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#61 紅葉についての愛を語る

 文化の日、久しぶりに休みの半日を使って、ここ1年2年で読んだ本や映画を整理。紙の日記帳に一旦記録したものを、せっせせっせとExcelに転記しているのだが、これが意外と骨が折れる。

 ここのところ、暇さえあれば本を読んでいる。ついこの間まで読んでいたのが、『硝子の塔の殺人』。知念実希人さんの作品を読むのはこれが初めて。ミステリー自体は昔から好きでよく読んでいたのだが、いわゆるクローズドサークルと言われるような閉じられた世界、とりわけ一風変わった館で巻き起こる殺人がなぜか妙に苦手だった。

 というのも、この手の設定では誰が犯人なのか推理するのがどうにも億劫で、うまく想像力を働かせることができなかったからだ。あまりにも考えすぎて、もういっそのこと解答編まで待てなーいとページを捲りたくなる。ミステリーマニアの人には怒られそう。

 ともあれ、今回読んだ『硝子の塔の殺人』はそんなトラウマじみた思いを消し去るかのようにすいすい読み進めてしまった。気がつけばあっという間に読み終わっている。随所に他のミステリー作品も紹介されていて、思わずニヤニヤ笑いながら読んでいた。口調がちょっと慣れないが、読み終わった時になるほどなるほどと呟いてパタンと本を閉じた。(先に解決編読まなくてよかった……!)

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 色とりどりに染まる木の下で、平穏な時間と共に、ページを捲り続ける。

 秋はまた先週と打って変わって、暖かい日差しに包まれた気候に変わっている。気持ちも自然と穏やかになる。この季節は日差しが柔らかくて、写真を撮るときも明らかに他の季節とは異なる柔らかい雰囲気の作品となる。気持ちが明るくなる。子供が落ち葉を中空へ放り投げ、はしゃいだ声で走り回っているではないか。

 私が住んでいる地域も、葉が次第に色づきを増していく。風に揺られて、時々一枚また一枚と葉っぱが落ちていく。この時期は「枯葉」(Autumun Leaves)を聴きたくなる。歌詞の入っているものでも良いし、Bill Evansを始めとしたジャズバージョンも良い。ベストは枯葉を聴きながら、そよふく風の下で落ち葉をサクサクと踏みしめ、さりげなくカフェラテを飲むのだ。

 葉が舞う姿を見ながら「枯葉」を聴いていると、なぜかいつも思い出す物語はオー・ヘンリーの『The Last Leaf』。最後の希望はいつまでも散らない。人は信じるものがあれば、心強く生きることができる。何事も覚悟なのかもしれないな。たぶん、いくつになっても学ぶことはたくさんある。

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 軽やかにすぅ、と息を吸い、それからまたゆっくりと息を吐き出す。

 楽しいよなぁと思う。日本以外でももちろん紅葉を見ることのできる場所はあるのだが、やっぱり住み慣れた日本で見る紅葉は感じ入るものがある。寂しさの中に、半分くらい温もりがあるような気持ちにになってくる。葉っぱがいつもとは違う色に染まるだけで、なぜにこんなにも心弾む気持ちになるのだろう。

 そういえば海外で見た時の紅葉と比べると、日本の紅葉ってバリエーションがあるよな、ということに気がついた。公園や山で見られるだけではなく、例えば神社仏閣であるとか城であるとか。結構いろんな形で組み合わせることができる。光の差し方も多様性に満ちている。

 日本古来のイベントって、海外のものと比べるとド派手なものが少ない。ハロウィーンだとかイースターデイとかクリスマスだとか。私がかつてカナダに住んでいたときは、それこそ何かしらのイベントにかこつけて皆派手にパレードをしていた。もう、毎回どこからそんなお金が出てくるのかしらと思うくらい派手に。

とにかく毎日パレード!

 カナダを訪れて半年くらいはとにかく楽しかった。ほぼ毎週のように何かしらイベントがあって。友人たちからも、パーティーに誘われる。もはや誰に誘われたのか分からないくらい彼らは毎日パーティーなのだ。ほぇ、これがいわゆるパーチーピーポーというやつか!最初は物珍しくて楽しかったはずなのに、いつからか誘われるたびにちょっと疲弊している自分がいたりして。

 だから改めて日本に帰ってくると、海外とは対照的なイベントの過ごし方に正直ホッとした自分がいた。これだ、日本は奥ゆかしさだとかわび・さびだとかを大切にしてきた民族なんだよ。はらりと落ちる葉っぱに情緒を感じて、移りゆく季節を感じて、なんだか切ないねと話す。いいじゃない、人生楽しいことばかりじゃなくて寂しさを帯びた別れもあるんだよ。

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 コロナ前、よく友人たちとさまざまな場所へ紅葉狩りをしに行っていた。そう言えばなんで「狩り」とつくのだろう、と気になって調べてみたけれど由来は色々あるみたいだ。貴族が紅葉を眺める様を「狩り」に例えただとか、実際に見ている時に葉っぱを取っていただとか。紅葉「狩り」はあるのに、桜「狩り」がないのは不思議。もしかすると、それほど深い理由はないのかもしれない。

 記憶の砂を浚うと、今でもふわっと思い出すのは六義園だった。園内の中にある茶屋で和菓子を食べることができる。差し出された菓子を少しずつ少しずつ咀嚼していく。風流な時間だね、と一緒に行った友人たちと互いに言い合ったこと。静かに時が流れていた。彼らのうち何人かは結婚して、会うことが少なくなってしまった。ほんの少し、寂しくもある。

 紅葉を見ながら、昔の人々は俳句を詠んでいた。おそらく愛しい誰かを思い浮かべながら。月や星を眺めると同じように。赤と黄色は、エネルギーを発する色だ。静けさとは裏腹に、その実内部では迸る情熱が渦巻いていたのかもしれない。見えないギャップに打ちのめされる。

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 久しぶりに紅葉で囲まれた公園には、思い思いの時間を過ごしている人がいた。その姿を見ると、本当に日常の平和を感じる。今もどこかで辛い出来事が起きているのかもしれない。訪れる前には、悲しい出来事があったかもしれない。それでも色づく葉を見ると、大丈夫、大丈夫だよと思えてくる。最後の一枚が木に残り続けるまで。明くる日の希望と共に。

 私たちは、こうして儚い一生を終えるんだ。できることなら蝉のように、体を震わせ続けて、死にたいと思った。死んだ目のまま生きるなんてまっぴらだよ。常に前を見続けて、何事にも愛を持って。

 そうして世の中は少しずつ、動いているのだから。


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