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【一日一言】疑うよりは信ぜよ(草稿)

●はじめに

二月二日 「疑うよりは信ぜよ」

人の心は他人が判断できるものではない。
まして人の心を疑うことは愚かなことで、疑うよりはむしろ信ずることである。
人を信じてだまされることは人を疑ってだますよりは、むしろましであると思え。

悪くとも 善くともいかで 云ひ果てん 折々かはる 人のこゝろを

PHP研究所 『[新訳]一日一言 「武士道」を貫いて生きるための366の格言集』
著者:新渡戸稲造 訳者:岬 龍一郎

新渡戸先生の懐の深さに感服致しました。

●でも騙されたくはありません

あまりに心が綺麗であるために「だまされる」ような話はあちこちで見聞きすることではあります故、「信じる」というよりも「依存する」のは宜しくないと思ってはおりました。

ただ、「騙すぐらいなら騙されるほうがまし」というのは、私も同意見です。
いえ、騙されるのもイヤですけどね。

●あくまでも個人的な意見に終始しますが

「騙される」要因のひとつとして「思考の放棄をしてしまった事」が挙げられると思います。

特定の誰かを信じて「一生ついていきます」というような「熱血ぶり」は嫌いではないです。

ですが、すべての判断と責任をその人に「おまかせ」してしまうのは(ダメとまではいいませんが)「この命預けました!!」くらいの気概があってこそだと思うのです。

今時は、「こういうの」に対して眉をひそめる方もいらっしゃるかもしれませんね。
元々個人主義的な気質が強かった私としては、「自分で判断し責任を負う」スタンスを良しとしております。

これも私の「偏り」というか「個性」といいますか……。
いわゆる「熱血」というものは、嫌いではないです。

●自身への戒めとして

「猜疑心」というのもなかなか厄介なものでして、これが過ぎると「被害的」な思考回路となりかねません。

過剰な不信感」は「自己肯定感の低さ」からきているような気がいたします。
これは「私自身がそうだったから」そう思うだけかもしれません。
特定の誰かを誹謗中傷したいわけではありませんよ。

自分を信じきれてないと、それが人様に反映されてしまうといったものです。
「人は自分の写し鏡」のようなものですから、自身の猜疑心がそのまま自分に反射されてしまっているのかもしれません。

こういうことにつきましては、一つの事柄がすべての原因となるわけではなく、様々な要が重なって結が「映し出されている」ものと考えております。

●「器の大きい」方に学ぶ

信じるというより依存してしまうのもどうかと思いますし、かといって「騙される前に騙してやる」くらいにまで猜疑心を増幅させるのもどうかと思います。

ものの見方次第でその印象は変わりうるものですから、まずは「受け入れる」姿勢を持てたらいいのかもしれないと自らを振り返る次第です。

「ひとまずは聞け」という新渡戸先生の姿勢につきましても、そのなかに「誠に真理を求める者は皆兄弟であり皆同志(※)」というくだりがあるように、「信頼しようとする姿勢」在りきというように見受けられます。

「身をつめば 人の痛さの 知らるれど 浅き深きは 知るよしもなし」(※)
(※ 前掲書籍より一部引用))

新渡戸先生はこのような歌を詠んでいます。
「人の心は他人が判断できるものではない」という考え方を如実に表したものだと思います。

その上でどうするか、どう生きていくかを考えていくにあたり、新渡戸先生の考え方や信念も参考になっております。

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