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母の思い出

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激動の人生を歩んだと言われる母の思い出、母の日記に書かれていたエピソードです。
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着物を着て役に立ったこと

着物を着て役に立ったこと

 ここのところ、大正生まれの100歳のおばあちゃんが具合が良くないというので、頻繁に行っては話を聞いたりしている。
 その時に、些細なことだけど、着物を着ていくとちょっとだけ喜んでくれる。やっぱり、少し昔を思い出すらしい。着物を着るようになって、初めてくらいに役に立った気がする。あなたが着物着るようになるなんて不思議ねえ、昔は洗濯するのも大変でね、という話をうれしそうにしてくれる。

続・おばあちゃんの話

続・おばあちゃんの話

 100歳になるおばあちゃんが少し具合が悪いというので、ここのところ何回かお見舞いに行っていた。おばあちゃんは話す分には元気で、なんとはなしに、今まであまり聞いたことのなかった昔の話をとりとめもなく聞いていたが、いや改めてどの話もおもしろい。やっぱり、100歳になる人の話というのはなんであっても今聞いておくべきだなぁとつくづく思う。

 このおばあちゃんはぼくの母方の祖母、つまり自分がこのnote

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おばあちゃんの話

おばあちゃんの話

 この前、ぼくのおばあちゃんに久しぶりに会いに行きました。おばあちゃんとは、自分の文章の中でもよく出てくる自分の母親のお母さんです。大正12年生まれで、今年数えで100歳になります。いろいろ話を聞いてきたので、忘れないうちにここに書いておこうと思います。

 小さい頃、鳶の親方に抱っこしてもらい、原宿の家の庭を歩いたことを覚えている。400坪の家。女中さんや庭師さんがたくさんいる家だった。
 鳶の

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親が離婚するということ

親が離婚するということ

 こう言ってしまうと身もふたもないが、親が離婚するというのは、子供にとってはつらいものである。
 やっぱり、できることなら自分の両親は仲良くいてほしい。親ガチャじゃないけれど、何も裕福であるとか社会的地位が高いとかでなくたって構わない。最低限仲良くさえしていてくれればそれでいい。特に、両親の不仲で苦しんだ人の中では、そういうふうに思う人も多いのではないだろうか。
 つまり、地位や名誉は別に親が持っ

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昭和の小学生、ネパールに行く(7)_Nepal in 1979

昭和の小学生、ネパールに行く(7)_Nepal in 1979

 1979年、小学2年生の時に初めての海外旅行で母と二人でネパールに行きました。最終章です。

 さて、1980年1月4日の今日はネパールを発って日本に帰る日である。ほぼ帰るだけなのだが、40年前の旅程も面白いかと思い、とりあえず母の日記に書いてあるまま書いていく。

 午前中はお土産を買いに母はカトマンズの街に出たそうだ。ぼくはもう行きたくないと言ってホテルにいたらしい。母はホテルに十二時過ぎに

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昭和の小学生、ネパールに行く(6)_Nepal in 1979 カトマンズのごちそう

昭和の小学生、ネパールに行く(6)_Nepal in 1979 カトマンズのごちそう

 1979年、小学校2年生の時に初めての海外旅行で母とネパールに行きました。

 さて、地獄の深夜特急、ネパールのジャッカルがいる山中で真夜中にタクシーがガス欠になり、間一髪のところ赤十字の車に救出された大源太くん母子は、明け方の四時に命からがらカトマンズのホテル・ブルースターにたどり着いた。一緒のツアーだった方の部屋を貸してもらって少し仮眠し、八時半に朝ごはんを食べてから部屋が割り当ててもらって

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昭和の小学生、ネパールに行く(5)_Nepal in 1979 決死の深夜行軍

昭和の小学生、ネパールに行く(5)_Nepal in 1979 決死の深夜行軍

1979年、小学2年生の時に初めての海外旅行でネパールに母と行きました。

 ネパール旅行5日目。今日は1980年の元旦である。今はわからないが、ネパールはこの時は太陽暦ではなかったので、街中は特に普段と変わることはなかった。
 昨日何かに当たって寝込んでしまっていた大源太くんの具合もすっかり良くなった。
 今日はポカラからカトマンズに戻る日なのだが、朝からものすごい霧が立ち込めていて、とても予定

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昭和の小学生、ネパールに行く(4)_Nepal in 1979 湖とヒマラヤ

昭和の小学生、ネパールに行く(4)_Nepal in 1979 湖とヒマラヤ

1979年、小学校2年生の時に初めての海外旅行で母と一緒にネパール行きました。そのときの記録です。

 この日は12/31。
 たいてい、インドやらネパールに初めて来た人というのは、なんらかお腹の具合を悪くするものと相場が決まっている。この時初めて海外旅行に来た大源太少年も、朝食の時にパイナップルジュースをおかわりして飲んだのが良くなかったのか、気持ちが悪くなってそこから丸一日寝込んでしまう。
 

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昭和の小学生、ネパールに行く(3)_Nepal in 1979 ポカラへ

昭和の小学生、ネパールに行く(3)_Nepal in 1979 ポカラへ

 ぼくが1979年、小学2年生の時に母とネパール旅行した時の話です。

 3日目は12/30。この日はカトマンズからポカラに行くことになっている。カトマンズにまず2日程度滞在してからポカラに行く、なんていうのは今でも定番のコースなんじゃないかと思う。
 ポカラはカトマンズよりもヒマラヤに近くてのどかな観光地で、ネパール旅行をする人にはとても人気の町だ。

 ただ、1979年当時は今とは多少事情も違

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昭和の小学生、ネパールに行く(2)_Nepal in 1979 王宮へのパレード

昭和の小学生、ネパールに行く(2)_Nepal in 1979 王宮へのパレード

 1979年、私が小学校2年生の時に母と行ったネパール旅行の2日目である。

 2日目は、ネパールの王様の誕生日。王宮へのパレードがあり、昨日のテンジンくんの家からよく見えるので、ぜひ来るようにと誘われていた。この日はもともとヒマラヤマウンテンフライトというものに行く予定だったようだが、何やら飛行機の故障で飛ばないことになってしまったので、お誘いに甘えてお伺いすることになった。

 パレードは十二

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昭和の小学生、ネパールに行く(1)_Nepal in 1979 カトマンズ

昭和の小学生、ネパールに行く(1)_Nepal in 1979 カトマンズ

 自分が初めて行った外国は小学校2年生の時のネパールである。当時は1979年なので、その時代の日本人の小学生でネパールに行った人というのはあまりいなかったんじゃないかと思う。
 これまでも何度か記事に書いてきたが、うちの家族は山や自然に何かと縁があったこともあり、チベットだのネパールだのという単語は家の中で日常的によく出ていた。実際に父は仕事の関係でその近辺はよく訪れている。その時父がお世話になっ

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小学生、嵐の剱岳に挑む

小学生、嵐の剱岳に挑む

 両親が山岳部の出身ということもあって、小さい頃からおよそファミリー向けでないようなハードな夏休みを過ごすことも多かった。
 その中で、今でもはっきりと光景も覚えているのが、小学五年生の時に家族で行った剱岳・立山縦走である。
 その様子は、例の母の日記に詳しく記されており、なかなか臨場感にあふれているので、今回はほぼそのまま引用しながら説明していきたいと思う。

7/30
 富山までの飛行機の切符

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母の飛躍と苦悩

母の飛躍と苦悩

 これは、私の母親が、私が小学校四年生の時に書いていた日記からの抜粋である。前回まででも触れたが、母親はその頃、ある転機を迎えていた。つまり、積極的に外に向かって自分の考えを発信していくようになったのだ。中国登山隊に同行した時の記録をタウン誌に連載することになり、その原稿を書いている中で思ったのが、上の一節である。やっぱり、日本の同調圧力社会というのは別に今に始まったことではなく昔からのことで、当

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母が飛躍した時

母が飛躍した時

 ぼくたち兄弟は、岩手県のおじいちゃん・おばあちゃんの家で史上最高の夏休みを満喫した。前まででも書いたが、別に元々田舎が岩手県なわけではない。おじいちゃんの会社が倒産してしまい、夜逃げ同然で逃れた先が東北の地だったのだ。でも、そんな悲しいいきさつなど全く関係なく、とにかく楽しかった。
 そして母親も、約1ヶ月間に及ぶ中国天山山脈登山隊への参加を終え、帰国した。これまで家庭の世界しかほぼ知らなかった

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