【思いつきnote】「日常」に見出す感動(memo書き)
●はじめに
普段の生活で「感動する」ということは、果たしてどれくらいあるものなのでしょうか?
たとえば素晴らしい本を読んだり映画を観た時や人との関わりのなかで真心に触れた時。または素晴らしい芸術や身体パフォーマンスを目の当たりにした瞬間。
もちろん自然の風景をみて感動するなんてこともあるのですが、すくなくとも大昔は、自然に触れることが「日常」であったわけです。
●「日常」について考えてみる
さて、日常というものを考えてみると、それは「生活」の中にあるように思います。
類語は「普段」とか「日頃」、それから「生活」もそれに含まれるようです(コトバンクより)。
ですから、「日常」とは「普段の生活」といっても差し支えないかもしれません。
これは単なる言葉遊びかもしれませんが。
●自然による感動
自然が身近だった頃、当時の人々の生活において、その美しさに感動することは「日常的」だったことから、「感動できるもの」は日常にあったのではないでしょうか?
実際に自然とともに生きていて常に感動していたわけでもないとは思います。
むしろ自然の中で「生の過酷さ」を痛感していたかもしれないですね。
だからこそ、それを乗り越えられた時の「生への感動」はひとしおだったとも思えるのです。
●現代における自然
では現代人は感動できないのでしょうか?
確かに一万年ほど前(極端かもしれませんが)と比べたら我々は(地域格差があるとはいえ)自然から遠い所で生活しているかと思われます。
ですが、外に出て見上げれば空は今でもありますし、仮に都心部でも、自然に触れる機会はあるかと存じます。
ただ、私はどちらかというと自然の多い所に住んでいるので、都会の実状については分かりかねる所ではございます。
●人工物はどうでしょうか?
冒頭にて例示させて頂きましたが、文芸や芸術に触れる、人とのふれあい、そのなかにも感動はあると思います。
それは人という存在そのものに「自然」があるから、だと思うのです。
人体を維持するためには「自然のもの」を摂取し続ける必要があります。
だから我々は「自然で構成されているもの」ともいえます。
人から生まれたものは「人工物」として自然から切り離されたものとして認識してしまいがちな私でございます。
ですが、そもそも人工物というのは自然にあるものから切り出すとか抽出するとか、加工してできたものではないでしょうか?
それはいわゆる「加工食品」も同様のものです。
●エネルギーも「自然」
もっというと、加工するためのエネルギーは電気だったりもします。
電気をつくるには、「自然のもの」が不可欠であると断言して差し支えないと思います。
火力発電で用いる石油・石炭・天然ガスも元は生物ですし、原子力発電の濃縮ウランでさえ元はウラン鉱石です(参考 日本原燃HP)。
こじつけと言われればそれまでですが、そういった意味でも、人や人工物でさえも「自然である」と思う次第です。
●「日常」に見出す感動
感動というものは、理屈で語れるものではありません。
ただ、現代においても「人と人との関わり」や「人によって生み出されたもの」のなかにも「自然」があり、それは自然の風景をみて感動することと本質的におなじものではないかと思ったのです。
長々と述べてしまいましたが、つまり私たちは「日常」のなかに感動を見出す力を備えている「自然のもの」だ、という思いつきでございます。
ここまでお付き合い頂き深く感謝致します。
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