には

大きな道や小さな道がたくさん通っている

でも行きつく先はどれも

おなじ

馬で行くも 車で行くも

二人で行くも 三人で行くも よし

でも 最後の一歩だけは

一人で行くしかない

だから やりたいことは何でも

ひとりでするのがいい

それよりいい知恵も 方法もない


 人間は結局一人ぼっち。それなら一人で生きていくほかはない。この子はまだ若いのに、既にこんな人生観をもっているのだろうか。友達も別に自分からは求めないのだろう。それにしてもその朗読には本当に心を打たれた。静かな抑制の利いた声で、しかも要所要所は巧みなメリハリが効いている。まだ子供だと思っていたが、いつの間にこんな繊細な感情表現ができるようになっていたのだろう。もう私など手の届かないところまで育っている。

 あの時の録音テープをもう一度聴いてみた。

 朗読と朗読の間の皆の会話がとても楽しい。本当に賑やかそのもの。こんな素敵な遊びを考えてくれた夫に感謝したい。そしてこんな素晴らしい詩集との出会いをもたらしてくれた息子にも。 

二〇〇七年六月七日 執筆

野良猫 ノラ


 近所につい一年ほど前に建ったばかりのしゃれた洋館がある。春になれば真っ赤なバラが白いフェンスに絡まり咲き乱れてとても美しく、通る人の目を楽しませてくれる。

 この家の駐車場の奥につながれている牡犬ロックは、その日も朝から無聊を持てあましていた。一日中鎖に繋がれ続け、まだ夕方の散歩の時間には大分間がある。もうたまらんと一声吠えた。その声に驚いたのか、フェンスの前をのっそりと歩いていた一匹の野良猫がふと立ち止まってこの牡犬の方をちらと眺めた。

「おい、おい、ノラちゃんよ。少しは僕の話し相手になってくれないか。実はあまりに退屈でノイローゼになりそうなんだ。本当にかなワンよ」

「あら、それはお気の毒。でもあんたはいいわよ。三食昼寝つきでしょう。気楽なもんじゃない。あたしなんか来る日も来る日も、生きるために必死になって食べ物を探さなくちゃならないのよ。退屈だなんて言っている暇なんかないわ。あんた、贅沢よ」

「そう言うけどね。君は自由というものがどれほどありがたいか分かってないんだ。もし一日中僕みたいに鎖で繋がれてみろよ。君なんか到底耐えられるもんじゃないよ。それにね、三食昼寝つきなんて言っても僕の食事なんてドッグフードだよ。そりゃ栄養はちゃんと考えてあるだろうけどね。味なんてまるで変化ないし、もうこの頃は飽き飽きしてるんだ。主人には飼ってもらっている手前文句は言えないけど、僕だって本音を言えば魚や肉のあのごつごつした骨付きを思い切りがぶりと噛んで食べてみたいし、実なし味噌汁でもいいからご飯にかけたぶっかけ飯も食べたいさ。昔は僕たちの食事と言えばみんなそんなものだったよ。でもそれが結構おいしかったんだよね。この頃は食べる楽しみも無くなってきたし、歯だって硬いものにありつけなくなったせいか、まるで年寄りみたいにがたがただよ。まったく情けないもんさ」

「あたしもね、よその飼い猫がキャッツフードとやらを食べているところをちょっと見たことがあるわ。けれど、あたしにとってはそんなの高嶺の花よ。魚屋の店先で怒鳴りつけられながら魚の尻尾をくわえてきたり、肉屋のおじさんが、時々腐ったような肉の切れ端を投げてくれるのをありがたく頂いたりして命をつないでいるのよ。本当に生きるって大変なことよ」

「そりゃ、君にそう言われてみれば、こうして食べるものに困らず、毎日散歩にも連れってもらえる僕なんか幸せなのかもしれないね。それにしても、君はどうして野良猫なんて不運な運命に生まれついちゃったのかね」

「あたしはね。生まれて間もないとき、あの奥の林道の脇に捨てられていたの。ほかの二匹の兄弟と一緒に段ボールに入れられてね。そのうちに一番上の兄さんがどこかの男の人に拾われていったわ。あたし必死になって、一緒に連れてって!って後を追ったけどまだ小さかったから追いつけなかったの。もう一人の兄さんもいつの間にかいなくなった……。あたし一人林の中に取り残されて、暗い夜なんかどんなに淋しかったことか。一晩中泣き明かしたわ」

「ふーん、まったく聞けば涙の物語だね。それで君いったいその後どうしたの」

「泣き疲れてやっぱり少しは眠ったらしいのね。ふと、気がついたら朝になっていた。木漏れ日がとても優しく感じられた。風も柔らかく吹いていた。なんだか不思議なんだけどその時あたし急に生きる勇気が出てきたの。もう泣くのはやめようと思った。それでね、町のほうへ歩いていったわ。最初は電信柱の脇にそっとすわった。そしたら小学生らしい女の子があたしを抱いてくれたの。ああ、人肌ってこんなにもあったかいんだなって本当にじーんときた。でも家には連れてくれなかった。その女の子の後姿を見送ったときよ。あたしが本当に一人で生きようと決心したのは」

「ふうん、それ以来、君はずうっと一人で頑張ってきたんだね。聞いててなんだか僕も涙が出そうになった。食べる苦労もしないで、ただ自由を求めるなんて、つまり君の言うように、たしかに贅沢かもしれない。自由を求めるか、それとも毎日の安定した暮らしを得るか、本当にむずかしい問題だよ」

「あれからどのくらいの時間が過ぎたのか、あたしにはさっぱりわかんないけど、でもやっぱり長かったと思う。だってこの頃、なんだかとっても疲れてきたような気がするの。食べる物のことなんか心配しないで少しは休みたいの。こんなの無理な願いかしらね」

「いや、そんなことないさ。また時々、僕と話しにおいでよ。ドッグフードで良かったら何時でも分けてあげるよ」

「ありがとう、本当にありがとう。あたし、この頃つくづく思うんだけど、今考えれば自分一人で生きてきたなんていうのはきっと思い上がりかも知れないわ。人様の情けにも随分すがったもの。お腹がすいてどうにも動けなくなって蹲っていた時、そう、公園のベンチの下だった。どこかの優しそうなおばさんがカップラーメンを持ってきてくれたの。暖かくてとっても美味しかった。あたしその時、本当に泣いた。ありがたくて嬉しくて、月並みな言い方だけどそれこそラーメンがあたしの涙で塩っ辛くなったくらいだった」

 

 牡犬ロックと野良猫ノラが、フェンス越しに話した日々はそれからどのくらい続いたのだろう。今、ノラはめっきり歳を取り、衰えも見えてきた。都市郊外のこの住宅地にも、厳しい冬が訪れてきた。木々はすっかり葉を落とし、あれほど耳に響いていた虫たちもどこかへ行ってしまった。時々カラスがうるさく鳴き交わしている。

 粉雪がちらちらと舞い降りたある日、あまり人も通らない林道脇に、野良猫ノラが無言で横たわっていた。必死に生きたノラが、その時、命を終えて天国へ静かに旅立って行ったのだった。

 白い粉雪がノラの上に静かに降り注ぎ、いつの間にかあたり一面はすっかり白一色の世界になった。


 赤やピンク、黄色。色とりどりの花が咲き乱れて、この世の風景とも思えない明るい春の野原にロックとノラが戯れている。自由に、奔放に、誰にも邪魔されないで……。幸せそのものに。

 それは、暖かい春の日差しに、しばしまどろんだロックの浅い夢に結ばれた一場の夢幻のシーンだった。

二〇〇八年三月七日 執筆


参考 母の身体の傍らで新しい時が流れる




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