【一日一言】栄誉と恥辱(草稿)
●はじめに
今回の句は一休宗純(一休さん)が詠んだものですね。
この方自身、地位のある高僧だったと記憶しております。
ですがそれ以上に「型破りな生き様」を通して仏道を説いていたような方ですので、幼少時代からそんな「大人になった一休さん」に憧れを抱いていました。
●我が事ながら「冷めた考え方」かと存じます
そんな一休禅師それから新渡戸先生も仰っているように「(これは私見に過ぎませんが)人を蹴落として食べるご馳走はうまいか」ということですかね。
「ミルクがチーズになるまでの間」はいいのかもしれません。
ですが、「そもそも恥ずかしくないのか」とご両人は諭しているわけです。
これは「生き方」に対するスタンスの問題かもしれません。
「恥」を「恥」と思わない、もしくは「何をおいても財産と名誉こそに生きる意味と価値がある」という方もいらっしゃるのでしょう。
「私は」取り立ててそういう方を責めるつもりはございません。
その人の価値観、生き方というものも等しく尊重されて然るべきだと考えておりますので(要は「どうぞご勝手に」ということですね)。
こんなこと述べたら冷淡な態度と思われるかもしれませんね。
ですが「へつらいて富める」ような方からすれば、私ごときにどうこう言われる筋合いはないと思われるでしょうし。
ただ、私がどう思おうとも「因果律」がそれを見逃してくれるかどうかはわかりかねますが。
●「良心に恥じない」生き方
私個人としては「へつらいて富める人」の人生がどうなるかに興味などございません。
それよりむしろ私自身が「良心に恥じる生き方」をしてないかに関心がございます。
当然のことですが「良心に恥じない」生き方で栄誉を得ている方もいらっしゃいます。
むしろそういう方を手本として人生を歩みたいくらいです。
ただ残念なことに、良心に恥じるかどうか関係なく「栄誉を得ている方」が謗られている風潮もなくはない、ような気もします。
●さて私はどうしましょうか
いずれにしても冒頭の引用文から、地位や名誉財産といったものを得たいからといって、引き換えにしてはならないものがあるという主張を読み取ることができました。
これは完全に私の趣味嗜好によるものかもしれませんが「へつらいて富める」方だとか「人を蹴落として求めた栄誉」にすがる方よりも、
一休さんや新渡戸先生のような考えを持っている方に好感をおぼえます。
そういう方と「ともに歩め」たら幸いかと存じます。
ですから私自身もそのように「在り続けよう」と思います。
日頃から自らを注意深く観察して「自己をととのえ」行動を積み重ねたいと思う次第です。
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