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#38 夢についての愛を語る

モモ、ひとつだけ君にいっておくけどね、人生で一番危険なことは、叶えられるはずのない夢が、叶えられてしまうことなんだよ。

『モモ』ミヒャエル・エンデ p.276

 ときどきどうしようもなく恐ろしい夢を見ることがある。

 はっと目を覚ました時に、背中にはじんわりと冷汗がしたたり落ちている。夢を見ているときには、薄ぼんやりとこれは幻想だと自覚をしているのに、体が動かない。疲れているのだろうか。改めて目を覚ました瞬間、その内容をはっきりと自分の中で思い出すことができないのだ。

 今わたしの中で継続している「#愛について語ること」の記事の中でヘッダー画像をお借りしているtenさんの記事。tenさんはいつも素敵なイラストと共に文章が載せられていて、拝見するたびに胸が温かくなるし、それとどこか胸の奥がツンとなる。なにか、昔置き忘れてしまったものを探し当てたような気持になってくる。

 tenさんの記事が好きだなぁと本能的に思うわけです。いつかtenさんが個展を開く日を今から楽しみにしています。永い夢の中で、恐ろしい出来事があったとしても、救われた気持ちになる。長らく、本当の意味での「温もり」にもしかしたら飢えていたのかもしれない。

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夢見心地

 先日友人のスケさんと飲んでいるときに、最近試みていることとして「次の日目を覚ました時に、夢をできるかぎり覚えようとしている」のだと突然告白された。同じくカクさんも、スケさんに触発されて夢日記なるものを書き始めたらしい。「お主もやってみてはいかがだろうか」と誘われる。

 何やら楽しそうだなと思ったので、近頃できる限り見た夢を思い描こうとしている。最近だと、なぜか自分が住んでいる部屋と交換しようではないかという男性が現れて、二つ返事で「いいですよ」と答えた夢。

 その男性の部屋に行ってみると、自分の部屋よりも広くてきれいな調度品に囲まれている。これはラッキーだなと思っていたら、突然パグが現れて部屋をシャワシャワシャワシャワ歩き回るわけだ(『結婚できない男』に出てきた犬です)。気が付けば部屋のフロアは汚れていて、内装も煤けて汚れている。あれ、こんな部屋だったけと驚愕しているうちに、目が覚めたという感じ。

 起きた時に夢分析をしてみたのだが、これは単純に最近鳩がわたしのベランダに現れたことが大きく起因しているような気がしてくるわけだ。なるほど、割と日常の悩みというのが色濃く反映されるわけか。

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甘美な響き

 夢、というのは甘美な響きを伴っていると思う。

 日常生きていたら本当に自分の思い通りにいかないことばかりで、なんでこんなにも現実って荒れ狂う波みたいにウネウネしているんだろうなぁとよく働き始めのころは考えていた。それから数年たって、今の仕事にも慣れてきて平穏な日々を過ごしているけれど、何か物足りない。

 そんな最中、ひとつ自分の先行く航路を明るく照らす物事のひとつに、「夢」があるのではないかと思うようになった。人によっては、それを野望と表現するのかもしれない。この年になっても様々な物事に対する夢は尽きない。きっとそれが、生きる上での酸素かもしれないし、潤滑油なのかもしれないと思ったりする。──きっと、毒薬にもなりうる。

 まだまだ行き足りない国があって、いつかアフリカ横断なんてこともしたい。今持っているダイビングのオープンライセンスは、レスキューまで取りたい。いつかどこか部屋を間借りして、カレー屋もやりたい。なにか新しいコミュニティを作る活動もしたい。自主映画も、撮りたい。文章で食べていけるようになりたい。

 挙げだすと、キリがない。そうしてうず高く積まれた夢の残骸は、今見返すと何やら高尚なものに思えてくるのだ。いつか塵になって、雲散霧消になる運命だとしても。いつ叶うかどうかもわからない果てしない夢と、ほんの少し背伸びすれば届きうる夢。様々な粒度と重量を持ったカケラたちがあたりにコロコロと散らばっている。

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果てのない道に見える終わり

夢を奪われた人間には、眠りにも目覚めにも生死にも意味がない。
夢は人間に与えられた権利よ。

インド映画『シークレットスーパースター』

 昔観た、アーミル・カーンが制作・主演を務めた『シークレット・スーパースター』という映画が個人的にはとても印象に残っていて。歌うという夢を叶えたい少女が、まっすぐに突き進むストーリー。内容はシンプルだったけれど、なんか好きな雰囲気だった。

 いつだって、終わりは突然やってくる。足音もなく。いつ何時、自分の物語の幕が下りるかもわからないのだ。人は手が届かないと一度思うと、それが最初は欲しくないと思っていたのに、気が付けばどうしようもなく欲しいと思ってしまう。憧れと、夢。

 自分のもとを去ってしまった人たちのことを考える。もう呼びかけても会うことができない人たちがいる。かつて彼や彼女たちと交わした言葉を思い出そうとする。いつの間にか私は幾星霜もの時間の流れを経て、思い出は過去になりつつある。夢は夢のまま、箱の中にそっとしまわれている。

 菅野さんが、折あるごとにひょんなことから知ったウィリアムキーツという人物に対して、並々ならぬ愛を語ることも無理ないことだと思った。夢のように存在していたかどうかもわからない存在。何かに吸い込まれるようにして惹きつけられていく。情熱と冷静の間。

 いっときモネやマネ、ドガをはじめとする印象派の絵画を飽くなく眺めていた時があって。よく企画展が催されることを聞くと、現地に赴いていたのだけれど、絵画を見て回った日にはギリギリまで体力を削られた。そのままベッドへダイブしてスヤァと眠れるほどに。私は、彼らが描く物語から彼らの壮大な夢を見て取ったのかもしれない。

 細かい粒子と化した夢が少しずつ積み重なっていくことにより、それはやがて大きな愛と昇華する。何もかもを包み込むような、大きな存在に。今ははるか遠くて手が伸ばせないのかもしれないけれど、きっといつかはその頂まで届くような気がする。

 それが今の私にとっての生きる意味だし、愛を語ることの理由だと思う。


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