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【名言なしの気づき⑥】年の瀬が近づき「ただ振り返る」だけの記事(感想文)

名言なしの気づき⑤】の続きです。
前回は、「ひとりでどうにもできないようなら人の力を借りるといいですよ」ということで一旦話を閉じました。

私の経験上でお話しすると、カウンセリングや精神療法の専門家の方に相談することで、「別の見方」ができていわゆる「歪んだ認知」を軌道修正できたりもします。
また、「自分の抑圧された感情」と向き合う際、余計に辛くなってしまわないようにフォローしてもらうこともできます。

これは完全に私見なのですが、こういった専門の方々は「感情と向き合う作業」について危険がないように見守ってくれたり手助けしてくれたりします。
ただ、最終的には私の感情を「私」が受け止められるようになる必要があると思うのです。

これは何も「誰の助けも借りない」と意固地にならなければダメというわけではありません。
友達だとか、気心の知れた人に話をしてただ聞いてもらうだけでも随分ラクになりますね。

ただ、四六時中「聞いてもらう」わけにもいきませんから、自分が「自分の声」を聞いてあげるようにできた方がいいとは思います。
たとえば、ただ「泣いてるんだね」「怒ってるんだね」「嫌なんだね」と自分の感情を認めてあげる、というようなものです。

分が自分をめる。
分は自分に感情を晒してもいい存在だとじる。
分がどうであっても自分にを注ぐ。

ちょっと触れたことがありますが、自分の怒り顔や泣き顔とかドヤ顔とかそんな顔を鏡に映してじっと見つめるのは精神的に辛い作業ではあります。

私の場合ですが、鏡に映った自分の顔をみるのが苦痛で仕方がありませんでした。
今思えばいつも「そんな顔」をしてたから、という気がします。

感情に蓋をしていたつもりでも表情に出てたのかもしれないですね。
そんな顔を晒して社会生活を営んでたと考えると恥ずかしくなります。

でもですね、そんな自分の顔とにらめっこしてると、なんだか可笑しくなるんですよね。
私の顔は元々変なんですけど、それに輪をかけて「変な顔」です。

人様にそんなこと言えるわけもありませんが、そこは自分に対する信頼関係に基づいて忌憚なく、自分に対し「変な顔してるなー」と思ってやると、なんだか笑えてくるんですね。

地顔がどうかはさておき、ムスッとしているよりは笑顔というか笑っている顔の方が幾分マシっていうものです。

申し訳ありません。
「感情」というものについて、まだ語り足りないのです。
ですので、残りは次回に繰り越しさせて頂きたく存じます。

次回で終わらせます。

ここまで読んでいただきありがとうございます。 少しでもいい記事が書けるよう精進致します。 ※誤字・脱字等ございましたら、お手数ですがコメントにておしらせ頂けると幸いです。