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2001年宇宙の旅 〜 "2001: A Space Odyssey" (Stanley Kubrick, 1968)


前説

これまでそれほど沢山の SF映画を観てきたわけではないけれど、この映画とリドリー・スコット(Ridley Scott)監督の「ブレード・ランナー」(Blade Runner, 1982年)は、このジャンルの映画として金字塔だと思う。金字塔、要するにピラミッドの形をした称賛(どういう称賛だ?ほぼ礼讃です)をすべき映画。いや、その二つの映画は、それぞれ趣がだいぶ異なるものの、共に SF映画の枠を超えて永遠に残る大傑作。

本 note 投稿は、スタンリー・キューブリック(Stanley Kubrick)監督の "2001: A Space Odyssey", 日本でのタイトルは「2001年宇宙の旅」という映画だった、1968年、今から半世紀以上も前に公開された、あの不朽の名作について。

Odyssey は、紀元前8世紀末の古代ギリシャの吟遊詩人ホメーロスの作と伝えられる(断定は難しいらしい、そもそもホメーロスが実在したのかどうかも判然としないらしい!)長編叙事詩「オデュッセイア」から来ている言葉で、困難を伴って長期間に及ぶ長旅を意味するようだけれど、しかしこのニュアンスを邦題タイトルに生かすような日本語訳の仕方は、ほぼ無理だったのかも。

映画 「2001年宇宙の旅」 を、無謀にも一言で語る

"2001: A Space Odyssey", 「2001年宇宙の旅」という映画は、宇宙の、そして人類の、そして一個の人間の、あるいは人間一人一人の、Odyssey, 「オデュッセイア」、つまり苦難の長い旅路について描いている映画なのではないか。

この映画は、永遠に続くかに見える宇宙を舞台にしつつ、宇宙空間で、あるいは宇宙におけるこのちっぽけな惑星であるところの地球の上で、果てしなく続く人類の歴史、その中にある更に更にちっぽけな一個の人間の一回限りの人生、つまり生と死、生から死に至る多難な旅路、そして話を戻せばそれが繰り返されていく人類の歴史、人類の苦難の旅路、そういうものを描こうとしていた映画だったのかもしれない。

さらに「おまけ」的なもう一言を。つまり、「2001年宇宙の旅」は、究極のロードムービーかもしれない。ロードムービーの定義を逸脱するロードムービー。要するに、普通のロードムービーと「2001年宇宙の旅」は、移動する距離がおそろしく違う。長大かつ広大かつ深淵かつ深遠な、という形容が相応しい、時間と空間におけるとてつもなく長い距離を移動する、まさしく究極というか無限の距離のロードムービー(笑)。

ヤマモトツヨシかく語りき(爆)。「一言」ではなかった(笑)。

(笑)(爆)(笑)と続くとまるでトリップ中に書いているみたいだけれど、本章に入る前につまらない一句、今現在の筆者はただの「2020年居間の旅」。

2001年宇宙の旅

ここで掲載するのは、筆者が 17年前、2003年7月26日に、自分のホームページ上に掲載したテキスト。

当時、自身が既に「人生のポケット」(については本 note 投稿の「余談」の後の「付録」にて)に入っていた時期で、何というか、其処彼処に自分の言っていること書いていることに対する、当時の自信の無さが醸し出されているような箇所が目立って、いま読み返すと小っ恥ずかしいように感じるところもあるのだけれど、編集して今現在の物言いに直してから note 掲載する作業もなんだか面倒くさく、それはさして建設的なこととも思えないので、ま、いいや、この際、「ママ」転載してしまおうということで、文字通り、そのまんま東(という芸名だったタレント芸人・元知事は好きではないが、井上陽水の「東へ西へ」は好きだ、というのはもちろん単なる脱線・言葉遊び)、編集しないで転載しようと思う(一部、改行のみ変えた)。

というわけで、以下は、2003年7月26日に原始的 HTML で書き、ホームページに掲載したもの(*1)。

ただし 本 note 投稿への転載にあたり、ホームページ上では添えていなかった YouTube上のクリップを幾つか加えた(この映画を観たことがある人は単純に楽しめるけれど、これから観てみようという人にとってはテキストはネタバレ的ではある、せめて映像はまだ観ない方がいいかと)。

2001: A SPACE ODYSSEY 〜 2003年7月26日 記

(1968年 アメリカ映画)監督:Stanley Kubrick, 主演:Keir Dullea

学生の頃だったかいつだったか、1回か2回、映画館で観ました。その後テレビで2回ぐらい観たかな。テレビ放映から録ったビデオを持ってます。本当はもう1回きちんと観てから書きたいところですが、今ビデオを再生し、時々とばしながら、PC に向かったり TV 画面に向かったり・・・。

これは単なる SF 映画ではなく、哲学映画です。何度観ても完全な「理解」は出来ない、たぶん。観る度に新しい発見をする、かもしれない、そんな類の映画でしょう。SF というジャンルに入れられそうな映画の中で、こんなにもパーフェクトな映画は他にあるのかな。制作されて今年で35年、にもかかわらず、どこにも古さ、旧さがない。信じられない、と言っていいレベルの出来の映画じゃないかと思います。

現実の 2001年が過ぎたことなんて、全く気にする必要がない。2001年は新世紀の初め、ミレニアムの初め。2001 はもちろん象徴として使われた数字だもんね。だからこそ、逆に 2001 である必要があったとは言えますが。

原作はアーサー・C・クラーク。イギリス人ですが、後年はスリランカに住んでいたような…。今生きてらっしゃるかどうかは知りません。たしか本日現在、今もご健在かと?

人類の夜明け。突然現われた石柱(モノリス)。地面に屹立するモノリスに群がる猿人。骨をつかみ、骨を打ち、水牛が倒れる、猿人が道具を手にし、人類に進化していくことを象徴するシーン(シュトラウスの「ツァラトゥストラかく語りき」が流れる)。

猿人同士の争い。猿人は骨を放り投げ、空に向かって投げられた骨が落下してくるシーンは、それから400万年後の宇宙空間を漂う(かのような)宇宙船のシーンにつながる(ここで流れるのは別のシュトラウスの「美しく青きドナウ」)。映像といい、音楽といい、その展開といい、まさにパーフェクト。

(1:00~辺りからが上のヴィデオの続き、映画史に残る超絶美しいシーン)

(「美しく青きドナウ」をもう少し聴きたければ ... 上のシーンと重なるけれど)

時は西暦 2001年。月で発見されたモノリスを(あ、この括弧は 2020年12月17日の今日現在、たった今、加えたもの、つまり、「を」は「の」に代えたい、という宇宙空間と比べたら何とも小さい小さい、校正の括弧!)調査に向かう新世紀の人類。モノリスから木星に向かって発信されている電波。宇宙船ディスカバリー号は木星に向かうが、その中でコンピューター HAL9000 が起こすクルーへの反乱。生き残った船長は木星の軌道上に存在するモノリスを発見する。その後がまたスゴイ(もっと深遠な!言葉使えっての)。それから船長は異次元に行ってしまいます。

それは宇宙の果てというか始まりというか、しかしシュールな(?)イメージ世界だったりもして・・・。

そこに年老いた自分を発見し、(おそらくは)死を目前として横たわる自分を見、その彼が指差す先には、屹立するモノリス。そして老人が横たわっていたベッドに老人の姿はなく、代って透明な球体の中に胎児の姿。

再びモノリスがクローズ・アップされていくと共に聴こえてくる「ツァラトゥストラかく語りき」のオープニング・メロディ。そしてモノリスの彼方に宇宙空間が出現し、最後にスクリーン(映画館ならね)にもう一度、胎児の顔が現われてエンディング。

思想を言語化しなくても(難しいんだからさ、これ、ヘタなコトバ並べられんですよ、あ、でも下にちょっとやっちまった)、観れば(人によってはか・・・)引き込まれ惹き込まれる映像と展開と音楽。やっぱパーフェクト。ちなみにエンディングの後、キャスティング、クレジット等が映し出される間に流れるのは「美しく青きドナウ」の方です。

(上のヴィデオの最後の「美しく青きドナウ」イントロ 0.x秒 からの続き)

当然ながら、この映画は映画館で観た方がいい(でも僕が映画館で観たのはずいぶんと前の話)。

オモシロイ、という映画ではありません。難しい・・・です。理解出来るとは言えないが、ウソのない深遠な世界を感じる。英語では Profound と言っていいんでしょうか。Deep だし、ある意味 Heavy でもあります。あ、やめた、あっしの英語力では深入りしないでここまで(そもそもナントカ語とかカントカ語とかどうでもいいじゃん、だね、この映画の世界って)。

宇宙があり、その中に地球があり、猿人が生まれ、進化して人類になる。一個の人間にとっては気が遠くなるような時間が人類の歴史となって経過し、人類は宇宙に出て、原始に猿人が見たモノリスを再発見する。そしてモノリスにアクセスした新世紀の人類の一人が異次元に吸い込まれ、一個の人間の死と生に遭遇する。生と死でなく、死と生の順になっていて、エンディングが胎児の顔、というのは当然意味があるはずです。やはり(当然ながら?)完全に理解したとは言えないニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」(昔2回ほど読んだよ)に通ずるものを感じます(ニーチェのあれをちょこっとここで語るパワーなんてありません、あしからず、笑)。

人間にとっては空間も時間も長大広大な宇宙。その宇宙(これは広い意味での世界と言ってもいい、要するに森羅万象、universe です)を認識しようとする人間。宇宙は人間の脳の中に「出力」された世界でもある。その人間の、宇宙の時間とは全く比較にならない個々の歴史( Life )が繰り返されていく、そういう人間の脳の中で認識されていく世界・・・。

この映画、僕の記憶では、ピンク・フロイドにも音楽制作が依頼される計画があったとか実際にされたとか・・・。実現はしなかったけど(経緯は知らない)。依頼があったとしても不思議はないですね。猿人のシーンなど、フロイドの ATOM HEART MOTHER(「原子心母」)をそのまま使えそうです。以前何かのサイトで読んだけど、この映画のどこかのシーン、ATOM HEART MOTHER だったか MEDDLE(「おせっかい」)だったかな、あるいは他のフロイドのアルバムの曲だったか、とにかくフロイドの何かの曲を聴きながら見るとトリップ出来るなんて説(ウワサ?)があるとか。まぁマコトしやかではあるものの、本当かどうかはわかりません。ちなみに現代というか未来のシーンでも、(初期の方の)フロイドの音楽を使えそうなところはわりとあります。ちなみにモノリス調査のために月へ向かった博士の名前がフロイドってのは、いくら何でも偶然でしょうな。スペリングはどうなんでしょう。映画をビデオで観なおしても、確認は出来ませんでした。ま、いいね。(一番下の追記ご参照くだされ・・・)

(追記については、本 note 投稿では次章の「余談」にて)
(なお、フロイド博士は Dr. Heywood R. Floyd なので、Pink Floyd と同スペル)

フロイドの音楽は使ってませんが、それでよかったという気もします。僕はフロイドのファンですがね、わかりません。とにかく、この映画の音楽、音楽効果は十二分に素晴らしいんで。

この映画の音楽監督みたいな人の名でもチェックしようと思って、最後のクレジットとかも見たんだけど、どうも使われた複数の曲の作曲者名が出てくるという感じで、はっきりつかめませんでした。超有名な2曲を決めたのも監督(キューブリック)かな?

「ツァラトゥストラかく語りき」は誰の作曲だっけって思いながら名前を思い出せないでウェブで検索したら、リヒャルト・シュトラウスの作。「美しく青きドナウ」は誰だったっけって言ってたら、妻が教えてくれました、ヨハン・シュトラウス。二人ともシュトラウスだなぁ。クラシック・オンチの僕はこれ以上は書きません。「ツァラトゥストラかく語りき」が使われていることは、上に触れたニーチェの(編集しないと書いていたけれど、再び、この括弧は今日 2020年12月17日の加筆、念のため、ここでいう「原作」とはもちろん映画の「原作」という意味ではなく、リヒャルト・シュトラウスをインスパイアしたという意味での同曲の)原作「ツァラトゥストラかく語りき」とオーヴァーラップするこの映画のイメージを、象徴しているようにも思えます。

蛇足だけど、コンピューターの HAL は、IBM の3つのアルファベットを一つずつ前倒しにしてネーミングしたって、昔何かの雑誌で読んだな。これは間違いないでしょう、たぶん。偶然とはとても思えない。

もう一つ蛇足、「2010年」という続編的映画も観ましたが、これは深遠さに格段の差。「2001年」の謎の解読もしてたような気がするのに、細かいところを覚えていません。米ソ(露)対立と和解なんかが前面に出たりして、急に俗っぽくなってしまいました。原作は同じ人ですが、監督は違います。

この「2001年」の監督はスタンリー・キューブリック。他に A CLOCKWORK ORANGE(「時計じかけのオレンジ」)をむかーし観ました。昔過ぎて自分も若過ぎたかもな。最近ではトム・クルーズとニコール・キッドマン元夫婦がたしか夫婦時代に共演した EYES WIDE SHUT も同監督ですね(後者は遺作、最後の作)。こっちはテレビで観たけど、たしか後半の方をたまたま観たんだったような。ジャック・ニコルスンさんの「シャイニング」もキューブリックですね(まともに観てない、笑)。うーん、長い蛇足。

そのうえ最後にもう1回。 2001: A SPACE ODYSSEY は完璧で深いです。
さらにさらに、中身確かめないままおまけ。早川書房のこんなサイトがありました。「2001年宇宙の旅」ホームページ(あ、これもうかなり前からリンク切れてます; 161011記)って名のサイト。謎解きとか出てるのかね。

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*1 ホームページ上では以下のリンク先(近年全く更新していないホームページ、でも今もネット上に置いている)。

ただし、同ホームページは 2001年夏に本を買って HTML 独学して 1週間ほどで立ち上げた、ホームページ作成用簡易ソフト不使用のウェブサイトで、以降一切、仕様を変えておらず、現在、とりわけスマホなどから閲覧しようとすると OS のヴァージョン次第では文字化けする(威張ることじゃないけど、まぁ威張ってはいないけれど、いつも繰り返しこれ書いてるんだけど、でも初めての人には「初めて」なわけで)。

それと、リンク先では、2003年8月4日にアップした「追記」が最後に付いていて、その「追記」については、本 note 投稿では次章「余談」にて。

余談

以下、2003年8月4日に原始的 HTML で書き、ホームページ(*2) に掲載したものからの転載。

どうもピンク・フロイドの MEDDLE の中の ECHOES の音楽と歌詞(詩)が、この映画の最終章 JUPITER AND BEYOND THE INFINITE の映像とその展開(物語)に強烈にシンクロするという話があるようで。時間にして約24分。クレジットが出る直前のラストシーン、宇宙空間上に浮かぶ、眼を見開いた胎児の顔のシーンまでで ECHOES が終わり、秒単位の時差しかないらしいようなので、何とも出来過ぎの話です。おまけに ECHOES の詩の最後は・・・ No one sings me lullabies, And no one makes me close my eyes, And so I throw the windows wide, And call to you across the sky ・・・ですからねぇ。うーん・・・。本当に細部までシンクロニシティ( Synchronicity )があるのかどうか、いつか気が向いたらやってみましょうか(*3)。

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で、2年以上後の 2005年10月27日にやってみた結果を、それから更に 15年以上経過した昨日、2020年12月16日に note 投稿したのが、以下のリンク先。

*2 前章の *1 と同じ(笑)。スクロールすると、下の方に「追記」があります。それが上記の「余談」。

ただし、*1 に書いた通りで、同ホームページは 2001年夏に本を買って HTML 独学して 1週間ほどで立ち上げた、ホームページ作成用簡易ソフト不使用のウェブサイトで、以降一切、仕様を変えておらず、現在、とりわけスマホなどから閲覧しようとすると OS のヴァージョン次第では文字化けする(威張ることじゃないけど、まぁ威張ってはいないけれど、いつも繰り返しこれ書いてるんだけど、でも初めての人には「初めて」なわけで、ってか *1 にも書いている通り、しつこい!)。

*3 ホームページ上では以下にリンク。ただし、*1, *2 に書いた通りで、現在、とりわけスマホなどから閲覧しようとすると OS のヴァージョン次第では文字化けする可能性あり。PC なら、大抵のブラウザで閲覧可能かと。

付録: 「人生のポケット」は、ブラックホールではない

本 note 投稿の「前説」の次の次の本章「2001年宇宙の旅」の冒頭で、「ここで掲載するのは、筆者が 17年前、2003年7月26日に、自分のホームページ上に掲載したテキスト」として 〜 当時、自身が既に「人生のポケット」(については本 note 投稿の「余談」の後の「付録」にて)に入っていた時期で 〜 と記していた、その「人生のポケット」について。

ブラックホールというは、極めて高密度、かつ強い重力を伴い、単に物質だけでなく光さえもそこから脱出できないという、そんな蟻地獄より恐ろしい(これはスッポンと月の違い、泥と雲の差などとは、比較にならないような比較だった、笑)、そういう天体を指して言う言葉。

1) 「人生のポケット」は脱出できるもの。ブラックホールではない。

2) 「人生のポケット」の底で聴いたトム・ウェイツ。

以下のリンク先 note 投稿のタイトル上の写真は、彼が出演した映画、ジム・ジャームッシュ(Jim Jarmusch)監督の「ダウン・バイ・ロー」 (Down by Law, 1986年) からの一コマ。

因みに「ダウン・バイ・ロー」はいわゆるロードムービー、つまり、登場人物(大抵は主人公)が長距離を移動しながら物語が進んでいくタイプの映画というわけだけれど、今日の note 投稿で取り上げた「2001年宇宙の旅」は、究極のロードムービーかも。

今日の note 投稿の「前説」の次 〜 映画「2001年宇宙の旅」を、無謀にも一言で語る 〜 というナンちゃってな見出しの章で書いた通りなんだけど、

「2001年宇宙の旅」は、ただし、移動する距離がおそろしく違う。長大かつ広大かつ深淵かつ深遠な、という形容が相応しい、時間と空間におけるとてつもなく長い距離を移動する、まさしく究極というか無限の距離のロードムービー(笑)。

ロードから逸れた(この「付録」の章においては)脱線話はそのくらいにして、以下のリンク先の note 投稿の付録として 〜 「人生のポケット」初期に歌詞を訳した歌 〜 と見出しを付けて、サイモンとガーファンクル版の「コンドルは飛んでいく」の筆者による和訳歌詞を掲載した note 投稿へのリンクを貼ったんだけど、それが次の 3) で、

3) 以下のリンク先 note 投稿の付録に、1) で取り上げたものを含む「人生のポケット」関連の筆者の note 投稿へのリンクがあるので、最後にこれ。

ところで、コンドルも飛んでいますが、「2001年宇宙の旅」の宇宙船も飛んでいる。前者は空を、後者は宇宙を。そして人間も人生の中で時間と空間を飛ぶ。

今日の note 投稿の「前説」の次 〜 映画「2001年宇宙の旅」を、無謀にも一言で語る 〜 というナンちゃってな見出しの章で書いた通り、

"2001: A Space Odyssey", 「2001年宇宙の旅」という映画は、宇宙の、そして人類の、そして一個の人間の、あるいは人間一人一人の、Odyssey, 「オデュッセイア」、つまり苦難の長い旅路について描いている映画なのではないか。

「2001年宇宙の旅」という映画はやはり、永遠に続くかに見える宇宙を舞台にしつつ、宇宙空間で、あるいは宇宙におけるこのちっぽけな惑星であるところの地球の上で、果てしなく続く人類の歴史、その中にある更に更にちっぽけな一個の人間の一回限りの人生、つまり生と死、生から死に至る多難な旅路、そして話を戻せばそれが繰り返されていく人類の歴史、人類の苦難の旅路、そういうものを描こうとしていた映画だったのかもしれない。

宇宙船は飛んでいく。人類も飛んでいく。一人の人間も飛んでいく。コンドルは飛んでいく。


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