【一日一言】「尽くす余地」はあるのかないのか「愛の足りない証拠」(草稿)
●はじめに
新渡戸先生の愛の深さが窺われます。
●すれ違う
正直な所、「私はこんなに尽くしてるのに!」と思う事はありました。
でもそれは新渡戸先生にいわせれば「お互い様じゃないですか?」ということですね。
これはいわゆる「すれ違い」ということかなと。
お互いの「愛」が空回りしてしまうということもあるのかなぁと思います。
自分が良かれと思って尽くした「つもり」が予想だにしない伝わり方をしてしまい、「そんなつもりじゃなかったのに」となってしまった、というのは「あるある」かもしれないですね。
なるべく誤解のないように、何度も話し合うことが大事かなと思います。
●「興味をもつ」ということかと
「自分にとっても人にとっても嬉しいこと」をするのが望ましいのですが、なかなか容易ではないのは身を以て何度が思い知りました。
そこで思うことは、「相手を理解しようとすること」も愛なのかなと思った次第です。
●愛、執着、依存
ここで注意したいのは「愛」と「執着」を混同してしまわないことです。
この場合は「執着」というより「依存」と言った方がしっくりくるかもしれません。
もちろん人と人が支え合う、助け合う、というのは必要な事で、「人をムリヤリ遠ざける」というのが「執着しない」とはならない所に注意したいと思います。
「すべてはつながっている」というか、つきつめていくと「すべてはひとつ」なのでムリヤリ分断するのは「不自然」かと存じます。
●憎しみ、怒りについて
たとえば、「倫理観に欠ける振舞いをするその人」に対しての「憎しみ」の感情は、もしかしたら執着かもしれないですね。
その辺りの感情については「一考の価値がある」とは思います。
ただ、自分を「犠牲にしてまで」愛を注ぐのは「違うかな」と思ってはおります。
間違っても「許せない自分を憎む」なんてことはないようにしたい所です。
私は「無理しなくていい」と思ってるんですよ。
●私自身が忘れがちなこと
やや厳しい論調になるかもしれませんが、自分を戒めるつもりであえて述べさせて頂きます。
「自分に足りないものを埋めようとする」のは「愛」ではなく「依存」なんだと心がけたい所です。
私の「なか」に感じる「からっぽ」な感覚。
それを埋めようと欲する心の動きが「執着」ではないかと考える次第です。
ふと感じる「からっぽ」を許容できない気持ちは痛いほどわかるのですが、そもそも「私といういれもの」は「からっぽ」に感じるようで「満たされている」のが本来の状態です。
その「からっぽ」はいわゆる「幻想」で、本当は「満たされている」ということを「思い出す」とその「満たしているもの」は溢れ出し「与える」ことができる、といった所です。
●さいごに
なんだか抽象的な論調になってしまった感はありますが、要は「まずは自分から」ということと「理解を深めようとすること」は新渡戸先生の言から得られた「学び」としてここに記しておこうと思う次第です。
ここまで読んでいただきありがとうございます。 少しでもいい記事が書けるよう精進致します。 ※誤字・脱字等ございましたら、お手数ですがコメントにておしらせ頂けると幸いです。