見出し画像

ガザ地区, 被占領地パレスチナ 〜 1983年10月16-18日

パレスチナのガザ地区は現在の軍事封鎖下の環境と違い, (当時も今も変わらずイスラエルの軍事占領下にある)パレスチナのヨルダン川西岸地区と同様に, 当時はやはり軍事占領下の地域だった(もちろん同じくイスラエルによる!イスラエルのせいで説明が毎度毎度ごちゃごちゃする地域だね)。1983年4月26日に日本を発ち, ソ連・ヨーロッパ諸国を旅し, 1ヶ月いたギリシャを発って中東(西アジア)諸国の旅を始め, トルコ・シリア・ヨルダンそれぞれの国内を旅した後, ヨルダンの首都アンマンを出て, 陸路, 「歴史的パレスチナ」地域(については本 note 第2章)のヨルダン川西岸地区に入ったのが 同年9月28日。その後, 10月18日に2泊3日滞在したガザを出て, 陸路, 次の目的地であるエジプトの首都カイロに向かった。結局, パレスチナ/イスラエルの旅は 3週間の旅だった。

1983年4月26日に日本を発って 9月28日からパレスチナ/イスラエル 〜 ここまでの振り返り

1983年4月26日に日本を発ってソ連・ヨーロッパ諸国, トルコ・シリア・ヨルダンを旅した後(そこまでの旅については以下 note *1 第3章にソ連・ヨーロッパ諸国旅リンク関連, 第2章にトルコ・シリア・ヨルダンそれぞれの旅 note リンク), 同年9月28日早朝, ヨルダンの首都アンマンを発ってヨルダン川を渡り, 1948年5月「建国」のイスラエルが 1967年6月の軍事侵攻以来, 同年11月の国連安保理決議242号をはじめとする複数の安保理決議の撤退要求に従わぬまま(2021年の現時点で既に54年間, 1983年当時においては16年間)不当な軍事占領を続けているヨルダン川西岸地区に入り, エルサレム旧市街がある東エルサレムに宿をとった(以下 note *2)。

筆者が パレスチナ/イスラエルを旅したその時代, 1982-83年頃がどんな時代だったか, とりわけパレスチナ人, パレスチナやイスラエル, レバノンに関わってどんな時代だったか, その一端, とはいえ重要かつ重大な一端に触れることになるのが, 以下の note *-1 にある 1982年イスラエルのレバノン侵攻, そして同年9月にベイルートにおいてイスラエル軍が包囲するパレスチナ難民キャンプ(サブラ・シャティーラ)で起きたパレスチナ難民等虐殺事件(因みに34年後の2016年にノーベル文学賞を受賞することになるユダヤ系アメリカ人の "セレブリティ", アメリカ合州国の紛れもないメインストリームのロック・ミュージシャンである ボブ・ディラン は, その直後に 恥知らずなイスラエル支持ソング を書いて 翌1983年の彼の公式アルバム "Infidels", その名も「異教徒たち」に収録している)。 

話を戻して, 1983年秋の パレスチナ/イスラエル の旅の3日目は, 西岸地区にあるパレスチナの街, キリスト生誕の地と信じられているベツレヘムを訪問し(note *3), 4-5日目にはジェリコ(エリコ)そしてマサダ死海に行った(note *4)。6日目は, 東エルサレムエルサレム旧市街を歩き, 西エルサレムでは「ホロコースト記念館」(ヤド・ヴァシェム)を訪ね, とエルサレムの「東西」巡り(note *5)。7日目, 1983年10月4日は, エルサレムをひとまず発って「48イスラエル」の都市ハイファに行き, 今も強く印象に残るパレスチナ人の老人に出会った日(note *6)。8日目, 10月5日は, ハイファから日帰りでナザレへの旅をし(note *7), ナザレから「ハイファに戻って」(note *8), そして翌日, ハイファから向かったのはテルアヴィヴ(note *9, *10; 10月6-9日)。テルアヴィヴに3泊4日滞在した後は, エルサレムに戻って旧市街を歩いたり近郊のキブツに出かけたり(note *11,10月9-10日)。その後, 10月11日には エルサレムから日帰りの旅で西岸地区の街 ヘブロンへ(note *12)。さらに 10月12-13日も西岸地区内の街に日帰りの旅をし, それぞれ ビルゼイトにある大学, ナブルスにある大学を訪問して, 学生たちと様々なことを話した(note *13)。10月14日は滞在地に留まり(東エルサレム), エルサレム旧市街をあらためて歩いた(note *14)。そして 1983年10月15日は日帰りの旅をして ナブルスの大学を再訪, 2日前とは別の学生たちといろいろな話をした(note *15)。

本章, 以下は 関連 note リンク。

*−1 ノーベル賞の季節になると思い出す, 2016年ノーベル文学賞受賞のボブ・ディラン。ディランの 恥知らずなイスラエル支持ソング は, 1982年イスラエルのレバノン侵攻と同年9月のレバノンにおけるイスラエル同盟者であったキリスト教右派民兵たちによるパレスチナ難民等虐殺事件(ベイルート, イスラエル軍が包囲したサブラ・シャティーラ難民キャンプにて)の直後に書かれ, 1983年リリースのアルバム "Infidels"(「異教徒たち」)に収録。

なお, この一文は(文字通り「この一文」!), 今も胸くそがわるくなる ボブ・ディラン 恥知らずな 1983年リリースの イスラエル支持ソング についての上掲 note と, 以下の 1983年の自分の旅 note との間に距離を置くための一文なり。

*1 再びの アンマン(ヨルダン), 1983年9月26・27日 〜  第3章で 1983年4月26日に日本を発って, 中東(西アジアおよび北アフリカ)諸国の旅に向かう前までの振り返り: ソ連 および ヨーロッパ諸国, その前の第2章は, ギリシャ・アテネからトルコ・イスタンブールに移動した後の ここまでのイスラーム圏(ムスリム多数派)の国々, 旅 note 振り返り 〜 トルコ, シリア, ヨルダン

*2 パレスチナ, 1983年9月28・29日 〜 ヨルダン川を渡り イスラエルによる国連安保理決議違反 軍事占領下の西岸地区に入る

*3 ベツレヘム(パレスチナ) 〜 1983年9月30日

*4 ジェリコ, マサダ死海; 1983年10月1, 2日 〜 そして2021年のいま白昼堂々とパレスチナ人に対する民族浄化の行為を行なうイスラエル

*5 エルサレム旧市街と「ホロコースト記念館」(ヤド・ヴァシェム) 〜 エルサレムの東西; パレスチナ/イスラエル見聞録, 1983年10月3日

*6 ハイファ(48イスラエル, 47イギリス委任統治領パレスチナ)への旅 〜 1983年10月4日

*7 ナザレ(48イスラエル, 47イギリス委任統治領パレスチナ)への旅 〜 1983年10月5日

*8 ハイファ(48イスラエル, 47イギリス委任統治領パレスチナ)に戻って 〜 1983年10月5日

*9 テルアヴィヴ/48イスラエル 〜 ディアスポラ博物館を訪ね, 街ではパレスチナ人達にも会い(1983年10月6日から翌7日)

*10 テルアヴィヴ/48イスラエル, 1983年10月7-9日 〜 ガザから来ていたパレスチナ人一家, そして テルアヴィヴのユダヤ人, パレスチナ人

*11 エルサレムに戻って, 1983年10月9-10日 〜 見たり聞いたり考えたり思い出したりキブツに行ったり.. 

*12 ヘブロン, 被占領地パレスチナ 〜 1983年10月11日, 4月26日に日本を発ってから169日目

*13 被占領地パレスチナの街にて, パレスチナの大学を訪ねた; ビルゼイト と ナブルス 〜 1983年10月12, 13日

*14 エルサレム旧市街 にて 〜 1983年10月14日, 4月26日に日本を発ってから172日目

*15 ナブルス の 大学 を再訪 〜 1983年10月15日, 4月26日に日本を発ってから173日目

ふーっ, と(自分が!)一息ついてから次章へ。

パレスチナ/イスラエル問題 概観

前章にもリンクを付した以下 note 投稿の中の「ハイファに戻って」旅 note に入る前の第2章が パレスチナ/イスラエル問題 概観 〜 2021年の今も続くパレスチナ人の悲劇, 「ナクバ」(その前の第1章は「48イスラエル」, 「47イギリス委任統治領パレスチナ」)。

さて, 38年前のイスラエルによる軍事占領下パレスチナのガザ地区へ。

ガザ, 被占領地パレスチナ 〜 1983年10月16・17日(写真6枚)

写真 1/6 

画像19

写真 2/6

画像20

写真 3/6 何やらゲームに興じるパレスチナ人のおじさん達(次章 旅日記 5/12

画像21

写真 4/6

画像22

写真 5/6

真ん中が当時23歳と1ヶ月の日本人「貧乏旅行」バックパッカー。つくづく俺は身長低いね(「公称, 笑」165センチ, 実際は164センチ, 2021年の今や「還暦」過ぎて更に縮んだかも, 爆)。

画像23

写真 6/6 何処からどう見ても, 右から2番目はパレスチナ人ではない。上の写真の真ん中の男と同一人物と思われる!(この写真だけ 1983年10月17日)

画像25

さて,

次章と次々章は 旅日記。

ガザ, 被占領地パレスチナ 〜 1983年10月16・17日(旅日記12ページ)

旅日記 1/12 

最下部の2行の上は 1983年10月15日の分で, 以下 note でも掲載。

旅日記のこの頁の最初の3行は, 世界の「経済」や「産業」の中で 日本のそれが, 結局は日本という国そのものが, あたかも「飛ぶ鳥を落とす勢い」であるかに見えた 1983年当時, その頃の世界における日本のイメージの一端が見えるような話。これについては, 上掲 note で取り上げた。

画像1

旅日記 2/12 

ホステルで早く朝めし食って部屋にもどると, 女の子が下着 下1枚, 上もだらしないの1枚で, 洗面台の前に立ってる。下のは半分近くずり落ちてまして, ああ目の毒! ヨーロピアン, アメリカンには けっこうこんなのがいる。

貧乏旅行バックパッカーが泊まる旅宿のドミトリーは男女相部屋も珍しくなく, こういうこともぜんぜん珍しいことでなかった。にもかかわらず「ああ目の毒!」なんて(面白がって?)書いてるのは, やっぱ, まぁ若かったからかな。若いってのはいいもんだ(意味不明, 笑)。

それはさておき, エルサレムを発ち, いよいよガザへ。現在の軍事封鎖下の環境と違い, 当時はヨルダン川西岸地区と同様に(もちろんイスラエルによる!)軍事占領下だったガザへ!

画像25

ヤッファであった2人に会う。

テルアヴィヴにいた時に会った, ガザから来ていたパレスチナ人のこと。現在の(もちろんイスラエルによる)封鎖下のガザでは考えられないことだが, 詳しくは以下 note テルアヴィヴ/48イスラエル, 1983年10月7-9日 〜 ガザから来ていたパレスチナ人一家, そして テルアヴィヴのユダヤ人, パレスチナ人

旅日記 3/12 

キブーツを訪れたかどうか きかれた。なぜか キブーツ か ムシャー か, かも きかれた。

「キブーツ」とは キブツ。「ムシャー」というのは, 言わば「(ユダヤ教の)宗教色の強いキブツ」みたいなものかな。「ムシャー」は, 上掲のテルアヴィヴ滞在時に関する旅 note の第4章の中の旅日記 12/12 のところで出てくる言葉。

キブツを訪ねた時のことは, 以下 note エルサレムに戻って, 1983年10月9-10日 〜 見たり聞いたり考えたり思い出したりキブツに行ったり..

ツァイオニスト

Zionist, 英語の発音をカタカナ書きすると ザイオニスト が近いかな。微妙。

ピーエルオー

もちろん PLO のことだけど, イスラエル官憲による手荷物チェックの時などに日記を捲られて面倒なことになる危険性を小さくする目的で, 日記では PLO のことはいつもわざわざカタカナで書いていた。

画像3

日本の成功の秘密をきかれたので, fortunately 平和にくらせてることと勤勉さをあげた。各地でたくさんの Japanese products を見たが それがいいことなのか わからん と言うと, 彼らは何のうたがいもないように, good だといった。

まぁそんな時代だったのだ。失われた20年というか30年というか, とにかく 2021年の今現在の日本は明らかに「凋落」傾向にあるけれど(経済のこと, 政治の方は昔から三流だからね日本は!), 当時の日本ははっきりと「飛ぶ鳥を落とす勢い」に見えていたんだね世界から。

note 2021年の今, 今や「凋落」の一途を辿る日本が, その昔は「飛ぶ鳥を落とす勢い」に見えていた(あくまでも「見えていた」), その当時の世界における日本の立ち位置を, ピンク・フロイド "The Final Cut" (1983), ダイアー・ストレイツ "Love Over Gold" (1982) で振り返る

さて, 1983年10月16日の被占領地パレスチナ, ガザに戻って。

旅日記 4/12 

ガザにも入植してるか ときくと, "Yes"

今のガザ地区はイスラエルによる軍事封鎖下にあって人の出入りも物資の搬入出も厳しく制限された「世界最大のゲットー」と形容されるような状態になってしまっているが, 上述の通りで当時はガザ地区からパレスチナ人が出て移動すること自体は困難ではなかった。しかし一方で, ヨルダン川西岸地区(当時も今も)と同様に当時のガザ地区はイスラエルによる軍事占領下にあり, これも西岸地区(当時も今も)と同様, 占領地内に国際法違反のイスラエル人(ユダヤ人)入植地が作られていた。そして, これも西岸地区(当時も今も)と同様, イスラエルが国際法違反の入植地を作るためにパレスチナ人の家屋を破壊したりもしていた。

筆者が旅した時から20年後, 依然としてガザ地区がイスラエルによる軍事占領下にあり同地区にイスラエル人(ユダヤ人)入植地が建設されていた 2003年, ガザ地区で占領者イスラエルによるパレスチナ人家屋の破壊を止めさせるために全くの非武装で活動し, まさにその活動の最中, それでもパレスチナ人家屋の破壊を続けようとするイスラエルのブルドーザーによって轢き殺されたのが, アメリカ人の平和活動家 Rachel Corrie だった(享年23歳)。

note 母国であるアメリカ合州国が加担し続けるイスラエルのパレスチナ人弾圧を止めさせようとして, イスラエルに殺されたアメリカ人女性 Rachel Corrie

つまり, イスラエルのシオニストはパレスチナ人を殺す。そして, アメリカ人も殺す。シオニズムによるパレスチナ支配の為には。

画像4

夕方以降と早朝は, パレスチナ人は海岸 歩けんとのこと。イスラエリ・ジープが走ってると言う。
ホテルから海岸の途中に イスラエルの "general"(軍そうとく か?)の office がある。国旗。ジープ。ソルジャー。街にも ソルジャーのジープが走ってる。

「国旗」とは, 言うまでもなく, 占領者イスラエルの国旗。

旅日記 5/12 

画像25

この時の「現実」の詳細やコトの真偽は定かでないが, そういうのは何処にもあって, その街を歩いてみただけだけど, 当然のようにフランスの「花の都」パリにもあったし,

同じく「冷やかし」(「の・ようなもの」)程度に場所に行ってみただけではあるが, これも旅 note に書いていたように, ムスリムが圧倒的に多い国トルコ最大の都市イスタンブールにもあった。イスラーム圏なら無い, なんてことはないわけだ。

旅日記 6/12 

画像6

アホがいてもいーじゃないか。

ええじゃないか, ええじゃないか。

とは関係ない。人間万事塞翁が馬, いや, その言葉はここでは違うね, これはどうでしょう, 人間なんて ♫

俺は拓郎ファンでは全くなかったし, 今もぜんぜん違うけれど, 人間なんて, 疲れるとこういう歌の気分になるかな(笑)。

旅日記 7/12 ここから, 1983年10月17日

画像7

ガザの街, ホテル前の中心の通りをしばらく歩く。銃を持ったソルジャーが歩いている。パトロールのふんいき。3人ぐらいの組で。街を走る, ソルジャーの乗ったジープの数も多い。

ソルジャー」とはもちろん, イスラエル軍の兵士。1967年6月の軍事侵攻以来, 同年11月の国連安保理決議242号をはじめとする複数の安保理決議に違反しながら占領を続けるイスラエル軍の兵士。

旅日記 8/12 

画像8

旅日記 9/12 

画像9

旅日記 10/12 

67年以前は エジプトに行くのはカンタン。

「67年以前」とは, 1967年6月のイスラエルによる軍事侵攻(六日戦争, 第三次中東戦争)以前という意味。1948年のイスラエル「建国」に伴う第一次中東戦争の後, 1967年6月のイスラエルによる軍事侵攻・占領の前までは, ガザ地区はエジプトが統治していた(1948年以前は勿論, 「イギリス委任統治領パレスチナ」の一部, 詳しくは本 note 第2章)。

画像10

旅日記 11/12 

やはり 海岸は 夕方(7時)以降と朝, パレスチナ人は歩けん とのこと。ソルジャーズやジープ。

画像11

旅日記 12/12 

このホテルの経営者も アラブが何もしないことを言った。
パレスチナの旅は 本当に オレを疲れさせた。日本に帰ってからも 考えさせられることになろうが, とにかく明日で マッサラーマ だ。

とにかく明日で サヨナラ だ。しかし パレスチナ のことを巡って考えることは, あれから38年経った 2021年の今も 続いている。そして, 不幸なことに, パレスチナの人々の苦悩・苦境は, 今も続いている

画像12

イスラーム圏を旅している間, あまりに宗教心が強い相手との話の中では 面倒くさくなって「神を信じる」もしくはそれに近いような意味のことを言ったことはあった。今なら絶対に例外なく言うが, I am an atheist と, はっきりと。

God is a concept by which we measure our pain. I'll say it again. God is a concept by which we measure our pain, yeah. Pain, yeah ♫

And so dear friends, you just have to carry on.
The dream is over.

Yes, I just have to carry on ... さてさて。

被占領地パレスチナ・ガザ地区を発ち, 占領者イスラエルの腹立たしくも厳しいチェックを経て, 陸路, 次の目的地エジプト・カイロへ 〜 1983年10月18日(旅日記6ページ)

旅日記 1/6 

画像25

旅日記 2/6

ここで言う「国旗」とは, 国連安保理決議違反の占領者イスラエルの国旗。「銃を横にした」というのはつまり, いつでも射てる(撃てる)ように構えてるということになるのだが, 占領下のパレスチナではそういう構えのイスラエル兵を見ることなど全く珍しいことでなかった。

画像14

旅日記 3/6

上掲の旅日記・前頁にある通り, 欧米人の団体ツアーの旅行者たちには厳しいチェックなどなかった。しかし, パレスチナ人は占領者イスラエルの官憲によって徹底的に調べられ, パレスチナ人と共にボーダーにやってきた俺も, かなり厳しく調べられた。

オレは最初から最後まで 露骨に不快の表情を示してやった。旅行術としては, ホントはこういうときは ニコニコしてるのがベストなんだが。

画像15

エジプト ボーダー に着く。

こうして, 38年前, 1983年秋の パレスチナ/イスラエル の 3週間の旅は終わった。

旅日記 4/6

エジプト側ボーダーにて,

日本のパスポートで 実際にはノーチェック。

少なくとも当時, 前項までのパレスチナ/イスラエルにおける事例は別として, 世界の多くの国々で(入国管理の官憲の前などにおいて), 日本のパスポートの「効き目」は強かった。

画像16

旅日記 5/6

エジプトの首都カイロで泊まったホテルは「ペンション オックスフォード」。名前だけ豪華な感じで, 実際には貧乏旅行バックパッカーが集まる安宿。パリで泊まった「ホテル ヘンリーIV世」(もちろん安宿, 超安宿, フロントはピストル持ってたし, 泊まった部屋ではネズミが出た, 笑)みたいなもん。名前だけ立派。

画像17

旅日記 6/6

画像18

1983年10月19日, エジプトの首都カイロでの 2日目。カイロ滞在中のことについては, 次回の旅 note にて!

さてさて, note の締めは相変わらず, 音楽で。

FREEDOM 〜 Richie Havens ♫

今日はこれ, お, リッチー・ヘブンス, 俺の嫁さんと誕生日同じだ(もちろん生年はぜんぜん違うよ)。

FREEDOM 〜 Richie Havens (January 21, 1941 – April 22, 2013) LIVE at Woodstock 1969


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?