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イスタンブール再訪(1983年10月26日-11月8日)

1983年4月26日に日本を発ってから 6ヶ月 〜 ソ連・ヨーロッパ諸国・トルコ・シリア・ヨルダン・パレスチナ/イスラエル・エジプト, ここまでの振り返り

横浜港をフェリーで発って2泊3日の船旅で当時のソ連・ナホトカに向かったのが 1983年4月26日。その後, ソ連・ヨーロッパ諸国・トルコ・シリア・ヨルダンを旅した後, ヨルダン川を渡ってイスラエルによる軍事占領下(1967年6月以来, 2021年11月の今も同じ)の被占領地パレスチナ・ヨルダン川西岸地区に入ったのが, 同年9月28日。3週間の パレスチナ/イスラエル の旅を終え, イスラエルによる軍事占領下の被占領地パレスチナ・ガザ地区を出て陸路 エジプトに向かい同日, 首都カイロに着いたのが 10月18日。カイロを発って, あの旅で初めて飛行機を使ってトルコ最大の都市イスタンブールを再訪したのが, 10月26日

1) 1983年4月26日 に日本を発って, ソ連から北欧を旅し, さらにヨーロッパを南下, イタリアの旅に至るまで, 日本を出る前についての note と旅の間の各国各都市の旅 note それぞれへのリンクは, 以下リンク先 note の第3章以降に

2) 1983年7月11日 から 30日間滞在した ギリシャ(アテネとサントリーニ島)の旅 note それぞれへのリンクは, 以下リンク先 note の第2章に

3) ギリシャ・アテネからの2泊3日の列車旅で 1983年8月11日 にトルコ・イスタンブールに着き, その日から同年9月28日 までのトルコシリアヨルダンの旅, その各国各都市の旅 note は, 以下リンク先 note 及びその第2章(note リンク)。

4) 1983年9月28日, ヨルダン川を渡って イスラエルによる国連安保理決議違反, 軍事占領下のヨルダン川西岸地区に入り, パレスチナ/イスラエル 3週間の旅を開始。

5) パレスチナ/イスラエル 3週間の旅 note 15本は, 以下リンク先 note とその第1章に付したそれぞれの旅 note へのリンク

6) ピラミッドと大都会の喧騒と 〜 エジプト, ギザとカイロ, 1983年10月18-26日

イスタンブールを初めて訪れたのは 1983年8月11日, 3週間滞在

ギリシャの首都アテネから 2泊3日の列車旅で, トルコ最大の都市イスタンブールに着いたのは, 1983年8月11日

1) トルコ・イスタンブール, ガラタ橋で眺めた夕日 〜 1983年8月15日, 日本を出国して112日目

2) トルコ・イスタンブール 1983年8月16-17日, Sultan アフメト・モスク, ボスポラス Straits 〜 Sultans of Swing, Dire Straits ♫

3) イスタンブールは「旅心」の琴線に触れる街 〜 トルコ, イスタンブール 1度目の滞在・旅 note 第3編(1983年8月18日から8月31日)

4) イスタンブール番外編(タイトル写真は 1983年11月16日のイラン・イスラム共和国の首都テヘラン市街, 筆者撮影)

さて, いざ, 

2度目の イスタンブール へ。

イスタンブール再訪 〜 エジプトの首都カイロを発って, トルコ最大の都市イスタンブールに戻った日 〜 旅日記

8泊9日滞在したエジプト

を発って, あの旅で初めて使った飛行機で, カイロからイスタンブール へ。その日の旅日記の2ページ分(最初のページ冒頭に記載の "Pension Oxford" はカイロの安宿, ゴージャスな名前とは裏腹に世界のバックパッカーが「結集」する安宿)。

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やっぱり いい。街のフンイキといい, アラブとは全然違う。おちつける。休める。ああ休める。もう すずしい。今日はかなり曇ってる。

アラブの人が見たら気をわるくするだろうけど, これにはワケがある。一つには既に 3週間滞在した経験があるイスタンブールには旅人の心が休まる「何か」があったということ(前章にリンクを載せた以前の note 何点かに書いたけれど, でもまぁその本質を上手く書けていたかどうか疑問), そして少なくとも当時, 自分が行ったアラブ諸国の旅はトルコのそれと比べてハードだったこと(交通, だけでなく例えばシリアの独裁政権はトルコの軍事政権よりも社会に緊張感を与えていた; 少なくとも旅人にはそう感じられた, 等々), また 3週間 旅したパレスチナ/イスラエル(当然ながらこの地域については「アラブの旅」という一言で表わせるところではないが)での見聞と言えば, 当時もイスラエルによるパレスチナ弾圧は酷いもので, いわゆるパレスチナ問題の背景や歴史を知る者の眼で見ると尚のこと深刻さが感じられ, またパレスチナの多くの若者たちと話し, 被占領地での抑圧された日常を感じとることは当然ながらハードなものだった(言うまでもなく当事者である彼らパレスチナ人たちの日常のハードさそのものとは比ぶべくもないが), そしてエジプトの首都カイロは喧騒の街, あるいはカオスの街という形容が似合うところで(そのうえ宿の近くの軽食屋のおっさんに最初思い切りボラれてたことに途中で気づいて猛烈に抗議, なんていうしょーもないこともあった, 笑)。まぁ上手く言えないが, とりあえず思い出して羅列してみた, 上に引用した件, 当時の日記に書いたことの言い訳になりそうなことを!

「イエニ」とは, 1度目のイスタンでも泊まったイエニペンションという名の安宿のこと。1泊, 当時のレート(1USドルが250円程度の時代だった)で, 日本円にして200円也。

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あのイラン人 2人 は, 1週間ぐらい前に ローマへ発ったとのこと。どうも ニューヨークへ行って働き, 日本にも行く希望があるらしいのだが .........
日本の社会は 彼らのような人たちには 冷たいからなぁ。
よく日本人の部屋に来て, いっしょにつりしたり, 料理をつくって食べたりしたとのこと。最後の夜も楽しかったようだ。

「つり」は釣り。文の繋がり上ヘンだけど, まぁ日記だから(笑)。要するに「部屋に来て」, 誘いあるいは誘われて 釣りをしに出掛けたり, 「料理をつくって食べたりしたとのこと」(釣りは多分, ガラタ橋にて; 次章の写真 5) 参照あれ)。なお, 「あのイラン人 2人」とは, 以前の note に書いた, あの「イラン人兄弟」のこと。

note イラン革命(1979年) 〜 1983年8月, トルコ・イスタンブールで同宿したイラン人兄弟から聞いた話を, 当時の旅日記で振り返る

日本の社会は 彼らのような人たちには 冷たいからなぁ」, 残念ながらそれは今も変わらない。変わってほしいけれど。基本的に, 日本社会は彼らのような境遇の人たちに対し, 依然として冷たい。 

次章は, 写真。

イスタンブール再訪 〜 写真13枚

有名なモスクや夏の陽射しを浴びる美しいボスポラス海峡など, イスタンブールでのその種の写真は, 前々章 イスタンブールを初めて訪れたのは 1983年8月11日, 3週間滞在 に付した以前の note 何点かに載せているので, 興味ある方は是非そちらを!

2度目のイスタンブールでの写真は, ちょっと違う趣で。何しろ最初の2枚が.. だからなぁ(笑)。

1) 1泊, 当時のレート(1USドルが250円程度の時代だった)で日本円にして200円也だったイスタンの安宿イエニペンション, ドミトリー(相部屋)の自分の部屋にて。1983年10月28日, 当時23歳と1ヶ月と17日の日本人「貧乏旅行」バックパッカー(拙者である, 笑)。

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2) イスタンの街の床屋で, 髪を切ったのだ。英語が通じなくても, ミリタリーとかアーミーとかソルジャーとか言えば, 適当に坊主頭にしてくれる。

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3) 1983年11月2日, 果物を売る人, 買う人, 道ゆく人々。こういう光景は, イスタンに限らず, 世界中どこで見ても愛おしい。「愛おしい」ってのは, 大事に思う, って意味合いで。 

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5) 1983年11月3日, イスタンの市民と, そして旅人にとっての, 憩いの場, ガラタ橋の近く。

ここで 釣りしてる人, 多し。

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6) 懐かしのガラタ橋。

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7) これも 1983年11月3日

あ, 間違えた, 当時の旅日記によれば「今日は ボスポラス海峡冬景色の船旅に行った」「ボスポラス海峡冬景色(強引に冬にする。実際もう冬に近いが)はヨカッタ。曇り空がまた良かった」「日本の会社がつくったというボスポラス大橋は確かに立派なもの」。ボスポラス大橋は, 写真 11) と 12)です。

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13) ガラタ橋に戻ってきた。

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さてさて,

次章は, 2度目のイスタンを発った日の旅日記。

2度目のイスタンブールを発って, 首都アンカラに向かった日 〜 旅日記 Part 1

イスタンブールには 1度目は 3週間, そしてこの 2度目は 2週間滞在した。合わせて 5週間。イスタンはほんと, いいところだったなぁ。

ただ, 2度目の滞在の際, その最後の最後の方で, 酷く不快なことがあった。原因はイスタンの街でもトルコ人でもない, 一人の日本人バックパッカー。こいつはほんと不快極まりない奴で, かなり頭に来たので, こいつが酔っ払って語ったバカげた話の中身や自分が応答した内容などなど, 当時の日記に詳細に書き残してある。

「武士の情け」(笑)で名前は明らかにしないけれど, いつかどんなバカだったか note に書いたっていい。昔の話だし, その後まともな奴になったことを祈る。まぁどうでもいいけど(基本, 気分わるいので少なくとも今日のこの note で詳細は書かないけれど; 笑), 要するに, 以下の日記の冒頭に記載の「きのうのヤツ」。   

その日, 1983年11月8日 付の旅日記 3ページ(3ページ目は冒頭のみ, カットした部分はアンカラに着いた翌日の日記部分)。2ページ目以降は次章。

「きのうのヤツ」はくだらないヤツだったけれど(「きのう」その場にいた「けい子さん」も呆れてた), 「けい子さん」はいい人だったなぁ。翌年2月の帰国後, 3月下旬頃だったか東京で一度会ったけれど, 今もきっと東京か日本の他の何処かの街か, あるいは世界の何処かの街で, 元気にしているはず!   

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彼女は, インドなどでバスの屋根に自分の荷物を乗せることなども, 人に頼むのがいやで, 自分で背負って上り, 自分で乗せたとのこと。イランを通るコースを, 男に同伴させてもらったことも, すごく大きなことだったようで, 女だろうと, 人に負担になったり, 迷惑かけたりするのがイヤだと言う。

イランを通るコースを, 男に同伴させてもらったこと」, これは欧米の人間だろうが日本人だろうが, 女性バックパッカーは皆してたこと。つまり, イラン・イスラム共和国(「イスラム革命」後, まだ4年だった)を女性が一人で旅することはほぼ不可能だったのだ。同国の法律以前に, 少なくともイランの官憲や「イスラム共和制」支持者たちにおそろしく奇異に見られ, 旅など続けられなくなる。筆者がトルコの次にイランを旅し, その後パキスタンを旅し, そしてパキスタンから陸路 インドに入る直前に知り合ったドイツ人女性バックパッカーも, イランとパキスタンはやむなく男性バックパッカー同伴で行動していた。

2度目のイスタンブールを発って, 首都アンカラに向かった日 〜 旅日記 Part 2, 「また久しぶりに 1人にもどる。独特の緊張感。夜ということもあり, 1人の旅発ちは 気をひきしめる。オレは この緊張感が好きだ。街の灯。列車の窓から見える 夜の街並み。東へ東へ。」

長ったらしい章見出しだな。でもほんと, あの日の夜のあの時の気持ちは, そのとき見た光景(光景自体はもちろん朧げになっているのだが)と共に, 今も忘れられない。 

当日の旅日記, 2ページ目と3ページ目(は冒頭のみ, カットした部分はアンカラに着いた翌日の日記部分)。

因みに「みの虫ゴトーくん」と「ヤツ」(前章, 旅日記の前頁で言及した「きのうのヤツ」)は 以降読めば分かる通り 別人物、念のため。

日記

上掲の旅日記の最後の5行から, 下掲の旅日記次頁にかけて。T.L. はトルコの通貨トルコ・リラ。あの日の夜のこと, ここに書いたことは, 38年経った今でも はっきりと記憶に残っている。要するに, あのときの気持ちは, そのとき見た「今は既に朧げになっている」光景と共に, 「鮮やかに」思い出せる。

オレは ガラタ渡って 右のところから 船で ハイダルパサへ。(30T.L.)
駅につく。兵隊がいる。
8:55 PM 発。アンカラへ。
また久しぶりに 1人にもどる。独特の緊張感。
夜ということもあり, 1人の旅発ちは 気をひきしめる。
オレは この緊張感が好きだ。
街の灯。列車の窓から見える 夜の街並み。
東へ東へ。 

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人には 人 それぞれの旅がある。

余談: 旅日記にちょっとギョッとすることが書いてあった 〜 トルコの次(イラン)の次の目的地パキスタンで旅人が射殺されたという事件

下部に掲載するのは, 旅日記の 1983年11月5日付と11月6日付の間にあるメモ(メモ自体は以降の旅のプランについての思案メモ)。見開き2ページの右頁, その右上部分の記載を引用すると, 

今年, パキで 女を写真にとってたアメリカ人が 1人, 問答無用で射殺されたとのこと。要注意!

「パキ」はパキスタン。まぁ残念ながら, この種のことは, 時としてある。注意に越したことはない。一般に, イスラーム圏の国で 無造作に 例えば街を歩く女性を写真に撮ったりする行為は(それは撮り方次第で他の文化圏においても非礼ではあるけれど), 極めて非礼な行為, というか彼らの価値観からしたら思い切りアウトローな行為であって, 危ない目に遭う危険性が高いのは確か。だからこの被害者の行為が軽率だった可能性は高い。しかし, だからといって被害者の責を言うだけで終わったら, それはいくらなんでも無茶苦茶だろう。一般論として言って, それぞれの文化は尊重されるべき(何故わざわざ「一般論として言って」と書いたかと言うと, 一例を挙げれば, 例えば一部のイスラーム圏の国で女性がヒジャブを被らずに外を歩いたからと逮捕したり牢獄に入れたり鞭打ちの刑にしたりするようなことを是とするような特定の国に固有の価値観は, もはや人類としての普遍的な価値観のもとで排除されるべき考え方だから)ではあるが, だからと言って殺していいはずはないだろう。そんな「報い」があっていいはずがない(以下の日記見開きページの写真の下に, 続く)。

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文字通り残念なことだが, パキスタンでは当時, 他にもこの種のこと(要するに要注意マークが付けられるような悪評となること)があった。これもバックパッカー仲間の間で有名な話だったけれど, ラホールの宿であるバックパッカーが部屋を出て街を散策した後, 部屋に戻ってくると, 地元のおまわりがいて, 「お前, コカインを隠し持っていただろ?」。そのバックパッカーには全く身に覚えがないことだったのだが, どうやらその "おまわり" は宿側の誰かと悪の繋がりがあったのか, 彼の部屋に忍び込んで彼がコカインを保持していたかのように仕掛けていたようで, しかしそれで即お縄, 牢屋にぶち込まれた挙句, 日本円にして(被害者はヨーロッパの何処かの国のバックパッカーだったと記憶)数十万円の持ち金を罰金として強奪されたと。たまりませんね。もちろんパキスタン全体からしたらごく一部のこと(人)であって, いい人, やさしい人, 親切な人は他の国同様にいるのだが(いたのだが), パキスタンがバックパッカーの間でそういう名高い, 悪名高い, 評判よろしくない(ところがある)国であったのは事実。少なくとも当時。

因みに, 上に引用した件は人の命を奪うというこの上なく残忍な行為であるが, パキスタン・イスラム共和国では, 近年も, イスラームの預言者ムハンマドに関連してたった一言疑問を呈した Asia Bibi という名のパキスタンでは宗教的少数派であるクリスチャンの女性が, その一件で blasphemy(宗教上の冒瀆, ぼうとく)の罪に問われて死刑宣告を受け, 何年も収監された後に減刑されて牢獄から出た後も, 今度は数千人規模の原理主義者たちが「Asia Bibi に死を」と叫びながら街をデモ行進する, などということが起きている。あの国に宗教的な(イスラームの) hard-liner, つまり強硬主義者, 極めて頑固者で石頭の強硬派, 原理主義者が今も多いのは確か。この話, 長くなったなぁ!

そんな話は, 例えばこの note にも書いてます(パキスタン一国の件ではない)。

話が, 今日の note のタイトルからだいぶ遠くに行ってしまったような。ま, いっか。「いっか」というのはこの話の展開がってことで, 当然ながら本章で取り上げたようなことが起きている現実は, ぜんぜん良くないけれど。 

ではでは, 最後は, つまり note の最後は, またまた音楽で。

Road to Nowhere 〜 Talking Heads ♫

今日の締めは, トーキング・ヘッズ。

Road to Nowhere 〜 from Talking Heads' 1985 album "Little Creatures" ♫

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.8.31 加筆/削除/編集)。

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