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【一体何を見ていたのかと 前編】「幽霊の正体見たり枯れ尾花」(草稿)

●はじめに

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」
日本のことわざで、「なんでもないものまでとても恐ろしく感じられる」というたとえです。
「横井也有の句化物の正体見たり枯れ尾花が変化したものといわれます。」

「コトバンク」より

わかってしまえば、「なんでこんなものに恐れおののいていたのか」と思う事があります。
人は「わからないもの」に対し恐怖を抱くのでしょう。
だから、「知りたい」「解明したい」「はっきりさせたい」という欲求がある、と言えそうです。

●「わからない」は「おそろしい」?

この、わからないものをはっきりさせたい欲求は、「得をしたい」というよりは、「損をしたくない」という動機が強くあらわれているように思えます。
なにせ、「わからないこと」によって生命の危機に直結する場面も想定できるのですから。

原始の時代においては、人類は「わからないこと」だらけだったことでしょう。
「わけのわからないもの」に対し、為す術もなくただ祈るのみだったかもしれません。

●科学と文明の発達

だからこそ、というべきか、人類は科学力を発達させる必要がありました。
その結果、生命の危機から少しづつ逃れられるようになってきたのでしょう。

今や科学は、恐怖や不快感から身を遠ざけるだけでなく、便利さや快適さを追求できるまでに発達することができました。

ですが、それでも人類は生を終えることは当然として、あらゆるものに恐怖や不安をおぼえ、それらから逃れる術を追求し続けています。

むしろ、社会が形成され文明が発達したことで生まれた不安や恐怖感もあるように思います。
例えば、経済に起因するもの、人間関係に付随するもの、思想の違いによる争いだとか利害関係による衝突、対立構造など、それらがあるが故の不安や恐怖を抱えながら生きていく、というような。

●メリットはあって当たり前?

無論、文明が発達したからダメというわけではなく、それによる恩恵も受けながら生活しているのが現状ですが、
どうやら人間というものは、メリットは「当然のこと」と認識し、デメリットには不平不満を募らせる生き物のようです。

これは、自分を振り返ってみて思ったことなので、全員にあてはまるかどうかはわかりませんが。

いつも自分に戒めて(というか心がけですね)いるのは「当たり前」ではなく「ありがとう」と置き換えてみる、です。
「ご飯食べる、ありがとう」「服着る、ありがとう」「お風呂に入る、ありがとう」などなど、です。

お手本として拝読させていただいております。
この場を借りて「ありがとうございます」

●後編に続きます

後編はちょっとした自分語りになっております。

「それでも読んでやろうじゃないか」と寛大なお心をお持ちの貴方様。
よろしければ引き続きお付き合いくださると有難いです。

ここまで読んでいただきありがとうございます。 少しでもいい記事が書けるよう精進致します。 ※誤字・脱字等ございましたら、お手数ですがコメントにておしらせ頂けると幸いです。